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第三章 失われた記憶 【8】

「……ーヴェル。アーヴェル!」
 呼び声に、意識が覚醒していく。目を開けると、心配そうなアヴィーの顔が目の前にあった。
「アヴィー?俺……」
「急に静かになるから、どうしたのかと思って」
 見回すと、ゲイルや神官も心配気な顔で彼を見つめている。
「?あれ?」
 戸口に佇む神官の女性は、先程までの女性とはうってかわった面立ちをしていた。小麦色の髪に、そばかすの薄く残る顔。しかし、慈愛に満ちた眼差しだけは、同じものだった。
 ガイリアの微笑み。それは、慈母の笑み。
「大丈夫ですか?具合が悪いのでしたら……」
 神官が、彼の視線に気づいて声をかける。
「いえ、大丈夫です」
 そう答えて、再び視線をアヴィーとゲイルに戻す。
「……俺、どの位……?」
「どのくらいも何も、一瞬だよ。ねえ?」
 ゲイルがアヴィーに同意を求める。アヴィーも頷いて
「ほんの一瞬。でも……」
 何故だか、不思議に優しい気配がした気がした、とアヴィーは付け足した。ゲイルは首を捻ったが、彼はその言葉に頷いて、改めてゲイルに向かう。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ゲイル。俺……記憶喪失だったんだ。ついさっきまで」
 その言葉に、ゲイルとアヴィーは驚愕の表情を浮かべた。ゲイルは前半、アヴィーは後半の台詞に対してという違いはあったが、もたらされた驚きは同じように二人の目を丸くさせる。
「戻ったの?」
「記憶喪失だったって、どの程度だよ?」
 矢継ぎ早な質問に困っていると、扉を叩く音がして、リファとジーンの姿が現われた。
「おやおや、賑やかですね。どうしました?」
 のんびりとしたリファの言葉に、アヴィーが説明しようとする。それをやんわりと制して、彼はおもむろに口を開いた。
「リファさん、ジーン。それにアヴィー。俺、記憶を取り戻したんだ。俺の名前はユーリー=ネヴィル。中央大陸のガイリア本神殿に仕える神官戦士だった」
 その言葉に、リファは目を細めて尋ねる。
「私たちと過ごした記憶も、そのまま残っているのですね?」
「ええ。はっきりと」
 いままでのアーヴェルは、どこか頼りなさそうな青年だった。しかし記憶を取り戻した今、ユーリーはどこか、アーヴェルでいた時よりもしっかりとした印象を受ける。
「……昔の事、ちゃんと全部思い出したのか?」
 おそるおそる尋ねたゲイルの言葉にも、力強く頷くユーリー。
「全部、取り戻したよ。順を追って話すから……」
 その途端、ユーリーの腹が鳴った。その音に一瞬目を丸くさせた一同は、次の瞬間笑いの渦に包まれる。
「とりあえず、ごはんにしよう。な?」


