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第三章 失われた記憶 【2】

 夕日に照らされた海は、金色に輝いている。
 まばらに停泊する船。飛びかう海鳥の声。まるで一枚の絵画のようだと、アヴィーは思った。
 ヴェルニーはさほど大きくない港町だ。
北大陸行きの定期船も数が少なく、また交易品に乏しい北大陸との交易はさほど盛んではない。
 それに加えて現在の行方不明騒ぎで、港に停泊している船はいつもの半分以下だと、交易船の船員が教えてくれた。
 海の怪物が暴れ出したのではないかとか、狂える精霊が船を惑わしているのだとか、色々な憶測や噂が船乗りの間でも飛び交っているという。
 街中を一通り見て周り、港をうろうろしていたアヴィーは、港の外れで一休みしていた。ここには桟橋も艀もない。小さな白い砂浜がひっそりとあるだけだ。
(海……か)
 海を見るのは初めてだ。金色に輝く水平線の向こうには北大陸が広がっているというが、いまいちぴんとこない。
 静かに打ち寄せる波。穏やかな、ゆったりとした黄金色のうねり。
(海って、しょっぱいんだって本当なのかな……)
 そっと波打ち際に近づいてみる。足元に波を感じるところまで行って、そっと腰を落として手を伸ばしたところで、
「水遊びにはまだ早いぞ」
 唐突に振ってきた声に、はっと振り返る。
「おっと、驚かせちまったか、悪いわるい」
 日焼けした顔がアヴィーを見下ろしていた。顔は影になってよく見えなかったが、その声は若い、覇気のある男のものだった。
「六の月とはいえ、この海は水温が低いんだ、遊んでると風邪ひいちまうぞ」
 そう言って、男は無造作にアヴィーに手を差し伸べる。
 その動作があまりにも自然だったので、思わず何も考えずに手を借りてしまうアヴィー。
「……ありがとう」
 立ち上がり、空いた手で裾についた砂を払う。男はそっと手を離すと、改めてアヴィーを見て言った。
「お嬢ちゃんは旅人かい?この辺りの子じゃないよな」
「ええ、そう」
 こちらも男の姿を観察しつつ答える。年の頃は三十代か、日焼けした肌にぼさぼさの髭。頭に巻いた布も服装も、いい具合によれよれだ。それでも不潔な印象は受けない。恐らくはこの港で働く者か、船に乗っている人間だろう。
「あなたは、船乗りさん?」
 アヴィーの問いかけに、男はちょっと笑って頷く。
「そんなもんだ。といっても、ちっこい漁船で近海の魚を獲ってる漁師だけどな」
「それじゃ、《流れの海》に漁に出てるの?」
「そうなるな。とはいえ、今は駄目だ。まったく商売上がったりだよ」
 首を傾げるアヴィーに、男は大きくため息をついてみせる。
「定期船の行方不明は聞いてるかい?」
「聞いてる。私達は北大陸に行こうとしていたから」
「そうか・・・・・・。その行方不明事件の前後から、魚がさっぱり獲れなくなってきたのさ」
「魚が?」
「ああ。この《流れの海》はいい漁場だったんだが、ぴたりと魚がいなくなった」
「……食べられちゃった、ってこと?」
 少し考えてから紡がれたアヴィーの言葉に、男はちょっと嬉しそうにアヴィーを見つめた。
「察しがいいな、お嬢ちゃん。ま、そういう事じゃないかと俺達は考えてる。なにか大型の怪物が出て、魚をごっそり食ってるんじゃないか。それに定期船も襲われたんじゃないかってね」
 ふと言葉を途切れさせ、男は目の前に広がる海へと視線を移した。
「……こんな話を知ってるかい?二百年ほど前まで、この海には時折巨大なクラゲやらタコやら竜もどきが出没して、多くの被害をもたらしてたんだ」
 それは初耳だった。目を丸くしているアヴィーに、男は続ける。
「業を煮やした街の連中が力を合わせて、ようやっとその怪物を倒してからは、めっきり話を聞かなくなった。しかし、この騒ぎだ。そういうやつらが復活したんじゃないかってのが、この街に古くからいる奴らの間で囁かれてる噂さ」
「その二百年前みたいに、倒せない?」
 もっともなアヴィーの意見に、男は肩をすくめてみせる。
