眼鏡 |
「あっ……」 気づいた時には、もう遅かった。 足の裏から伝わってくる、金属とガラスのひやりとした感触。 そぉっと足を除けると、ブリッジの部分が割れて見事に真っ二つになった、無残な眼鏡が姿を現わす。 「あちゃ……」 思わず頭を抱える。昨日、眠気に負けて適当に放ったのがまずかった。目覚ましの音に焦って飛び起き、布団から一歩踏み出した途端にこれだ。 「まずったな……」 どこかのキャッチコピーではないけど、眼鏡はまさに顔の一部。これが無ければ、1m先の壁にかかったカレンダーすら判別不能な僕に、眼鏡なしで生活しろというのは到底無理な話だ。 しかし。 「よりによって、一限からある日に……」 そうだ。目覚ましで飛び起きたのにも訳がある。今日はどうしても落とせない授業のある日。しかもそれは厄介なことに一時限目に設定されている。遅刻三回で欠席一回の計算。五回欠席で単位はパァだ。 「とにかく、行くしかないな」 一人暮らしをしていると、独り言が多くなっていけない。そんなことを思いつつ、ぼやけた視界でなんとか着替え、カバンを掴んで家を出る。 玄関をしめるのに、鍵を探すだけで一苦労。 更に、駅までのほんの10分足らずの道でさえ、車の音や通行者にびくびくしながら歩く羽目になるなんて。 まったく、ついてない。 眼鏡なしの世界は、まるで曇りガラス一枚隔てたところにあるようで。 まるで、僕だけ現実から切り離されてしまったかのよう。 誰も僕を見ていない。誰も、僕に声をかけない。 そう、まるで僕がここにいないかのように。 勿論、そんなはずはないんだけど。 視界を制限されただけで、こんなにも世界は遠くなる。こんなにも世界は僕を拒む。 そんなことに、改めて気づく。 朝早い大学は、それでも教室へと向かう学生で賑わっていた。 いつもなら、同じ授業を受けている知り合いと出くわすはずだけど、誰も声をかけてこないところを見ると、もしかして僕だと分からないのかもしれない。 自分で言うのはなんだけど、眼鏡を外した僕は、特に目立った特徴もない、インパクトに欠けた顔をしている。眼鏡をかけることでなんとか印象づけることが出来るくらいで、大抵の第一印象は「メガネ君」らしい。 それにしても、眼鏡をかけてないだけで、友達にも見つけてもらえないというのはちょっと悲しすぎるな。 ふと携帯を取り出して現在時刻を確認する。もうそろそろ始まりのチャイムがなる時間だ。 (やべ、急ごう……) なんとか教授が来る前に滑り込めた教室で、空席に腰を下ろす。 大学の授業に指定席はない。だけど大体、いつも同じような場所に座ることが多い。そして同じ授業を取っている知り合い達も、普段なら近くにいるはずなんだけど、誰も声をかけてこないところを見ると、みんなサボりか? 一限の授業は、眠気に負けてサボる奴が多い。かくいう僕も何度かやってるけど、この教授は一回の授業でルーズリーフ5枚以上のノートを取らせる人だ。一度休むと、ノートを借りるのも写すのも一苦労。 チャイムが響き、教授がやってきた。 いつも通りの前口上。そして授業が始まってしばらく経って、僕ははた、と気づいてしまった。 (あ。) 教科書の解説を一段落させた教授はおもむろに黒板へと向かう。青緑色の、上下スライド式の黒板。そこに書きこまれていく文章は、見事にかすんで何も読めない。 (しまったぁ……) これじゃノートなんて取れるわけがない。 (うわ……これじゃ来た意味ないじゃないか……) まあ出席票を出すだけで出席扱いにはなるからいいけど、肝心の授業内容がパァではどうしようもない。 しかも、下手をすればノートを借りられる人間すらいないと来ている。 (はぁ……ほんと、ついてないや) ため息と共に、僕はノートを投げ出して机に突っ伏した。これはもう、不貞寝でも決め込むしかない。 「ほらよ」 不意に隣から声がして、すっと机の上を滑ってきた白いもの。 「え?」 はっとそれを見ると、板書内容が書かれたルーズリーフだ。しかも、字にも、そして声にも覚えがある。 隣をそっと窺う。一つ席を置いて座っている人間の顔は、ぼやけて分からない。でも。 「安田?」 「そうだよ。お前、ずっと隣にいたのに気づかねえんだもんな」 「ご、ごめん」 「眼鏡、どうしたんだ?」 「いや、ちょっと踏んじゃって」 「ばっかだなあ、お前」 猛然と黒板を写しながらそんなことを言ってくる彼は、同じサークルに所属する同級生。同じ学年は五人しかいないから、勿論顔も名前も知っているし、普段もよくノートを貸したりしている仲だ。 「でも……よく分かったね」 サークルを通じて知り合って一年ちょっと。とはいえ親友と呼べるほどに仲がいいわけでもない。 それに、眼鏡をかけていない僕なんて、誰も僕だと分からないかと思ったのに。 僕の言葉に、呆れたような口調が返って来る。 「はぁ? 眼鏡かけてなくたって、お前を見間違えるわけないだろ」 「おい、そこ! うるさいぞ」 壇上から飛んできた教授の怒声に、思わず首をすくめる。 「すいませーん」 いけしゃあしゃあと言いながら、安田は写し終えたルーズリーフをまた一枚、こちらに滑らせてきた。 「ほらよ、ぼーっとしてないでさっさと写せや」 いつもなら僕のノートを頼りにして居眠りこいている奴が、今日は随分と優しいことで。 「さんきゅ」 言葉に甘えて、早速ノートを写し出す。乱暴な字は時々解読不能だったけど、そこは創造力で補っていく。 「近くにいたならもっと早くに声かけてくれればよかったのに」 写しながら恨みがましく言ってやると、向こうもノートから顔を上げずに答えてくる。 「だってよ、お前ものすごいしかめっ面してたんだぜ? とても声かけられる雰囲気じゃなかったさ」 え? 僕がしかめっ面? ああ、そうか。見えないからつい、目を細めてたんだな。 「お前がそんなあからさまに機嫌悪そうな顔してるなんて滅多にないから、こりゃ触らぬ神にたたりなしってね」 そうか。 世界が僕を拒絶したわけじゃない。 僕が世界を拒絶してただけのこと。 なんだ、ただそれだけのことか。 ふっと、肩の力が抜けた気がして、僕は安田を見る。 「そんなんじゃないって」 「そうみたいだな」 「そこ! 喋りたいなら廊下に出ろ」 「「すいませーん」」 再び落ちてきた教授の雷をしらっとかわして、僕達はそっと共犯者の笑みを交わした。 「ノートの礼は今日の学食ってことで」 「随分安いな」 「いつもジュース一本でノート貸してやってるだろ」 「おっと、そうだった……」 いつもと同じ、他愛もない会話。 それなのに。 ぼやけた世界は、いつもよりどこかやさしい気がした。 -完-
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私はまさに、"眼鏡は顔の一部です"人間なんです。 枕元に放り出した眼鏡を踏んで曲げたことも数知れず……。 流石に壊したことまではありませんが。 中二から眼鏡をかけ出して、大学から常時かけるようになったんですが、一度だけ眼鏡をはずして学内を歩き回ったことがあって。 そのときは学祭中で、悪乗りして高校の制服を着てきたため、本当に一部の人間しか私だと気づかないんでやんの(^_^;) そんな思い出をヒントに思いついたお話。 |