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第一章 旅立ちの刻 【4】

 歴史書は告げる。
 千年の昔に繰り広げられた、勇者ファーンの戦いを。

 今から千年の昔
 心の『邪』が集まって生まれた『邪竜』がファーンの大地に現われ
 世界は破壊と絶望に満ちていった
 たくさんの命が流す血と涙に心を痛め
 神々は勇者ファーンを創造し
 邪竜を打ち倒すよう命じた
 勇者ファーンは 長い戦いの末
 邪竜を見事打ち倒し 世界に再び希望が戻った
 しかし勇者は帰らず
 今もどこか 彷徨っているという……


 歴史書を閉じて、青年はなるほど、と腕組みをした。ちなみに、青年の問いかけの後、図書室に走ったアヴィーが彼に渡した歴史書は「やさしく学ぶ歴史の本」という題名の子供向け教材だった。絵本に毛の生えたようなものだったが、それでも内容が伝われば十分だろう。
「じゃ、勇者っていうのはこのファーンの事?」
「分からない。でも、多分そう」
 ファーンの長い歴史の中、勇者と呼ばれる者は数多く存在する。例えば西大陸で邪教集団を壊滅させた勇者ラーン。閉ざされた島を開放し、新天地を求め旅立ったリー・マイス。東大陸に君臨したヴェストア帝国を打ち倒し、新たな国を作り上げた革命の勇者《銀王》ユーリスと、挙げればキリがない。
 しかし「伝説の勇者」と称される勇者は一人しかいない。彼はまさに伝説の人物であり、どの記録にも詳しい事が載っていない謎の人物でもある。
 勇者ファーン。邪竜を倒すため神々が創造した勇者。彼は邪竜が現れる時、再び姿を現すという……。
「邪竜かあ……一体どこに復活したんだろう?」
 青年の何気ない一言に、アヴィーはそういえば、と改めて考える。信託の中には場所を示すものはなかった。なんとも不親切なものだ。しかしアヴィーは
「すぐに分かるはず。トゥーラン神殿が調べる」
 と答えた。なにせトゥーランは空間の神。失せ物探しや人探しの術にも長けている。おそらく今頃、西大陸にある本神殿では神殿長をはじめとするお偉い方が、必死になってその場所を突き止めていることだろう。
「そうか。なら大丈夫だね」
 青年はそう言って、ふと今度は自分の直面している問題が表に浮上してきたのか、何か考え込み出した。
(ころころ考えてる事が変わる人……。見てて面白いの)
 そんな青年の腹が、くう、と鳴る。その音に青年は恥ずかしそうに頭に手をやり、上目遣いにアヴィーを見た。その様子がまるでお腹を空かせた犬のようで、思わず笑いそうになる。
「すぐ夕食の準備をするから」
「ありがとう!俺も手伝うよ!」
 ぱっと顔を輝かせて椅子から立ち上がる青年。まるで子供のようだ、と思いながら立ち上がり、アヴィーはお腹を空かせている哀れな旅人のために、大急ぎで夕食の準備に取り掛かった。
 どうやら調理の経験があるらしく、青年は結構器用に包丁を使い、芋の皮を剥いたり玉葱を刻んだりしている。
「……でも困ったなー。ここにも俺のいる場所がなかったら、俺は一体どこに行けばいいんだろう……」
 包丁を動かしながら呟く青年に、鍋の様子を見ていたアヴィーがそっと視線を向けた。
 しかし次の瞬間、青年は鍋から漂ってくるおいしそうな匂いに表情を緩め、そして呟く。
「ま、いっか。何とかなるさ」
(……明るい……)
 どうやら彼の頭は、長時間悩んだり考えたりするようには出来ていないようだ。アヴィーはそう納得して、鍋をかき混ぜる手に力を込めた。

* * * * * * * * * *

 月明かりが部屋に差し込んでくる。月光は冷たい光なのだと改めてアヴィーは気付く。心を透かすような、冷たくて鋭い光。静かに夜を照らし、地上を見守る。
 いつになく眩しい月光に眠気を奪われたわけでもないが、深夜過ぎてもアヴィーは眠っていなかった。 寝台に腰掛けて、今日起きた事を思い返してみる。
 色々な出来事があった。突然の神託。そして、突然の来訪者。
(面白い人)
 夕食の準備が出来たとほぼ同時にネリアが帰宅し、彼を交えて三人の夕食となった。
 その場で彼は、この神殿にネリアとアヴィーの二人しかいないという事を知り、慌てふためいて、どこか他に泊めてくれる場所を探すと言い出した。
 妙齢の女性と少女の二人しかいない神殿に泊まって、彼女達に迷惑をかけてはいけないと判断したのだろう。別に構わない、客用の寝室もきちんとあるし、神殿は困っている人間を助けるものだとネリアが言えば、納屋か物置で十分だと言い張る。そして、全ての神に誓って自分は二人の寝室には近づかないと宣誓した。礼儀正しいというか何というか、まるで高潔な騎士(しかもなりたて)のようだと二人は密かに笑ったものだ。
 そんなわけで青年は今、二つほど離れた客用寝室で眠っている。よほど疲れていたのだろう、夕食を終える頃にはすでにうつらうつらとしていたので、慌てて部屋に案内した。
 それからネリアとアヴィーは、これからについて話し合った。
 ネリアは、明日ラルスディーンに出発すると言った。アヴィーはどうする?と聞かれ、ひとまず明日の朝まで答えを保留させてもらった。
 その答えが出ていない。だからなのだ。アヴィーが眠れないのは。
(……うだうだ考えていても始まらないや)
 アヴィーは寝台から腰を上げると、静かに部屋を抜け出していった。