「そうしたいところはヤマヤマだがね、その時はなんでも、高名な精霊使いだかに協力してもらって、ようやっとだったらしいからな」
「なるほど……」
「ま、そういうわけで当面北大陸への海路は封鎖同然、俺たち漁師もおまんまの食い上げってことだ。お嬢ちゃんも北大陸行きは諦めた方がいいぜ」
「………」
 黙りこむアヴィー。
「どうしても北大陸に行かなきゃならん理由があるのか?」
「私は、邪竜を倒す勇者を探してる。その手がかりを求めて、北大陸に行こうとしてた」
「じゃりゅう?」
 素っ頓狂な声をあげる男。とてもではないが、こんな少女の口からそんな単語が出てくるとは思いもよらなかった。
「おいおい、冗談だろう?なんだそりゃ」
 そう言いながら少女を見る。その顔は真剣そのもので、どうやらからかっている訳ではないらしい。
「北に行けないのなら、別の場所に手がかりを探す。色々教えてくれてありがとう」
 そう言ってスタスタと街の方角に歩き出すアヴィー。その小さな後姿を男はしばし呆然と見つめていたが、ふと我に返ったように声を張り上げる。
「お嬢ちゃん、気をつけていくんだぞー!」
 その声に、足を止めて振り返るアヴィー。
「おじさんも、気をつけて。これからもっと、色々なことが起きると思う」
 そうとだけ言って、アヴィーはまた歩き出した。
 夕闇迫る砂浜に取り残された男は、頭を掻きつつ
「おじさん、ねえ……まだ若いんだがなあ……」
 と呟きつつも、遠ざかる少女の影を見つめる。そんな彼の耳に、砂を蹴って駆けてくる足音が響いてきた。
 ゆっくりと振り返り、こちらに向かって走ってくる人影を見て、やれやれと肩をすくめる。
「なんだ、もう見つかっちまったか?」
「お、お館様っ!あれほど勝手に出歩かないで下さいと申し上げましたのにっ」
 息を切らして駆けてきたのは、仕立てのいい服に身を包んだ若者。若いというそれだけの理由で、彼の従者に任命されてしまった哀れな青年だ。
「おお、悪い悪い。で、どうした?」
 ちっとも悪びれずに言ってくる男に、青年は眉を吊り上げつつ告げる。
「漁業ギルドから報告が上がってきました。ギルド長が是非、お話をと」
「分かった。行こう。こっちも気になる情報を手に入れたところさ」
「情報、ですか?一体どこから仕入れてくるんです」
「ひみつ、さ」
 呆れ顔の従者ににやりと笑い、くるりと踵を返す。そうして颯爽と波打ち際を後にする男の後ろを、慌てて従者が追いかける。
「待って下さいよ、領主様っ!!」
「そう呼ぶなって言ったろ。俺はしがない、ただの漁師さ」
「何言ってるんです、道楽もほどほどにして下さいとあれほどっ……!大体、腕悪いじゃないですかっ。今までに一度も大漁旗なんか揚げたことないくせにっ」
「……お前、結構酷いこと言うな」
 傷ついた顔をしてみせながら、男は頭に巻いた布を取る。零れた豊かな赤髪は、夕日に染められてあたかも紅蓮の炎の如く照り輝いていた。
「邪竜、ね……」
 少女が告げた言葉。それが本当かどうかは分からないが、本当であれば大変な事態に世界は直面している事になる。
「?何か仰いましたか?」
 首を傾げる従者に何でもない、と手を振って、男は足を速めた。


「それじゃ、北行きは諦めて別の手がかりを探すか」
 夕食の最後にお茶をすすりながら、アーヴェルはこともなげに言った。
「どのみち、どうやっても北大陸には行けそうにありませんしね。しかし、北大陸の現状を知りたいところですね。一体どうなっているのやら……」
 同じくお茶のカップを傾けながらリファ。夕食はなかなかの量と味だったが、この辺りの味付けは些か塩辛い。食後のお茶で口の中の塩辛さを流す必要があった。
「なあ、リファ。魔法でぱぱっと飛んでけたりしないのか?」
 アーヴェルの言葉にリファは苦笑する。
「そんなことが出来たら、苦労しませんよ。大体……あ」
 何か思い当たったらしく、リファはお茶のカップを置いて服の隠しをごそごそとやると、何やら雑記帳のようなものを取り出した。
「確か、北大陸の魔術協会に「遠見の鏡」があったはずです。あれがまだ使えれば様子だけでも見られるかも……」
