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「こんちわーっす」
 勢いよくドアを開ければ、途端に聞こえてくる電子音。
「やあ、本嶋くん」
 テレビから視線を外すことなく、それでも声だけで的確にこちらの正体を見破ったその人は、小さな画面の中で縦横無尽に飛び回る戦闘機を操りながら「今日は早かったね」などと呑気な声を上げる。
「ご無沙汰ですね、榊さん」
「そういや、前に会ったの夏休み前だっけ? はは、確かに久しぶりだねえ」
 ほぼ二ヶ月ぶりの再会にも関わらず、屈託のない笑顔で迎えてくれる。このゆるい感じは相変わらずというか、なんというか。
「今日はもう授業終わりですか?」
「いや、今日は元々授業がない日なんだ」
 実家から電車で三十分以上かけて大学に通っているはずの彼は、なぜか授業がない日もちょこちょこ部室に顔を出している。それなのに『幽霊部員』と囁かれるほど他の部員との遭遇率が低いのは、彼がそもそも大学に来ている日が少ないからだ。
「今度はどこに行ってたんです」
 戦闘機が機雷を避けられずに爆発し、ゲームオーバーになったところを見計らって尋ねてみると、コントローラーを持ったまま大きく伸びをした彼は、まるで新宿まで映画を見に行ってきた、と言うような気軽さで「北海道」と答えた。
「あっちは涼しくていいね~。こっち帰ってきたら暑くてあつくて。あ、そこにお土産置いてあるから」
「……よりによってこれですかい」
 木彫りの熊が鮭をくわえている、あの定番の置物を目の当たりにする日が来るなど、思いもよらなかった。
「榊さーん、せめて食い物にしてくださいって」
「いやー、それを見ちゃったらもう、買うしかないなって思ってさ」
「そう言って榊さんが持ちこんだ謎のお土産、この部室にどんだけあると思ってるんですか」
「いいじゃない。こういうのもいずれ、何かのネタになるかもしれないんだからさ」
 経営学部の三年・榊遼一さんは、本当に謎多き人物だ。
 見た目は中肉中背で、どこにでもいるような大学生。穏やかな性格で人当たりもいい。問題なのは、その恐ろしいまでの行動力だ。
 何しろ、彼は「限定公開のお寺があるんだ」だの「本場のたこ焼きが食べたくて」だのと言い残しては、学期中にもかかわらず旅立ってしまう。そして、ふらりと帰ってきては、なぜか自宅ではなくこの漫研の部室に謎の土産物を飾るのだ。
 ただでさえ、山のような漫画とゲーム、そしてアニメの複製セル画やポスターで埋め尽くされた空間に、シーサーだの狐面だのが飾ってある様子は、最早カオスとしか言いようがない。
 この放浪癖は入部当初からのようで、先輩達はおろかOB達も最早、苦言を呈したりしない。むしろ、彼が旅の最中で仕入れてきた様々なネタを心待ちにしている感もあった。榊さん自身も放浪体験を写真入りのエッセイにまとめて部誌に載せたりしているから、彼の放浪癖はまさに「趣味と実益を兼ねたもの」なのだろう。
「五稜郭、一度行ってみたかったんだよ。本当は桜の時期に行けたらよかったんだけどねー」
 呑気なことを言っているが、そのために七月末の試験をすっぽかして旅立ったということは、すでに周知の事実だ。
「……榊さん、まさか北海道までヒッチハイクしてたからこんなに時間かかった、とか言わないでくださいよ?」
「まさかー。うまいこと長距離トラックを捉まえられれば、北海道までなんてすぐだよ」
 ……そういう問題じゃない。
「試験もすっぽかして、大丈夫なんですか?」
「いやあ、青春は短いからね。何を優先させるかは人それぞれだよ」
 その緊張感のない答えを聞いて、少し前から聞こえてきたとある噂がますます真実味を帯びてくる。
「……榊さん。大学やめるって噂、聞いたんですけど」
 思い切って問いかければ、ゲーム機の電源を落とした榊さんは、よっこいしょと折りたたみ椅子から立ち上がった。
「はは、もうそんなに広まってるの?」
 あっけらかんと笑い、これまた何でもないことのように「そうだよ」と答える。
「どう頑張っても単位が足りなくてさ。留年するのもアレだし、ちょうどいいから、ちょっと世界一周旅行でもしてみようかと思って。……なーんてね」
 いつもの冗談なのか、それとも真実なのか。どうにも測りにくい。いつもこんな調子ではぐらかされてしまうのだから、本当に困ったものだ。
 しかし、こういう返事をしてくる時の榊さんに何を言っても無駄だということは、短い付き合いの中で十分思い知らされている。
「またまた~。勘弁してくださいよ榊さん」
 わざとらしく声を上げて、ロッカーに教科書とファイルを放り込む。
「これから学祭準備で忙しくなるのに、榊さんに抜けられちゃったら、オレら途方に暮れちゃいますからね」
「ああー、もうそんな時期だっけ。今年は誰が出ることになった? 女装コンテスト」
「……くじ引きで負けて、オレが」
 一番聞かれたくなかったところをピンポイントで突かれて、ぐぬうと拳を固める。
 案の定、腹を抱えて大爆笑してくれた榊さんは、笑いすぎて涙が滲む目を擦りながら、ぱたぱたと手を振ってみせた。
「大丈夫だいじょうぶ! 似合うよきっと!」
「他人事だと思ってぇ……!」
「いやいや、ボクも一年の時にやったから。腹括っちゃえば、意外に楽しいよ」
 本嶋君には何が似合うかな~、などと、机の上に放り出されていたアニメ雑誌をめくる榊さん。その手からばしっと雑誌を取り上げて、もう帰りましょう、と促す。
「あーもう、今いい衣装があったのにー」
「そんなもん見つけないでください! ほら、今日はもう誰も来ないだろうし、帰りますよ! 駅前のゲーセン寄って行きましょ」
「あ、それはいいね。久々に対戦しようよ」
「負けた方がジュースおごりですよ」
「ほほう、受けて立とうじゃない」
 いつものようにふざけながら、いつものように部室を後にする。
 窓を閉め、ドアを施錠し。夕陽が照らす廊下を歩いて階段へ。クラブハウスを出る頃には、午後五時を知らせる夕焼け小焼けのメロディーが流れてきて、授業や部活を終えた学生達がちらほらと帰路に着く姿が見えた。
 いつものように他愛もない雑談をしながら、ゲーセンの筐体に惜しみなく小銭をつぎ込み、腹の虫が空腹を訴えたところで渋々駅へと向かう。
 先に来たのは榊さんの乗る電車だったから、また明日、と手を振ってホームで別れた。
 ゆっくりと走り出していく電車の窓越しに、どこか楽しそうに荷物の中からヘッドホンを引っ張り出す榊さんの横顔が見える。
 どうやら荷物の中でコードが絡まっていたらしく、慌てて解いているところまでが見えてしまって、思わず「またやってら」と呟いた。
 それが最後に見た姿になるなどとは、これっぽっちも思わずに。


