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 遠くから午後5時を告げる夕焼け小焼けのメロディーが流れてきて、それまで雑談に興じていた部員達が三々五々と散っていく。
 漫研の部活動時間は特に定められていないが、大抵は4限終了と共に部室へ集まり、この『夕焼け小焼け』で解散となるのが常だ。
「やっべ、バイト遅刻しちまう!」
「お前、毎日それ言ってないか?」
 ぞろぞろと出ていく部員達は、冬コミ原稿を提出済みの人間だ。締め切りを一週間後に控え、未提出者である私は粘れるだけ粘ると宣言し、未だ空白が目立つ原稿用紙と格闘中だ。
「それじゃあな、ヨッシー。セキュリティが入る前に帰れよ」
「はーい。頑張ります!」
 最後に元部長の神原さんが出ていくと、それまで賑やかだった部室は一気に静まり返った。
「今日は集まり悪かったなー」
 やれやれ、と立ち上がり、散らかりっぱなしの長机の上をざっくり片付ける。読みかけの漫画、開いたままのノート。本来なら部長が喝を入れるべきところだが、率先して散らかしているのが部長なものだから性質が悪い。
「あーもう、誰よ、いい加減に戻したの!」
 巻数がばらばらのまま、無理やり本棚に突っ込まれていた単行本を引っこ抜き、せっせと並べ替えているところに、その声は突然響いてきた。
「あれ、今日はバイトないの?」
 誰もいなかったはずの部室、それも背後からいきなり聞こえてくる声。まるで怪談のようなシチュエーションだが、もう慣れっこになってしまったから、動揺すら覚えない。
「はい。今日はバイト先が社員研修でお休みなんですよ」
 最後の一冊を押し込みながら答えれば、窓際の事務机に腰掛けたその人は、そっかー、とにっこり笑った。

