[BACK] [HOME]

こころやさしきもの

 窓の向こうの空が赤く染まっている。
 時計が指し示すのは、午後6時過ぎ。
 ボクは夕飯の支度をしながら、ボンヤリと外を眺めていた。
 古びた平屋建ての一軒家。それがここ、ボクと姉さんの住む場所。両親を一年前に亡くして、天涯孤独になってしまった姉さんとボクの住処。
 都会の片隅に今もひっそりと建っているこの古びた家は、築年数が大分経っていることを理由に、かなり格安で貸し出されていたらしい。そこに住み着いて、もう一年近くになる。
 午後6時。真夏の午後6時はまだまだ明るい。だけどもう、太陽はビルの向こうに避難しはじめる時刻だ。
 会社勤めの姉さんは、いつも夕飯までに帰ってくる。たまには友達と飲みにでも行けばいいのに、なんだかんだ理由をつけて帰ってくるのは、多分ボクを心配してのことなんだろう。
 黒い髪を肩で揃えて、丸いフレームの眼鏡をかけた姉さん。
 真面目そうに見えるけど、笑うととってもかわいい姉さん。
 ――ここに引っ越してきた最初の夜、アルバムを見つめて泣いていた、姉さん――

 ガチャ。
 玄関の鍵が鳴る。続いて軽やかな足音。
 姉さんが帰ってきた。
「ただいまー」
 いつになく明るい声で、姉さんは玄関から続く台所へとやってくる。その顔があまりにも上機嫌なので思わず、
「おかえり、姉さん。何かいいことでもあったの?」
 と尋ねると、姉さんのほっぺたがぱっと赤くなった。まったく、分かりやすいんだから。
「図星でしょ?」
「そ、そんなことないわよ……」
 その言葉とは裏腹に、顔がにやけている。
 何かいいことがあったのは一目瞭然。でも、姉さんがここまで嬉しそうな顔は久しぶりに見た気がする。
「そうそう、今日はおみやげがあるのよ! ほら、ケーキ。あんたにって。あんた、甘いもの好きだもんね」
 そう言って、姉さんは白いケーキの箱をボクに突きつけて来る。その箱がいつも買ってきてくれる駅前のケーキ屋のものじゃないことに、目ざといボクが気づかないわけないのに。
「ボクにってことは、誰かにもらったんだ? 会社の人?」
 勘繰ってそう言ってやると、これもやっぱり当たり。しかも姉さんの顔が、また赤く染まる。
 なーるほど。最近妙に浮ついてると思ったら、やっぱりか。
「やっと姉さんもいい人を見つけたって訳だね。よかったよかった」
 そう茶化すボクに、姉さんは真っ赤な顔のまま反論してくる。
「か、彼氏じゃないわよ。ただの、会社の先輩!」
「なーんで、ただの会社の先輩がケーキくれるのさ。しかもボクに」
「そ、それは、私がよくあんたのこと話してるから……」
 そう言い訳するけど、ボクにはもう、このケーキをくれた人が姉さんのいい人だってことくらいお見通し。
 付き合ってるかどうかはともかく、いい雰囲気になってるのは大体想像が付くってもんだよ。
「ふうん。いい人じゃない」
「うん、すごくいい人なの。一見さえないサラリーマンにしか見えないけど、すごく優しいし仕事もちゃんと確実にこなす人でね。それでもって……」
 なにやら力説している姉さん。ボクは内心苦笑しつつ、そっと姉さんの言葉を遮って告げた。
「それなら今度連れて来れば?ケーキのお礼に夕飯をご馳走するって言ってさ」
「ホント?」
 姉さんの顔がぱっと輝く。なるほど、やっぱりそういう魂胆か。
 ボクに恋人を紹介したいけど、反対されるのが怖くて、好物で懐柔しようと試みたわけだ。
 ばっかだなあ。そんなことしなくたって、別に反対なんかしないのに。
 ボクは姉さんが幸せなら、文句なんか言わないんだから。
 まあ、これでその"会社の人"がろくでもない人間だったら、勿論反対するんだけどね。
「本当に、連れてきていいの?」
 上目づかいの姉さんに、ボクは頷く。
「連れてきなよ。料理下手の姉を持ったおかげで上達したボクの腕前、披露してあげるからさ」
 ボクは意地悪く笑いながら答えた。その言葉に姉さんがむくれる。
「なによ! 私だって頑張れば、お料理くらい……」
「それなら明日から代わろうか?」
 当番制にしてた頃もあったけど、結局姉さんが音を上げてボクが全面的に担当するようになったんだから。
「もうっ、いじわるなんだから!」
 またまたむくれる姉さん。
 その表情はまるで子供みたいで、ボクは思わず笑ってしまった。
「それじゃ、ご飯にしようか」
「うん!」
 テーブルに並べられた夕飯に目を輝かせる姉さんは、本当に幸せそうで。
 ボクも無性に嬉しくなって、思わず顔を緩ませてしまう。
「なによ? あ、ケーキは夕飯の後なんだからね!」
 ……ケーキに喜んでるわけじゃないってば。