 礼拝堂は、神殿の中央にあった。奥にはトゥーラン神を象った石像が置かれ、その頭上に切り取られた明り取りの窓からは、三日月が覗いている。
 月明かりに満ちた礼拝堂。昼間でも神聖な雰囲気を漂わせているが、月明かりの下ではそれが尚も増幅され、あたかも神の御前に立たされているかのような錯覚に陥る。
 暗闇を怖がる子供達と違い、アヴィーは昔から夜の礼拝堂が好きだった。生まれた頃から神殿暮らしをしていたからなのか、本人の性分なのかはわからない。しかし眠れない夜など、アヴィーはよく寝室を抜け出しては礼拝堂にやってきては、神像とお話をしたものだ。
 物静かで口数の少ないアヴィーだが、物言わぬ石像相手にはよく喋った。世間話からネリアの話、母の事、そして顔も知らぬ父の事……。そしてそのまま眠ってしまい、翌朝ネリアに見つかって怒られたものだ。
 そして今日も、アヴィーは石像の前にやってきた。柔らかな巻き毛の少年として象られたトゥーラン神。その手には、世界の全てを見通すという水晶球が握られている。
「私はどうすればいい?」
 アヴィーはそっと口を開いた。少女の静かな声が礼拝堂に響く。
「私にもあなたの声が聞こえたって事は、私にも何かをさせたいという事ではないの?」
 そう。アヴィーにとってあの神託は予想外だった。
 神託は誰でも受けられるものではない。なのに、神官でもない、まして信者でもない自分が神託を受け取った、その意味。それが知りたかった。
 ――と。
 アヴィーの問いかけに答えるかのように、神像がふわっと燐光を帯び始めた。
「……!」
 呆然と見つめるアヴィーの前で、光は急速に集まっていき、そしてまるで石像から抜け出すかのように、少年の形を取って目の前に現われる。
 柔らかな銀の巻き毛、深緑の瞳。手にした水晶球は星々のきらめきを映す。 神話に描かれ、時に地上に降臨する空間の神トゥーランの姿が、まさしくそこにあった。
『……君は自由だよ』
 形の良い唇が言葉を紡ぎ出す。その声は少年のようであり、また長い時を経験した老人のようでもあった。
「トゥーラン……?」
『はじめまして、アヴィー』
 空中に浮いた形のトゥーランは、にっこり笑ってアヴィーに手を差し出す。そして戸惑うアヴィーの手を強引に握って握手をすると、優しく解き放った。
『君は、昔からこの像に話しかけてくれてたよね。祈りを捧げるのではなく、色々な思いをぶつけていた。そんな君に前から興味があったんだ』
 アヴィーは衝撃を覚えた。この神像の前で過ごした幾多の時を、トゥーランは知っているというのだ。
(ただの石の像だと思ってたのに……)
 だから色々話し掛ける事ができたのに。実は像の向こうで聞いていただなんて、ずるい。
 むっとするアヴィーに、彼は続ける。
『だから声をかけてみた。君がどうするか見たくて』
「答えになってない。私に何かをさせたいのではないの?」
 きっぱり言葉を返すアヴィーに、トゥーランは苦笑を浮かべる。
『君は面白い子だよ。僕を恐れず、自然に話し掛けてくる。君は僕にも予測できない』
 全てを知る者の二つ名を持つトゥーランに、「僕にも予測できない」と言われてしまう自分に、一瞬なんだか情けなくなるアヴィー。そんな彼女の心情を読み取ってか、トゥーランは笑顔を向ける。
『いくら未来を予見する僕でも、すべてを知ってる訳じゃないんだ。だから、僕にもこの世界の危機に君がどう動くのか分からない。だから知りたかったんだ』
 トゥーランの瞳がアヴィーを見据える。その瞳には、純粋な好奇の輝きが見て取れた。
『だから君は自由だ。僕は何も命令しない。君は好きに行動してくれていいんだ。心の赴くままに』
「本当に?」
『勿論。疑うの?』
 この僕を疑うだなんて、と言いたげなトゥーランの表情に、アヴィーは慌てて首を横に振る。
「……分かった。ありがとう」
『僕はいつでも君を見てるよ。何かあったら僕の名を呼ぶといい』
 そう言って少年神は、手にしていた水晶球をぽん、とアヴィーに放った。慌てて受け止めるアヴィーに、じゃあねと気さくに手を振って、トゥーランは自らの石像の中に吸い込まれるようにして消えていく。
 暗闇と静寂が、再び礼拝堂を支配する。
 物言わぬ石像には、もはや神の存在は感じられない。まるで、さっきまでのことは夢であったかのように。
 しかしアヴィーの手の中には、水晶球が確かにある。それこそが、夢でない証。
 明り取りの窓から差し込む月明かりに、アヴィーの横顔が照らされる。
 その瞳には、一つの固い決意が秘められていた。

「……よし、決めた」

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