 夕食も終わり、ユーリーの事情説明も一段落したところで、すっかり夜も暮れた。
 一部屋しかない旅人用の寝室で仲良く枕を並べて寝ていた彼らだったが、ユーリーだけはどうにも寝付く事が出来ず、そっと部屋を抜け出して神殿の外に出た。
 月は満月。青白い光で地上を照らす。
 夜風に当たりながら月を見上げていると、つい数刻前に起こった出来事がまるで夢のようだ。
 ゲイルと神官の女性は、リューンの声、そして女神ガイリアの言葉にまったく記憶がないと言った。
 アヴィーも声は聞こえていなかったようだが、気配だけは察していたようだ。何か自分が彼に対して言った気がするけれど、覚えていないという。
 リューンの願いを聞き届けた女神は、自分の起こした奇跡に対して、きちんと後始末をしていったようだ。神たるもの、おいそれと人前に出たり、ましてやその力をひけらかしたりするものではない。
「ふう……」
 ため息をついて、彼方を見上げる。そこにあるのは、昨日となんら変わらぬ夜空。
「ユーリー、かあ……」
 誰もが、記憶が戻った事を喜んでくれた。それはとても嬉しい。
 この二月ほど、アーヴェル=エスタインとして生きて来た。その二月は楽しかったけれど、心の真ん中が抜けていたかのように心細く、不安な日々だった。
 自分という基盤がない日々。それは心の弱さを全面にさらけ出した日々でもあった。
 そんな日々がようやく終わる。抜けていた記憶が元の位置にはまって、ようやく「自分」が戻ってきた。そんな気がする。
 しかしその反面、アーヴェル=エスタインがいなくなった。そんな気もする。ここにいるのはユーリーという名の青年であって、もうアーヴェルではない。
「……ここにいたんだ」
 背後から静かな声が響く。振り向くと、アヴィーの姿がそこにあった。寝巻きの上に肩掛けを羽織って佇む少女は、その濃紺の瞳で真っ直ぐに青年を見つめている。
「アヴィー……」
「記憶。戻ってよかった。記憶が戻って、ようやく本当のあなたに会えた気がする」
 アヴィーの言葉に、ユーリーの心がとくんと揺れる。まったくもってこの少女は、ときどき心が読めているのではないかという錯覚を覚えさせる。
「名前、返さなきゃな」
 動揺を隠すように話を変えると、アヴィーは首を横に振った。
「いい。あげるって言ったでしょ。もう一つの名前として、持っていて。それが、アーヴェルがいた証になる」
 ユーリーの瞳から、ふいに透明な雫が伝い落ちた。
「……アーヴェルは、いなくなったわけじゃないよな。俺、まだアーヴェルでいていいんだよな?」
「アーヴェルはあなたの中にいる。あなたはアーヴェルでもあり、ユーリーでもある。それでいい」
 ユーリーの涙に何も言わず、アヴィーはそっと彼から離れ、月明かりの下に立つ。
 青白い光に照らされて、少女はいつにも増して小さく、儚く見えた。
 それと同時に、とても神々しいものにも感じられる。
「勇者は…いつでも突然人々の前に現れる。普通の人は、勇者にはならない。伝承は、いつもそう」
 突然、アヴィーはそんな言葉を呟いた。
「だからあなたを勇者と思った。突然現れた、記憶のないあなたを」
 ユーリーを発見した日。トゥーラン神の神託を受けたその日に、アヴィーは彼を見つけた。神殿の裏手に倒れている彼を。
「だから、か…」
 記憶のないまま彷徨い、目覚めた瞬間、勇者かと問われた。ユーリーにしてみれば青天の霹靂だったが、アヴィーから見れば偶然とは思えない出会いだったのだ。
 月光の下、アヴィーは続ける。
「あなたは私の旅についてきてくれた。あなたが誰であろうと、私は構わない。私にとってあなたは勇者なの。それでいいの」
「俺は俺だよ。勇者なんて大層な奴じゃないさ」
 親友の死と引き換えに得た生。その悲しみに耐え切れず、記憶を封じられて彷徨った。こんな情けない勇者なんてありえない。
 しかしアヴィーは首を振る。
「それでもいい。私にとっては、あなたが勇者。守るための剣を振るい、いつでも照れたように笑ってるあなたは、世界にとってはただの人でも、私にとっては勇者様なの」
 そう言ってアヴィーは、ちょっと照れたように微笑んだ。いつも無表情で静かなアヴィーの年相応の表情に、ユーリーは衝撃を覚える。それと同時に、なんだか気が楽になった気がして、ユーリーは大きく伸びをした。
 親友を失って、悲しんでいる自分。自分の情けなさに憤る自分。そんな自分でも、この少女にとっての勇者にはなれる。
 おどおどしていても、敵にとどめをさせなくても、ちょっとドジでも。
 たった一人だけでも、自分を勇者と思ってくれるのなら。
 いつか、誰もが認める勇者にもなれるかも知れない。
「それなら、せめて俺はアヴィーにとって、頼り甲斐のある、かっこいい勇者でなきゃな」
 その言葉に、アヴィーは驚いたような、嬉しいような顔でユーリーを見つめる。そのアヴィーに、ユーリーは笑顔で尋ねた。
「これからも、アーヴェルの名前を使っていいかな?そうだな……とりあえずこの旅が終わるまで」
 アヴィーが目を見張る。記憶を取り戻した彼が、これからもアヴィーに付き合う理由はない。彼はラルスディーンに戻るのだとてっきり思っていただけに、この申し出は意外だった。
 しかし当の本人は、それが当たり前だと言う顔をしている。
(変わらない。この人は、記憶を失っていても、それを取り戻した今も、何も変わらない……)
 驚く反面、嬉しかった。変わらない優しさと明るさが、嬉しかった。
「拾ってくれたお礼と、俺を取り戻させてくれたお礼だよ。最後まで付き合うさ。アヴィーの旅に」
 そう言って照れくさそうに手を差し伸べるユーリーに、アヴィーははにかみながら手を預ける。
「ありがとう!これからもよろしく。アーヴェル」
「よろしくな、アヴィー!」
 月明かりの下、しっかりと交わされた握手。
 それは二人をつなぐ絆のように、力強いものだった。

第三章・終
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