 数日後。
 姉さんはその"会社の人"を連れてきた。
 眼鏡をかけた、中肉中背のごく普通のサラリーマン。第一印象はそんな、ごくありきたりのものだった。
 だけど、テレた笑いを浮かべながら喋る声は心地いいし、会話の端々から、頭の回転が速そうだなという印象を受ける。
 なにより、彼と話す姉さんは楽しそうで、そんな姉さんを見つめる彼の目はとっても優しくて。

 お似合いの二人だと、心から思った。

 ――ボクの役目は
    そろそろおしまいかもしれない ――

「夕飯できるまでもうちょっとかかるから、そっちの部屋でごゆっくりどうぞ。ほら姉さん、案内してあげて」
 エプロンをしてキッチンに立っているボクは、気を利かせて二人を隣の部屋に押しやる。姉さんはボクを手伝おうとしてたけど、ボクだってそんなに野暮じゃない。
 渋々隣の部屋に移動した二人の後ろで襖をぴしゃりと閉めてやる。ほらほら、ボクに気兼ねなくベタベタしてなよ。
「ちょっと! アルバム出しっぱなしじゃないの!」
 ふすまの向こうから姉さんの声が響いてきた。
「ごめーん。でもちょうどいいじゃない。それでも見て時間つぶしてれば?」
 ボクはそう答えて、姉さんの大好きなチーズオムレツを焼きにかかる。
「これ、君の?」
「うん、そうよ。父さんが写真撮るの大好きで、結構いっぱい残ってるの」
「へえ……わ、こりゃ随分ちびっこい…」
「ちびっこい言わない!」
 オムレツの焼ける音にまじって、隣の部屋からそんな二人の声が聞こえる。
 ボクが出しっぱなしにしていたアルバムは、姉さんの思い出が詰まったもの。
 生まれたばっかりの姉さん、幼稚園の制服を着て泣いてる姉さん。ランドセルを背負った姉さん。セーラー服を着て校門の前ではにかむ姉さん。少し大きめのブレザーを着て、自分の受験番号の前で泣き笑いしている姉さん。
 そして、前住んでいた家の写真。家族旅行の写真。
 それは、見ると色々思い出して辛いからと、押入れの奥にしまい込まれていたアルバム。
「…君の写真ばっかりだけど、弟さんのは別にしてあるのかな?」
 そんな声が聞こえた。
「え? ううん、うちにあるアルバムはこれだけのはずだけど」
「それじゃ弟さんは写真嫌いとか?」
「そんなことないと思うけど……そう言えば、私の写真ばっかりよね……。おかしいなあ、父さんはあんなに写真好きだったんだから、あいつの写真も同じくらいあっておかしくないのに……」
 姉さんの立ち上がる音がした。続いて、アルバムを閉じる音。
 オムレツはもう、うまく焼きあがっている。お皿に盛って、テーブルの上へ置いたと同時に、姉さんがふすまを開けて台所にやってきた。
 その表情は困惑しきっている、無理もないけどね、
「……ねえ、あんたの写真、私のと別にしたり……してる?」
 ボクは静かに首を横に振る。
「じゃ、なんであんたの写真が一枚もないの?」
「――撮ったことがないからだよ」
 ボクは答える。
 そう、ボクは一度も、写真なんて撮ったことがない。
 と、姉さんの後ろから顔を覗かせた彼氏が、申し訳なさそうに口を開いた。
「ちょっと聞きたいんだけど、いいかい?」
「なんですか?」
「……君の名前は、なんていうのかな?君の姉さんはいつも、君の名前を言わないんだ」
 姉さんがはっと彼の顔を見る。
「そんなわけないじゃない! 私は……」
「じゃあ、君の弟くんの名前を教えてくれる?」
 彼に言われて姉さんは口を開き、止まり――。そして、困った顔でボクを見た。
「……なんで、私あんたの名前言えないの? 忘れるわけないのに、何で言えないの?!」
 姉さんの問いに、でもボクは答えない。いいや、答えようがないんだ。
 ――だってボクには、名前なんてないんだから。
「ねえ! 答えてよ! あんたは私の弟でしょ? 私の、たった一人の家族じゃない!」
 姉さんの大きな瞳から、透明な涙が溢れてくる。
 それは、一年前のあの夜に流されたものと同じ。熱く透き通る涙が、ポタポタと床を濡らす。
「泣かないで、姉さん」
 ボクは姉さんの涙にそっと指を伸ばして、涙を拭った。
 姉さんは泣き虫だ。この部屋に来た日から、毎晩のように泣いていた。
 ――だから――
「ボクは姉さんが一人で泣いてたから、姉さんのそばにいたんだよ」
「何よ、それどういうことよ? あんた、私の弟なんだから、一緒にいるのは当たり前じゃない!」
「なあ……君は、誰だい?」
 ハンカチを姉さんに差し出しながら、彼が尋ねてくる。その表情は、得体の知れない”弟"に対して怒りや不信感を覚えているのじゃなく、ボクの答えがなんとなく分かっているかような、ちょっと悲しげな顔。

