<<  >>
第三章 失われた記憶 【6】

「そろそろ見えて来ましたね。あれがシルトの町、この町を過ぎればルース大神殿までもうすぐですよ」
 丘の下に広がる町並みを示すリファに、二人の顔が明るくなる。
 マールの森を五日がかりで抜け、久しぶりに拝んだ町並みは、なんだかとても新鮮に感じられた。
「来る日も来る日も森ばっかだったから、なんだか嬉しくなっちゃうな」
「そうよねえ、森の中って空気はおいしいけど、虫は出るし苔は生えてるし、枝にひっかかって鞘に傷はつきそうになるし、いやになっちゃうわよねえ」
 いつもの如く剣からぽんっと出現したジーンが、珍しくアーヴェルの意見に同意する。
「私は、結構好き」
 そういうアヴィーは、最初の頃こそ慣れない森歩きに難儀していたようだが、慣れてくると森の木々や草花の種類をリファに教わったり、鳥の鳴き声をあてたりと、かなり楽しんでいたようだった。
 ガラニドに降り立ってからすでに十日ほど。アヴィーの故郷であるリネル村を発ってから、早二月弱が経過している。
 この間にも邪竜は力をつけ、それを崇める者達も勢力を拡大しているかもしれない。しかし、彼らには自分の足で移動する以外に方法はなく、なによりも情報がない。
 街道ですれ違った交易隊の話では、この大陸でも怪物達の凶暴化や、怪しげな集団の噂が広まりだしているという。レイド王国の首都ヴィルレイドからやってきた旅人は、この異常事態にレイド国中が警備体制を強化しており、街や村への出入りが厳しくなって大変だと漏らしていた。
「レイド王国は北大陸との交易が盛んですから、この異常事態にいち早く気づいたのでしょう。現在の国王はとても聡明な方と聞いていますが、賢明な判断ですね」
 とは話を聞いたリファの弁だ。首都は大きな港を抱えており、そこから毎日北大陸行きの船が出ているという。その船も、ヴェルニーの港で聞いたのと同様、行ったまま帰ってこない船が後を絶たず、また向こうから来るはずの船もやってこないという状況らしい。
 北大陸への心配は募るばかりだったが、心配事は他にもあった。リファの言葉を聞き、急に様子がおかしくなったアーヴェルである。
 翌日、何事も無かったように起きてきた彼をリファとジーンが問い正したが、アーヴェルは何も覚えていなかった。同じくアヴィーも、寝ぼけて何か言ったかもしれないとは言うものの、それが何だったかは覚えていなかったのだ。
 その出来事以降、ふとした瞬間に考え込む事が多くなったアーヴェル。しかしそんな彼を、アヴィー達は見守る事しか出来なかった。
 そんな彼は、時折心配そうに自分を見ているアヴィーに向かって、事もあろうにこう言って来るのだ。
「何はともあれ、旅を続けよう。動かないことには何も始まらないよ。大丈夫、きっとなんとかなるって!」
 自分だって記憶がない事に不安を覚えているのだろうに、それでもアヴィーを気遣うアーヴェル。その笑顔を見ていると、考えたって分かりようもない先行きに不安を覚えていた自分が、なんだか馬鹿ばかしくなってくる。
「そうですね。先に進めば、何か見つかるかもしれません。勇者さまも、アーヴェルの記憶だってね」
「そうよご主人様、元気出して!アタシがついてるじゃない」
 心強い旅の仲間の言葉に、アヴィーも力強く頷き、再び歩き出したのだった。
 そうして三人は街道を進み、五日目の夕刻近くなって、ルース本神殿のある街に一番近い町シルトに到着した。
「いやぁ、なんとか日暮れまでに到着してよかったな」
 旅人の話では街や村も出入りに関して厳しくなっていると言っていたが、町の入り口で多少の質問を受けただけで、すんなり入る事が出来た。それには、一行の中にガイリア神官である(らしい)アーヴェルの姿があった事が大きい。ガイリアは十神のうち唯一、治癒の術を信者に授ける神。その神官となれば、人々からの信頼は厚い。
「さて、どうしましょうか」
 町の中央にある広場を横切りながら、リファが口を開く。
「もしよければ、私はルース分神殿にちょっと行って来たいんですけど」
 シルト村の入り口で分神殿の位置を村人に尋ねていたリファは、もっと詳しい地図が欲しいのだという。
「今持っているのはちょっと古いんですよ」
「そうなのか?」
「ええ。この間交易隊の方に見せてもらった地図を見たら、大分色々変わってましてね」
「あーっ、アタシもアタシも!」
 ポンッと剣から飛び出たジーンが、元気よく手を上げてリファの腕にしがみつく。 人目を配慮してか、いつものド派手な服装から旅人風の衣装に衣替えしている。しかしやはり、目立つ事には変わりない。
「別に構いませんけど…どうしました?」
「だって、最近の状況がどーもよく分かんないんだもん。なにしろ、五百年も寝てたのよ?」
「それはそうですね」
 一方、アヴィーはアーヴェルを見上げて尋ねていた。
「私たちはどうする?」
「そうだな。特にする事もないし……宿でも探そうか」
 そう言いながらアーヴェルが辺りを見回していると、広場の外れからこちらに向かってくる人影が見えた。
 その人影を見て、アヴィーが呟く。
「……ガイリアの神官様」
 その言葉に、一瞬体を振るわせるアーヴェル。しかし以前のように意識が飛ぶ事はなく、そのまま近づいてくる人影を凝視する。
 アヴィーの言った通り、近づいてくる人影は光と命を司る女神ガイリアの神官である証の、簡素な白い神官服に身を包んでいた。
 このような穀倉地帯では、豊穣を司る女神としてガイリアを奉るところが多い。 すれ違う人達と気さくに挨拶を交わしている様子からして、この町のガイリア分神殿に仕える神官なのだろう。
 夕日が沈み、次第に夕闇が濃くなって行く中で、白い神官服に身を包んだその女性は、まるで光を帯びているような鮮烈な印象をアヴィー達に与えた。
「こんばんは、旅の方。シルトへようこそ」
 アヴィー達に話し掛けるその声は、柔らかな風のように優しく耳に響く。
 女神ガイリアの声を聞けたとしたら、こんな声なのではないか。アーヴェルは不謹慎なその思いつきを、すぐにひっこめた。その神官が、アーヴェルに向かって静かに会釈したからだ。
 慌てて会釈を返すアーヴェルに、神官は続ける。
「宿をお探しなら、私どもの神殿においで下さい。この町の宿は、ルース大神殿に参る参拝客ですでに満員とのことですから」
「でも、迷惑じゃ……」
 そう尋ねるアヴィーに、神官はいいえ、と首を横に振る。
「すでにお一人、旅の神官さんが宿泊していらっしゃいますし、少々手狭ではありますが、それでもよろしければご遠慮なく」
「どうします?アヴィー」
 リファに話を振られ、アヴィーは神官を静かに見つめて頷いた。それを受けて、アーヴェルが畏まった口調で答えを返す。
「それでは、お言葉に甘えさせてもらいます」
「はい、それではご案内しましょうね」
 早速歩き出す神官に、慌ててリファが口を開く。
「では、アヴィー。私とジーンはルース分神殿に寄ってからそちらに参ります」
「じゃ、またね♪」
 そう言って離れる二人に、神官が呼びかける。
「私どもの分神殿は、時計台のすぐ真向かいにある建物です。入り口には話を通しておきますから、どうぞいらして下さいね」
「はい、ご親切に」
 リファの言葉にどういたしまして、と微笑んで、神官はアヴィーとアーヴェルを引き連れて分神殿へと向かって歩き出した。
 その後姿を静かに見つめるリファに、ジーンが怪訝そうな顔で尋ねる。
「?どうしたのよ、リファ」
「……いえ、なんでもありません」
 リファの態度に首を傾げるジーンだったが、リファがスタスタと歩き出したのを見て慌てて後を追った。
「ちょっとぉ、置いていかないでよっ!」