「なんだ、その「遠見の鏡」って?」
「魔術をかけた一対の鏡で、その鏡に映った映像は、どんなに距離があってももう一つの鏡に映し出されるんです。遠距離の連絡用に作られた鏡ですが……」
 帳面をめくり、お目当ての情報を探すリファ、やがて手を止めたリファは、そこに書かれているらしい文面を読み上げる。
「「遠見の鏡」を北大陸と西大陸の連絡用に設置……。ああ、でもこれは今から四百年も前のことですね。今も使われているかどうか……」
「四百年?壊れてんじゃないか、そんな昔のもんじゃ」
「魔法の品は壊れにくい」
 それまで黙って聞いていたアヴィーがそう解説をいれつつ、リファに向き直る。
「魔術士の中には、遠見の術を使えるものがいるって聞いた。あなたは、使えない?」
 昔読んだ物語には、水晶球に遠くの景色を映し出す魔術士の姿がよく出てきた。そう思って聞いたのだが、残念ながら、とリファは首を横に振る。
「使えないわけではありませんが、あれには専用に作った媒体、つまり道具が必要なんです。あいにく私はそれを持っていませんし、作るには時間も材料もかかりますからねえ……まして、ここから北大陸を覗くにはちょっと距離がありすぎます」
 それより、とリファはアヴィーに問いかける。
「あなたはトゥーランに仕える者。空間を見通す術を使えたりは……」
 静かに首を横に振るアヴィー。
「使えるなら、あなたに聞いたりしないでとっくにやってる」
「ごもっとも……」
 それに、と呟くようにアヴィーは付け加えた。
「私は……トゥーラン様に仕える神官じゃない。母はそうだったけど、私は違う」
 アヴィーに予言を与えたのは、トゥーランの気紛れだと言う。確かにあの時トゥーランの予言を聞き、そしてその夜トゥーラン自身にも会った。しかしアヴィーを神官として任命したわけではない。その証拠に、アヴィーはこれまでにいくつかの神聖術を試してみたものの、全くといって発動しなかった。
「そうですか……」
 リファはアヴィーの家庭事情を知らされてはいなかったが、あえて何も聞こうとはしなかった。
 そして少しの間、三人の間に沈黙が流れる。
 それを打ち破ったのは、やはりアーヴェルだった。
「それじゃ、急いで西大陸の、その鏡のところまで行こう!そうすりゃ少しは何か分かるかもしれないだろ」
 明るいアーヴェルの声に、どこか沈んでいたアヴィーの顔も自然と明るくなっていく。
「そうですね。それに西大陸には知識神ルースの本神殿もあります。古い記録を調べられれば、邪竜について何か分かるかもしれません」
「そうしよう」
 アヴィーも頷いて、ようやく新たな目的地が定まったところで
「えー、北大陸に行かないのぉ?」
 と水を差す声がどこからかかかる。げっとアーヴェルが腰の剣を見るやいなや、そこからポンッと小さな人影が飛び出してきて、机の上に飛び乗ってきた。
「行きたかったのにぃ〜」
「こ、こら馬鹿!目立つようなまねするなっつーの!」
 慌てて小さいジーンを捕まえようとするアーヴェルの手をするりとかわして、小さなジーンはひょいとアヴィーの肩に乗る。
「ご主人様ぁ、あの男ぎゃーぎゃーうるさくってアタシ嫌いよ」
「てめぇっ!」
 だんっと立ち上がるアーヴェルに、ひらりと空中を舞って、その鼻先に小さな指先を突きつけるジーン。
「なによ、やるっての?」
「ああ、やってやろうじゃないか。大体なあ……」
「二人とも止めて」
 珍しくアヴィーが止めに入ったかと思ったら、なるほど周囲の視線が、突然立ち上がって怒声を上げた青年と、その鼻先でからかうようにひらひら飛んでいる妙なものに注がれていた。
「やばっ……」
「あちゃ……」
 頭を抱える二人に、次の瞬間人が群がって大騒ぎになった事は、言うまでもない……。
「本当に、賑やかで楽しい人達ですねえ〜」
 一人状況を楽しんでいるリファののほほんとした声が、二人の耳に届いたかどうか……。

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