 ああ、この人なら。

 無闇に感情をむき出しにせず、ボクと、なにより姉さんの心情を慮ってそんな尋ね方をしてくれる彼なら。
 安心して姉さんを任せられそうじゃないか。

 そんな安堵感と同時に、やりようのないせつなさがこみ上げてくる。
 でも、それは仕方のないこと。
 気づかれてしまったら。ボクはもうここにいられない。
 それは、ボクらに課せられた決まりだから。
 だから、わざと明るい表情を作って、ボクは姉さんを見つめる。

「ねえ、姉さん。ボクは、姉さんに呼ばれてここにいたんだ。でも、もう姉さんは一人じゃないから、ボクがいなくても大丈夫だよね」
「……なに、言ってるのよ?」
 まだ泣きじゃくる姉さんの肩を支える彼に、ボクは笑顔を向ける。
「姉さんのこと、よろしくお願いします。ものすごく寂しがり屋で泣き虫だから、ずっとそばにいてあげてね」
「ああ、そうだね」
 穏やかにボクを見つめ返してくる彼。ああ、やっぱり姉さんは人を見る目があるよ。
 この人なら大丈夫。
「……それじゃ、ね」
 そう呟くボクの体が、徐々に消えはじめる。体だけじゃない、ボクという存在そのものが透けて、なくなっているんだ。
「ちょっと! なによそれ! なんでそんな……そんなもう会えないようなこと言うの!? なんで消えそうになってるのよ!!」」
 姉さんが叫ぶ。でも、もうボクは姉さんの弟ではいられない。
「泣かないでってば。じゃないとボク、還れないよ」
「還るって、どこに! あんたの家はここ! このうちでしょ!」
「……そう、だからボクは還らなきゃいけない。この家に」
 喋っている間にも、ボクの姿はどんどん薄れていく。
 でもこれは、ボクという存在が人の形を取ることをやめ、本来の形に戻ろうとしているだけのこと。
「……君は、この家なんだね……」
 彼の言葉に、薄れゆく姿でボクは頷いてみせる。
 ボクは、姉さんの弟じゃない。家族を亡くして、天涯孤独になった姉さんに、呼ばれたもの。
 でも許してよね。ボクが姉さんを騙し続けていたのは、姉さんの笑顔が見たかったから。
 この家に越してきた当時、泣いてばかりだった姉さん。体中の水分が抜けてしまうかと思うほど、毎日泣き暮れていた姉さん。
 その涙に、心の叫びに、ボクは呼ばれたんだ。
「やめてよ。なんで消えなきゃなんないの!? ずっと一緒に、いてくれたっていいじゃない!」
 そろそろ、ボクの姿は薄れて見えなくなっている。二人にボクの言葉が聞こえなくなるのも時間の問題。言いたいことを全部伝えなきゃ。ボクが姉さんの弟であるうちに。そして、二人がボクのことを覚えているうちに。
「……大丈夫。ボクはこれからもずっと、ここにいる。姉さんが忘れても、ボクはずっと姉さんを忘れないよ」
「忘れるわけ、ないでしょ。大切な弟を、忘れるわけ……」
 ボクは静かに首を横に振る。
 忘れてしまうんだ。ボクが消えてしまえば。
 それでも、ボクは覚えている。ずっとずっと、覚えているから。

