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第一章 旅立ちの刻 【3】

 静かな足音が、遠くから響いてきた。 草を踏みしめる音は、明らかに人間のものだ。
(足音……?)
 ぼんやりとした意識の中で、「彼」はその足音を聞いていた。
(……誰か来るのか……?)
 そう考えた瞬間から、意識がはっきりと鮮明になってくる。
 目の前に、木々に縁取られた空が広がっていた。どうやら、地面にひっくり返っているようだ。足やら手やら、あちこちがズキズキと痛む。そう、木の根につまずいて、盛大に転んだのだ。あの時はまだ暗闇の中だった。
(……どのくらいひっくり返ってたんだ……?)
 ―――と。
 視界の中に、突如少女の顔が入ってきた。影になっていてよく見えないが、まだ十代半ばであろう、黒い髪の少女だ。
 驚いて目を瞬かせる「彼」に、その少女は語りかけてきた。

「……あなた、勇者?」

「……は?」

 「彼」は目をまん丸に見開いて、少女としばし見つめあってしまった。

* * * * * * * * * *

「はい、おしまい」
 腕に包帯を巻き終えて、アヴィーは治療箱を片付け始めた。神殿で勉強している子供達は休み時間に取っ組み合いをしたりしてよく怪我をするので、手当ては慣れている。
 あの後、勝手口近くの雑木林の中でひっくり返っていた彼をひとまず立ち上がらせ、肩を貸して神殿まで連れて来たアヴィーは、てきぱきと彼に治療を施しながら、なぜ彼を勇者と勘違いしたかを弁明した。つい先ほど下った神託、ついで現われた青年の姿に、思わずそう期待してしまったという事を正直に話したのだ。
「……なるほど、だから俺を勇者と勘違いしたわけか」
 爆弾発言にかなり驚かされた青年も、アヴィーの話に苦笑しつつも納得する。あまりにも時期が重なっていたのだ。勘違いするのも無理はない。
 アヴィーの名誉のためにもう一つ付け加えるならば、勘違いの理由は青年の容貌にあったとも言える。
 見たところ年齢は二十代前半、少々痩せてはいるが均整の取れた体。そして、流れるような銀の髪を背中の半ばまで伸ばし、瞳は鮮やかな緑。すっきり整った顔立ちを更に際立たせるかのように、額には細い金属の輪が飾られている。はっきり言えば、美形の部類に文句なく入る風貌の持ち主だったのだ。
 伝説の勇者ファーンをはじめ、勇者と呼ばれる者達は大層な美形であったとされる。真偽はともかく、そう伝えられている。だからこそ彼女も、その固定概念につい囚われてしまった。これで倒れていたのが髭面のむさくるしい男だったりしたら、さしものアヴィーも勘違いはしなかっただろう。
「ごめんなさい」
 気恥ずかしそうな顔で謝るアヴィーに、青年はいやいや、と手を振った。
「謝る事なんてないよ。あんなところにぶっ倒れてる俺の方が悪いんだから」
 気さくな言葉遣いをしていても、育ちの良さが滲み出てくるような青年。美形ではあるが、近寄りがたいというものではなく、むしろ人懐こい笑顔は誰からでも好感を持たれるだろう。
「それよりありがとう、手当てまでしてもらって……。そういや、君はここの神殿の人?」
「そう。でも私は神官じゃない。生まれる前に父を亡くして、五年前に母をこの分神殿で亡くして、それからここに置いてもらってる」
 何の感情もこもらないアヴィーの言葉に、しかし青年は気まずい顔をした。辛い事を聞いてしまった、という思いが顔にありありと出ている。随分素直な性質らしい。
「……ごめん」
「謝る事なんてない。気にしないで」
 青年の素直さに好感を覚えて、アヴィーはそう答えた。そしてふと、重要な事を聞いていない事に気づく。
「そう言えば、名前聞いてない」
 名前はおろか素性もなぜ雑木林で倒れていたかも聞いていないのだが、ひとまず初対面の人間であるからには名乗り合うのが順当だろう。そう思い、あわてて付け足す。
「私はアーヴェル=エスタイン」
 青年がおや、という顔をする。
「アーヴェルって……」
 誰もが彼女の名前を聞くと同じ反応を返す。これは仕方のない事だ。「アーヴェル」は通常、男児につけられる名である。
 そんなお馴染みの反応に、アヴィーは簡潔な説明を付け加えた。
「亡くなった父が用意していた名前をそのままつけられた。アヴィーでいい。あなたは?」
 アヴィーに尋ねられて、青年はふと表情を翳らせる。
「俺は……俺の名前は……」
 そう呟くように言って、黙ってしまう。しばらく沈黙が続いたが、意を決したように青年は顔を上げて、そしてこう言ってきたのだ。
「思い出せないんだ、何もかも」