「それでは、どうぞ。こちらです」
 案内された神殿内の一室は、古びてはいたがきちんと整えられていた。
 扉を開け、中でくつろいでいた人物に話しかける神官。
「リーバー神官。旅の方がみえましたので、相室をお願いしますか?」
「あ、はい。勿論です」
 神官に続いて入ってきたアヴィー達に、リーバーと呼ばれた青年は、さわやかな微笑みで出迎える。
「こんにちは、旅の方々。俺は中央大陸のガイリア本神殿に仕える神官、ゲイル=リーバーです」
 二十代前半の、見るからに好青年といった雰囲気のゲイルは、案内してきた神官やアーヴェルと同じような額当てと簡素な白い神官服を纏っていた。彼もまた、ガイリアの神官なのだろう。
 礼儀正しい挨拶に、アヴィーも挨拶を返す。
「私はアヴィーです。こっちは……」
 アヴィーの後ろ、扉に半分隠れていたアーヴェルが慌てて部屋の中に体を移す。と、途端にゲイルの表情が変わり、椅子から立ち上がってアーヴェルに走り寄ってきた。
「ユーリー!お前、無事だったのか!」
「ユーリー?」
 突然のことに戸惑いの表情を浮かべるアーヴェルに、しかしゲイルは尚も言葉を重ねた。
「死霊使い討伐に向かったきり戻らないから、てっきり……。良かった。生きてたんだな……」
 アーヴェルの肩を親しげに叩くゲイルは、心の底から喜んでいるようだった。しかし、アーヴェルの表情はどんどん戸惑いの色を深めていく。
 ユーリー。それが自分の名前なのか。このゲイルという人間は、本当に自分の知り合いなのだろうか。
 困り果て、アヴィーを見る。するとアヴィーは、静かにアーヴェルの瞳を見つめ返した。その深い、静かな水面のような輝きに吸い込まれるように、アーヴェルの心は次第に落ち着きを取り戻していく。
 そんなアーヴェルの心中に気づく事もなく、ただただ旧友の無事を喜ぶゲイル。と、ふと思い出したように尋ねてきた。
「リューンは?あいつも無事なのか?」
――― ! ―――
 その言葉に、突如アーヴェルの脳裏に衝撃が走る。

 それは、閉じられていた扉の鍵
 封印されていた、大切な記憶の一欠片

「リューン……」
 アーヴェルの脳裏に、一人の神官の姿が浮かび上がってきた。そして頭の中に響く、懐かしい声。
『思い出せるか?オレの事を……。もう受け止められるか?あの記憶を……』
 問いかけの言葉に、アーヴェルは戸惑う。この懐かしい響き。しかし同時に、胸の奥からこみ上げる、とてつもない不安と恐怖。
(俺は……!)
 ただただ困惑するアーヴェルの耳に、ふと響いてくる透明な声があった。
「アーヴェル。あなたは選べる。思い出すか。思い出さないか」
 それは、彼を拾い、ここまで一緒に歩いてきた少女の声。
 現実から、アーヴェルの心へと。アヴィーの声が染み渡る。
 そしてアーヴェルは答えた。アヴィーに、そして、懐かしい声の主に。
「……分からない……。でも、思い出したい!オレがオレであるために……」
『そうか……』
「……では、力をお貸ししましょう。全てを照らす、光の力を」
 唐突に口を開いた神官が静かにそう宣言する。と、彼女の姿がまばゆい光となって視界を覆い尽くした。

<<  >>