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第一章 旅立ちの刻 【2】 |
アヴィーは、このトゥーラン分神殿に住む十四歳の神官見習い、という事になっている。
神官見習いと言えば聞こえはいいが、実際は居候の身だ。もっとも、この分神殿にはアヴィーのほか、子供達に勉強を教えている女性神官ネリアが一人いるだけの、ごくごく小さい神殿である。居候が一人いたところで誰に文句を言われるわけではない。 肩までの黒髪に華奢な体。紺色の瞳は深い夜空を写したようだ。村の子供の中では年長者の部類に入るが、飛びぬけて大人びた少女である。大人びているといるより、無表情で感情をあまり表に表さない、子供らしからぬ子供といえよう。それでいて子供達に懐かれているのが、不思議なのではあるが……。 特に親しい友人もいないが、誰から嫌われているわけでもない。ちょっと風変わりな少女というのが、リネル村での彼女に対する評価だった。 「……あなたがここにきて、もう五年も経つのね」 お茶のカップを傾けながらしみじみと言うネリアは、アヴィーの母親マルシャの従妹にあたる。かつて西大陸にあるトゥーラン本神殿にて修行した仲だと話してくれた事があった。 血の繋がりが薄いせいか、ネリアとアヴィーはあまり似ていない。ネリアは小麦色の髪をしているし、瞳も薄い緑色で、なにより喜怒哀楽のはっきりした人間だ。子供からも好かれている。大人からも慕われているし、年頃の女性だけあって求婚者も絶えないらしいが、彼女は信仰にその身を捧げているのだといって断り続けているらしい。しかし、半分位は自分の存在があるからだ、とアヴィーは確信している。 ネリアはアヴィーを実の妹か娘のように可愛がってくれる。大好きな従姉の子供だというだけでなく、純粋に子供好きで面倒見の良い人なのだ。 そのネリアを頼ってマルシャとアヴィーがここにやってきたのは五年前。そしてやってきてまもなく、マルシャは病でこの世を去った。 残されたアヴィーはネリアが有無を言わさず引き取り、それ以来二人の暮らしが続いている。 「……そろそろ、神官となるための勉強をする気になった?」 湯気の立つカップを両手で包むようにしながら、ネリアが尋ねてくる。彼女は二年ほど前から同じ問いをアヴィーに尋ねてきた。 アヴィーは読み書きも得意で、歴史や神話の知識も十分に持っている。神官になるには十分素質があると言えた。 もっとも、神の声が聞こえなければ神官になる事は出来ない。それには、本人の生まれついての素養とたえまぬ努力、信仰が必要である。 しかし、やってみなければ分からないのが実情だ。事実、全くその神について知識のないものが突如神の声を聞いた例は沢山ある。 そう言って、ネリアはアヴィーに神官の道を勧めている。しかし、その度にアヴィーの返答は決まっていた。 「……私に、母のような力があるとは思えないから」 少し寂しそうな、そして何かを諦めたような彼女の表情に、ネリアもそれ以上の事は言えなくなる。そしてこの話題はいつも断ち切れるのだ。 アヴィーの母マルシャは、首都ラルスディーンのトゥーラン分神殿で司祭として仕えていた。その予知の力は神殿長をも上回っており、それどころか彼女の力は本神殿長ににさえ匹敵するとまで囁かれていたほどだ。 トゥーランは時空の双子神の一人であり、空間を司る神。"全てを知る者"と呼ばれ、占いや予知の神でもある。 そのトゥーラン神に仕える者は、未来を予見する力を持ち、神の声を聞く。しかし、彼の声を聞ける者は少ない。彼は気まぐれだ。運命が気まぐれであるように―――。 マルシャの予知は占い師よりもあたると評判で、神殿には様々な依頼主がひっきりなしに訪れていたとアヴィーは記憶している。その度にマルシャは力を惜しみなく使い、失せ物探しや結婚の相談などをしていた。おかげで、彼女は母と思いっきり遊んだり、甘えたりした事がなかった。