 彼が記憶を失っていることを自覚したのは、今から十五日くらい前の事だった。気付いた時には街道の脇にひっくり返っており、荷物や衣服に身元を証明するものは一切なかった。それどころか路銀や金目のものもなかったから、もしかしたら追い剥ぎにやられたのかも知れない。
 アヴィーが手当てをした時も、彼の体には転んで頭を打っただけではない傷がいくつかあった。どれもほぼ治りかけており、大した事はなかったが。
 理由はともかく、路銀もろくな荷物もなく、そして肝心の記憶もないまま、何となく街道に沿って歩いていた彼。途中通りすがりの旅人から近くに村があると聞き、ひとまずそこを目指した。そしてようやく昨日の夜リネル村に辿り付いた彼は、村外れの丘の上に神殿があると知り、事情を話して一晩でも泊めてもらおうと思ったのだ。
「……でも、もう日が沈んでかなり経ってたから玄関は閉まってて、きっと裏口があるはずだと思って裏に回ったんだ。そしたら雑木林の木の根につまずいて、あのざまだよ」
 青年の言葉にアヴィーはなるほど、と頷いた。 神殿の玄関口は日の入りと同時に閉めてしまう。それ以降の来客者のために、勝手口の外に魔法の明かりをつけているのだが、如何せん明かりは勝手口の存在を示すもので、辺りを照らすものではない。雑木林の辺りは真の闇に近いだろう。転んで頭を打って気を失っても仕方ないかもしれない。
 それにしては、次の日の夕刻近くまで気絶しっぱなしというのも情けないような、怪しいような気もするのだが、聞けばその記憶を失ったらしい十五日ほど前から、まともに食事をしていないと言うではないか。街道沿いの林や森で木の実を拾い、清水で喉を潤し、夜は野宿。それであれば、疲れと空腹で倒れても仕方ないだろう。
「なるほど……」
 呆れ返るアヴィーに、青年は畏まって続ける。
「とりあえずここまで歩いてきたけど、目的も何もないし……。悪いけど、落ち着くまでここに泊めてもらえないかな」
 その言葉に困ったような顔をするアヴィー。通常であれば、どこの神殿でも旅人に一晩の宿を提供する事は良くある事だ。しかし……。
「いや勿論、その分働くよ。泊めてっていっても納屋とか倉庫で構わないから。傷が治って、記憶がなくてもとりあえず暮らしていけるようにならないとさ」
 慌てて言い募る青年。記憶喪失の割には建設的な意見である。どうやら言葉や日常の基本的な事は忘れていないようだが、どこまでそれが通用するものか。
「記憶喪失の割に、随分明るい……。普通、落ち込むとか苦悩するとかするのに」
 アヴィーのもっともな指摘に、青年は明るく笑ってみせた。
「落ち込んだって始まらないだろ。ま、いつかは記憶も戻るだろうし。気長に待つさ」
 記憶をなくし彷徨って十五日。金もなく記憶もなく、不安な日々に苦悩もした。しかし、悩んでも腹は減るし喉は渇く。嘆いてばかりでは始まらない事を、彼はこの十五日間で実感していた。
 そんな彼に、アヴィーは淡々と告げる。
「ここに泊まるのはいいけど、そう長くはいられないと思う」
「なんで?」
「神託が降りた事で、ここを預かる神官は多分ラルスディーンの分神殿に行くし、私も一緒に行く事になると思う。それに、邪竜が復活したという事は、じきにに世の中が混乱してくる。こんな小さな村でも、安全とは言え……」
「あのさ」
 アヴィーの言葉を遮って、青年は気まずそうに尋ねた。
「邪竜ってなに?」

「え?」

 今度はアヴィーの目が点になる番だった。

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