 もう泣かないで
 
 言葉が、風にかき消される。
 ボクの姿は完全に消え、泣きじゃくる姉さんと、それを労わる彼が二人、部屋に取り残される。
 しばらく忘れていた感覚。ボクという意識が広がり、そして家と一体となる。
 そう、ボクはこの古びた家、そのもの。
 長い間人々に愛されたものには、魂が宿るという。ボクは、ここで暮らした人々の想いの結晶。

「……あれ? 私、何で泣いてるのかな」
 ふと、思い出したかのように言う姉さんの声。
「……ん? なんでだろう、僕、何かまずいことでも言った?」
 彼氏も困惑顔で姉さんを見る。
「分からないけど……なんだかとても大切なものをなくしたような、そんな気がして」
 不思議そうに首を傾げる姉さん。でもすぐに、くるりと表情を変える。
「でも、忘れちゃった」
 姉さんの笑顔を胸に刻んで、ボクは意識を閉ざす。
 大分長いこと力を使い続けたボクは、これからしばらく眠らなければならない。

 まどろむ前の、ほんの一瞬。
「ありがとう」
 姉さんの声が聞こえた。
 はっとして、もう一度意識を凝らす。彼と夕食を囲みながら、姉さんがつぶやいた言葉。
「なにが?」
 聞き返す彼に姉さんは、あれ? と首を傾げる。
「なんだろう?」
 自分でも気づかずにもらした呟きに、彼は穏やかに笑う。
「まあ、いいか」
「うん」
 幸せそうに夕食をつつく二人。
 ボクたちが暮らした部屋で、姉さんはいま、とても幸せそうだ。

 ――もう泣かないでね。姉さん
    ボクは笑ってる姉さんが、大好きだよ ――

 届かない思いを胸に、ボクは深い眠りにつく
 次に目覚めるのは、いつの日か
 次にボクを呼ぶのは、誰なのか

 ボクはこのままずっと、ここで在り続ける
 ボクを呼ぶ声が聞こえるまで……


「こんな古くて趣のある家なら、いてもおかしくないね」
「え? なにが?」
「座敷わらしだよ。いや、西洋風に家つき妖精っていった方がいいかな」
「やだ、怖いこと言わないでよ」
「怖くなんてないさ。それは、寂しい人を慰めるために出てくるんだって。きっと、心の優しいものなんだよ」
「そうなの?」
「ああ、そうだよ。きっとね……」

-完-


 ……大分昔に書いたものを手直ししてみました。
 もともとはT-RPG「GURPS・妖魔夜行」のオリジナルキャラクターの過去として設定していた物語です。
 最後の方でばれてますが、彼はいわゆる「座敷わらし」君です。大して古くもなさそうな家に何故、というのは置いておいて(^_^;)
 私の中では、どっちかっていうと西洋の「ブラウニー(家つき妖精)」に近いイメージがあります。
 こう、こっそり家の仕事をしてくれてるような。この弟君もちゃんと夕飯作ってから消えたしね(笑)


[BACK] [HOME]