別に拗ねているわけではないが、それが妙に大人びた考え方をし、常に冷めた目で世の中を見つめるような性格の人間になってしまった要因ではあると思ってはいる。そんなアヴィーには首都で暮らしていた頃の思い出が余りない。神殿で寝起きし細かな雑務を手伝うだけの単調な暮らしだったからだろうか。 その母マルシャが分神殿を離れ、ここリネル村のネリアを頼って来たのは、ひとえにマルシャの予知能力が告げたからだ。 本人の命の短さを。そして、残されるアヴィーの未来を。 アヴィーには、マルシャの予知は当たったとも外れたとも思えた。 マルシャが体調を崩し始めたのは、旅の途中からだ。風邪を引いてそれが悪化したのも、無理をして旅を続けたため。 もし、あの時マルシャが旅を決意しなかったら、もしかしてマルシャは命を落とさなかったかもしれない。 そう考えてしまうアヴィーに、トゥーラン神を信仰しろというのは、少々無理のある話だろう。 ―――と。 突然、穏やかな午後の日差しが凍りついたようにアヴィーは感じた。差し向かいのネリアを見ると、彼女も驚愕の表情で虚空を見つめている。 そして。 一つの意思が響き渡った。 邪竜 復活せり 世界は恐怖と混沌に支配され 尊い命 奪われん されど悲観する事なかれ 伝説の勇者 現われ 世界は再び 希望の光を取り戻さん…… 張り詰めていた空気が、ふっと溶ける。 長い時間が経ったように感じた。しかし実際には、ほんの一瞬の出来事だったのだろう。 開け放たれた窓の外からは、先ほどと何も変わるところのない穏やかな日差しと鳥の声。普段の空間がそこに戻ってきていた。 「今のは……」 呟くアヴィーに、ネリアが悲痛な面持ちで答える。 「今の神託は紛れもなくトゥーラン様のお声……。とうとう復活してしまったの……伝説の、邪竜が!」 そこではっと、、ネリアはアヴィーを見た。 「……あなたも聞こえた?トゥーラン様のお声が」 「はい。はっきりと」 聞こえた、というよりは、頭の中に強烈に意思だけが焼き付けられた。そんな感じだった。しかし紛れもなく、アヴィーは聞いたのである。トゥーランの神託を。 その事実にネリアはしばし呆然とした。トゥーランの神託は、彼を崇めるものなら誰でも聞こえるというものではない。まして、彼を信仰しない者に下されるという事はまずないはずだ。 しかし、ネリアは深く追求する事をしなかった。というより、それどころではなかった。 「こうしてはいられないわ。ひとまず、首都の分神殿に連絡をとらなければ……」 この中央大陸ガイリアで一番大きいトゥーラン神殿は、首都ラルスディーンの分神殿である。恐らくそちらでも、今の神託を受けていることだろう。ここで手を拱いているより、ラルスディーンの分神殿に協力した方がいいとネリアは判断したのだ。 「ひとまず、村長に相談してきます。アヴィー、神殿を頼むわね」 カップに残っていたお茶をぐい、と飲み干して、ネリアは部屋を足早に去っていった。 取り残されたアヴィーはしばし呆然としていたが、ふと我に返る。 (……片付けなきゃ) 机の上の茶器を一まとめにして、台所へと運ぶ。軽く洗って水切りの籠に置くと、さてどうしようかと思案し始めた。 (とりあえず、夕食の準備、かな…?) 色々と考えるべき事柄はあった。しかし、現実どんどん日は暮れていくし、しばらくすればネリアも帰ってきて、夕食を食べる事になる。 献立を考え出したアヴィーの耳に、かすかに響く声があった。 遠くから、かなり小さい声で誰かが呼んでいる。ような気がする。 (また誰かに呼ばれた気がした……。外に誰かいるの?) ひとまず、台所の勝手口を少し開けて、外の様子を見てみる。勝手口の外はまばらな雑木林が広がっている。視界はあまり良くない。 誰もいない。もしいるとすれば、雑木林の中だろう。 アヴィーは一瞬考えた挙句、静かに勝手口から外へと出て行った。 |
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