 彼――コンノさんと出会ってから、もう半年以上が経とうとしている。その正体は、自分でもよく分かっていないらしいけれど、どうも部室に飾られた狐面に魂が宿ったもの――有体に言えば付喪神のようなものではないか、というのが私達の見解だ。
 コンノさんは、誰かが一人ぼっちで部室にいる時だけ姿を現わす、心優しき「もう一人の漫研部員」だ。そうやって、影から漫研を支えてきた――というのは大げさかもしれない。
「吉川さん、テレビ使ってもいい? 音、絞るからさ」
 そわそわしながら聞いてくるコンノさんに、原稿用紙に向き直りながら、わざと呆れた声を出してやる。
「またゲームですか」
「いやー、これがなかなか難しくって、クリアできないんだよね~」
 いそいそと古いゲーム機をセットし、TVのスイッチを入れるコンノさん。何時の間にか進んでいるセーブデータは、大抵コンノさんの仕業だ。
 そうして、コンノさん操る古びた戦闘機が漆黒の宇宙空間を所狭しと飛び回っている後ろで、長机に貼りつき、白い部分の目立つ原稿用紙と格闘すること、およそ一時間。
 ようやく区切りのいいところまでステージを進めたらしいコンノさんが、あー疲れた、とコントローラーを手放したところで、私もウーンと大きく伸びをした。
「あと何ページくらいなの?」
 ひょい、と覗き込んでくるコンノさんに、長机の上に散らばった原稿をひいふうみと数えて答える。
「あと3ページ分、丸々ペンが入ってないんですよね。あと一週間あるんでどうにかなると思いますけど」
 いざとなったらコンノさんにベタと効果をお願いしよう、なんて考えていることは、まだヒミツだ。
「そっかそっか。じゃあヨシ君が来るまで、ちょっとでも進めておかないとね」
 何気ない一言に、思わず手にしていたGペンを取り落してしまったら、くすくすと笑われた。
「今日はヨシ君、パソコン室のバイト入れてるから、あと十分くらいで戻ってくるもんね。二人で夕飯でも食べに行くの?」
「うっ」
 図星を刺されるとはまさにこのことだ。
 ヨシ君こと三年の今野吉隆さんは、私以外にコンノさんの存在を知っている唯一の部員だ。普段は授業とバイトで忙しく、なかなか部活に顔を出さないため、漫研内ではレアキャラ扱いされている。でも、実は皆が帰った後や逆に早朝など、ちょこちょこ部室に足を運んでいることを、私は知っている。
「そ、その、駅のそばに安くておいしい定食屋さんがあるって聞いたんで、連れてってくださいってお願いしたんです」
 はぐらかしたところでどうせ見抜かれてしまうので、そう素直に答えると、コンノさんは細い目を更に細めて、うんうんと頷いた。
「いいじゃない。段々ヨシ君も心を開いてきたよね。最初はまるで野生動物のように頑なな態度だったもんね」
 さらりと酷いことを言っているが、コンノさんがこういう風に軽口を叩くのはヨシ君に対してだけだ。つき合いが長いせいもあるだろうけど、実は似た者同士で会話のテンポが合うんだろうと、勝手に思っている。
「定食屋って、シミズ食堂でしょ。お勧めは確か野菜炒め定食だったかな。すごく量が多いんだってよ。吉川さん、食べきれる?」
 さすが、十年以上部員の会話に耳を傾けて来ただけあって、コンノさんは情報通だ。こと学校周辺の飲食店に関しては知識が深く、季節限定メニューまで把握しているから侮れない。
「あー、僕も食べてみたいなあ~」
 何気ない言葉に、ふと疑問が沸き上がる。
「そう言えば……コンノさんって、この部室から外には出られないんですか?」
 考えてみれば、コンノさんが部室から出ようとしたところを見たことがない。帰りを見送る時も決してドアから外に体を出さない。
「うーん、一度やってみたんだけど、どうやっても出られなかったんだよね」
 頬を掻きながら答えるコンノさんは、どこか淋しそうな表情を浮かべていた。
「出ようとすると元に戻っちゃうんだよ。窓から身を乗り出すくらいなら大丈夫なんだけど、ドアなんて頑張っても腕までしか出せなくてさ。それって傍から見るとただの怪奇現象じゃない? 騒ぎになるのもヤダし、それ以上はやめたんだよね」
 確かに、下手をすればクラブハウスの七不思議にでも昇格しそうな状況だ。
「地縛霊じゃないんだから、移動できそうな気がするんだけどなあ」
 思わず呟いてしまったら、ひどいよ! と猛抗議されてしまった。
「幽霊と一緒にしないでよ~!」
「す、すいませんっ。何か他に例えが思いつかなくて……」
 付喪神のようなもの、と表現せざるを得ないのは、コンノさんに「人間の姿に変身する」以外の力がないからだ。いわゆる神通力の類は一切使えないらしく、また幽霊のように壁抜けだの空中浮遊だのもできない。しかし、正体が何であれ、「場所」に縛られたものでないのなら、移動は自由のはずだ。
「あ! もしかしたら、本体からあまり離れちゃうと駄目なんじゃないですか?」
 ふと思いついて言ってみたら、それまでいじけていたコンノさんの顔がぱあ、と明るくなった。
「なるほど! それはあるかもしれないね」
 原理はよく分からないが、コンノさんが人の姿で部室のどこにいようと、元の姿に戻った時は定位置に戻っている。それを考えると、人の姿を取っている時も、その魂の在り処というか存在の拠りどころのようなものは、元の位置に固定されているのではないだろうか。
「ねえ吉川さん、ちょっとボクを持って部室の外に移動してみてくれない?」
 珍しく真剣な表情でそうお願いされたので、思わずこくこくと頷いてしまったら、コンノさんはよしっ、と呟くと、ぽんっと姿を消した。
 次の瞬間、部室の窓の上、キャラクター時計の隣に白い狐のお面が姿を現わす。これこそが、コンノさんの本体。誰が持ち込んだとも分からない、謎の狐面だ。
「ちょっと待ってくださいね」
 辺りを見回したけれど、ロクな踏み台がなかったので、近くの折り畳み椅子を引き寄せて窓際に設置し、靴を脱いで上に乗る。
『大丈夫? 気をつけてね』
 心配そうな声が聞こえてきたが、何のこれしき。私だってやる時はやるのだ。
「取った!!」
 どうにか狐面に手を伸ばし、慎重に取り外す。すっかり埃まみれのお面には、色褪せた組紐がついていた。
『ごめんね、汚れてて』
 申し訳なさそうな声に、いいえと首を横に振る。悪いのはコンノさんではない。掃除をさぼっていた歴代の漫研部員だ。
「――それじゃ、まずは廊下に出てみますからね」
『うん、お願い』
 狐面を抱え、ドアノブに手をかける。内開きのドアを開けてそっと一歩廊下に踏み出すが、よく漫画やアニメであるような、空間が歪むような違和感だとか、バリアーに弾かれるような感覚だとか、そういうベタな展開にはならなかった。
 何の抵抗もなく廊下に出たところで、一応辺りに人気がないことを確認して、抱えた狐面に囁きかける。
「コンノさん。どうですか?」
 次の瞬間、ぽんと薄煙が上がって、目の前に現れたいつも通りの姿に、ほっと胸を撫で下ろす。
「やったあ! 出られたよ吉川さん!」
 はしゃいだ声を出すコンノさんは、そうしているとどこからどう見ても普通の大学生だ。
「あー、ホントにここに窓があるんだ。あ、これが噂の「お隣さん」だね? 本当に派手なポスターが貼ってあるんだね」
 辺りをうろうろしては楽しげな声を上げるコンノさん。まるで初めて外に出た子どものようなはしゃぎっぷりだが、十年以上も部室以外の世界を体感したことがなかったのだから無理もない。
「これでお出かけできますね、コンノさん! 私、どこへでも持ってきますから! 行きたいところ、言ってください!」
 ぐっと拳を握りしめて力説した瞬間、ひどく冷静な声が背後から響いてきた。
「どこへお出かけする気だ?」
 げっ、と振り返れば、そこには呆れ顔の今野さんの姿。
「廊下で騒いでる奴がいると思ったら、やっぱりお前らか」
 見上げるような長身にがっしりとした体躯。一見すると漫研部員とは思えない彼こそが、部誌で有数のページ数とクオリティを維持している売れっ子(?)作家「コンノ」こと今野吉隆さんだ。
「ねえねえヨシ君、すごいと思わない? ボク、外に出られたんだよ! 実はね……」
 事情を掻い摘んで説明するコンノさんに、ぶっきらぼうに「よかったな」とだけ答え、視線だけをこちらに寄越す今野さん。
「狐面を持ち歩く女子大生か。怪しさ大爆発だな」
「うっ……」
 ぐうの音も出ないとはこのことだ。
「か、鞄の中に入れれば!」
「職質されたらアウトだな」
「お、お芝居の小道具なんですって言えば!」
「まだ『コスプレに使うんです』って言った方が通用する気がするんだが」
 今野さんの返しはいちいち的確で、思わず唸りそうになる私に、コンノさんがまあまあ、と手を振った。
「気持ちはありがたいけど、無理しないで吉川さん」
 吉川さんが捕まっちゃうのは嫌だよ、と縁起でもないことを言ってくるコンノさん。そりゃあもちろん、私だって職務質問を受けるのは勘弁だ。でも。
「大丈夫です! だって、コンノさんとイベントも行きたいし、合宿だって行きたいし!」
「……要するに、お前が行きたいだけだろう」
「うっ」
 図星を刺されて悶絶しかけたところに、コンノさんの優しい声音が降ってきた。
「ありがとう、吉川さん。……じゃあ、お言葉に甘えて、まずは駅前のシミズ食堂に連れてってくれる? ずっと食べてみたかったんだよね、あそこの大盛り定食」
「はい!」
 思わず力強く頷いてしまったら、「大げさな奴らだなあ」と今野さんに笑われてしまったけれど、大げさだっていいのだ。
 これで、コンノさんとどこでも会える。どこへだって行ける。
 そうしたら、もっとたくさんの思い出が作れるのだから。


