<<  >>
第一章 旅立ちの刻 【5】

「勇者を探しに旅に出るぅ?!」
 大声が食堂に響き渡った。朝の爽やかな空気にそぐわない奇声に、窓の外でパン屑を啄ばんでいた小鳥が大慌てで羽ばたいて行く。
「一体どうしたんだよ?」
 困惑した顔の青年に、アヴィーは何事もなかったかのように昨晩の出来事を打ち明け、そしてけろりと言ってのける。
「トゥーラン様に言われた。思うがままに行動していいと。私は少しでも、みんなの役に立ちたいと思う」
「探してどうするんだよ。大体勇者がどんな奴か分からないんだろ?」
「分からない。でもきっと何とかなる」
「おいおいおいおい……」
 唖然とする青年に構わず、アヴィーは続けた。
「ネリアは今日にでもここを閉めて、ラルスディーンの神殿に行くと言ってる。あなたはどうする?」
 どうする、と言われて青年はうーん、と悩み出す。
「そうだなあ……」
 ひとまずここは出なければならないのだが、行くあてがない。一番簡単で手っ取り早いのは、ネリアについて首都に行き、どこかの神殿か治療所をあたる事だが……。
「……ラルスディーンにはなんか、行きたくないんだよなあ……」
 彼は記憶を失った直後あたりから、無意識に首都と反対へと向かおうとしていた。もしかしたら彼は首都の人間で、何か事件を起こして逃げてきたのかもしれない。または、事件に巻き込まれて追われているのかも知れない。
(まあ、それはないだろうけど……な)
 記憶喪失になったとはいえ、以前の自分が事件を起こすような人間とはあまり思いたくない。
 何はともあれ行きたくないのだから、ネリアには同行できない。それならば、おのずと選ぶ道は絞られてくる。
「よし。じゃあ俺はアヴィーについて行く。一人じゃ心配だし」
「ついて来てくれるの?」
 青年の言葉に、アヴィーは珍しくうろたえた。まさか彼が「ついて行く」などと言い出すとは思っていなかったのだ。
 しかし目の前の青年は、決まったからにはやる気まんまん、といった表情を浮かべている。
「俺じゃ頼りないかもしれないけど、少しは役に立てると思うんだ」
 そう言ってくる青年をまじまじと見るアヴィー。彼女自身も、さすがに一人旅は無謀かなと思っていた。この誠実そうな青年ならば旅の仲間にはもってこいかも知れない。
「ありがとう」
 素直にそう言ったアヴィーは、知らず知らずのうちにかすかな笑みを浮かべていた。それを見て、青年は嬉しそうに表情を和ませる。
(この子が笑ったところ見たの、初めてだ……)
 感情を表に出さず、年の割に大人びた雰囲気の彼女。それはそれで悪くないが、やっぱり女の子は笑っているのが一番だと、青年は改めて思い知った。
 そして、はたと思いついたように付け加える。
「それでさ、ついては欲しいものがあるんだけど」
「欲しいもの?」
 報酬、だろうか?訝しげな顔をするアヴィーに、青年は照れくさそうに言ってきた。
「俺の名前、つけてくれない?やっぱ名前ないと色々面倒だと思うんだ」
 確かにそうだ。名無しさんでは困ってしまう。
「分かった。ちょっと考えてみる」
 そう言ってアヴィーは、旅の支度をするべく自室へと引き上げていった。


「それじゃアヴィー、気をつけて。くれぐれも無茶をしないでね」
 心配顔のネリアに、アヴィーは神妙に頷いてみせる。
「ネリアも、気をつけて」
 ラルスディーンまでは乗り合い馬車で二週間ほど。大した事があるとも思えないが、妙齢の女性の一人旅は何かと危険が多い。ネリアはそうね、と頷いて、次にアヴィーの隣に立つ旅装束の青年を見上げた。
 昨日知り合ったばかりの、しかも記憶喪失な彼と共に、勇者を探す旅に出る。
 そう聞いた時、思わず自分の耳を疑ったネリア。
 しかし、一度決めたらてこでも動かない姪の性格を、ネリアはよく知っている。こう見えて結構強情なのだ。自分では自覚していないようだが。
 記憶喪失の青年が一緒、というのも些か心配ではあったが、ひとまず人の良さそうな人間だし、アヴィー一人で行かせるよりはマシだろう、とネリアは判断していた。
 少女の一人旅など、危険極まりない。それならば、多少素性が知れなくても大人がついていった方がいい。
「アヴィーの事、よろしくお願いします」
 真摯な瞳で告げるネリアに、青年も力強く頷く。しかしすぐに表情を崩して、
「もっとも、アヴィーに助けてもらう事の方が多そうですけどね」
 その言葉にネリアも微笑む。飾らない彼の笑顔には、一点の翳りもない。
(悪い人じゃないわ。それだけは確かだと思う)
 そんな人物評を心にしまい込みつつ、ネリアはもう一度青年に頭を下げ、そして神殿を仰ぎ見た。
 見慣れた石造りの分神殿。次にこの風景を見られるのはいつの日になる事か。
「それでは……」
 最後に神殿に一礼して、ネリアは足早に丘を下っていった。 そのネリアの姿が見えなくなるまで見送って、アヴィーは傍らの青年を見上げる。
「私達も行こう」
「よし!」
 足元に下ろしていた荷物を肩に上げ、歩き出そうとする青年。と、ふと大事な事を思い出し、慌ててアヴィーの背中に問い掛けた。
「で、俺の名前なんだけど……」
 アヴィーは足を止めて、振り返る。そして分かってる、と頷くと、こう告げた。
「あなたに、『アーヴェル=エスタイン』の名前をあげる」
 途端に慌てふためく青年。
「それはアヴィーの名前じゃないか」
「色々考えたけど、それしか思いつかなかった。父がくれた大切な名前。だから、あなたにあげる」
 いい加減な名前をつけたくはなかった。いずれ記憶が戻れば、仮の名前はお役ごめんとなるだろう。それがいつかは分からない。明日かもしれないし、十年経っても戻らないのかもしれない。ならば、それまで立派に世間で通用する名前を。そう考えて出した結論だった。
(どのみち、私はその名前をきちんと使う事がないんだし)
 どこからどう聞いても男名であるこの名前。生まれてこのかた、正式にそう名乗った事など片手で足りるほどだ。
「……分かった。ありがたくいただくよ。だけど君は……?」
「私はアヴィー。それでいい」
 そう言って、アヴィーは笑ってみせる。
「さあ、アーヴェル。行こう。勇者を探す旅へ」
「よし、行こう!」
 そうして二人は、石畳の道を下っていった。
 振り返る事はしない。振り返れば、未練が残るから。
 青い空に映える白い石造りの神殿は、これからもこの丘から村を見守るだろう。
 空を仰げば、澄み切った青。 風は東へ、爽やかに吹き抜けていく。

「……ところでアヴィー。俺達どこに向かってるんだ?」

「さあ?」

第一章・終
<<  >>