「ごめんねー、デートの邪魔しちゃって」
「デートじゃない」
「あれー? てっきりそうだと思ったのに」
「お前……。まさか、お邪魔虫になるためだけに部室の外に出ようなんて企んだんじゃないだろうな?」
「そんなわけないでしょ。ただ単に、僕もそろそろ、部室に一人でこもってるのが退屈になってきたってだけだよ」
「……外に出るのは構わんが、あまり吉川に面倒掛けるなよ」
「じゃあヨシ君が僕を持ち歩いてくれたらいいのに」
「吉川なら『コスプレの小道具』で誤魔化せるだろうが、俺がそれを言ったら変質者扱いされかねん」
「はは。確かにね。じゃあやっぱり、吉川さんにお願いするしかないね。となるとやっぱり、君たちのデートを邪魔しまくることになっちゃうなあ」
「なんでそうなる」
「だって、彼女一人じゃ心配で、きっとついてくるでしょ?」
「……」
「そこは否定しないんだ。それじゃ今後ともよろしくね、ヨシ君♪」
「分かったから、その呼び方はやめろ」


「お待たせしました! って、あれ? どうかしました?」
「ううん、何でもないよ! 今日の日替わり定食はなんだろうなって。さあ、早く行こうよ!」
「そんなにはしゃぐな」
「あんなこと言ってる人は放っておいて、行こう吉川さん!」
「行きましょ、行きましょ~♪」
「吉川、お前もノるな!」

 クラブハウスの廊下に伸びる三つの影が、なんだか楽しそうに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
コンノさんと部室・おわり


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