「やめたぁ!?」
「昨日、退学届を出したんだってさ。ご丁寧に退部届も置いてったよ」
 呆れたように肩をすくめ、部長は手にしていた紙切れを机に滑らせる。部長のロッカーに突っ込まれていたというそのレポート用紙には「世界一周旅行に出発するため退部します。お土産送るからね」と書かれている。いかにも榊さんらしい退部届だ。
「まったくあいつは、最後までつかみどころのないやつだったな」
 数少ない同期である部長は、どこか寂しげに笑って肩をすくめてみせた。
「お土産送るって……これ以上増やされても困るんですがね」
「まったくだ」
「でも榊さんのことだから、ある日突然ひょっこりと戻ってきそうですよね」
「何でもなかったような顔をしてな。やりそうなことだ」
 やれやれと溜息を吐いて、机の上に投げ出されたアニメ雑誌に手を伸ばす部長。
「お、そうだ本嶋。ミスコンの衣装な、これなんかどうかと思うんだよ」
「部長まで何言ってるんですか!」
 思わず声を張り上げたところでタイミングよくドアが開いたと思ったら、どっと溢れてくる賑やかな声。
「こんちわー!」
「今日部会だよねー」
「これ来てたよ部長。看板の依頼、一件追加だってさー」
「衣装のレンタル先、目星つけてきたよ!」
 わらわらと入ってきた部員達。いつもはなかなか顔を出さない四年生まで、今日は勢揃いだ。
 一気に賑やかになった部室に響く、部長の声。
「これで全員揃ったな。よーし、部会始めっぞー」

 そうして、榊さんのいない、いつも通りの『漫研の日常』が始まる。


「……さん! コンノさんってば!」
 頭上から降り注ぐ声に、はっと目を開く。
「もう、コンノさんてば、そんなところで寝たら風邪ひきますよ」
 心配そうに声をかけてきたのは、『ニューカレでコケた子』こと一年の吉川千尋さん。
「付喪神が風邪なんかひくのか」
 呆れ顔で指摘してくるのは、『実力派幽霊部員』こと三年の今野吉隆くん。
 二人とも、数少ないボクの友人であり、「漫研仲間」だ。
「あれ……ボク、寝てた?」
 頭を振り、一つずつ状況を整理する。
 ここはクラブハウスの三階突き当り、漫研の部室。そして今は放課後で、確かついさっきまで――卒業生本の原稿に追われる二人の手伝いをしていたはずだ。
「気づいたら机に突っ伏して寝てたから、びっくりしましたよ。コンノさんも居眠りするんですね」
 トントンと原稿用紙を揃えながら、吉川さんが笑う。どうやら無事、原稿が仕上がったらしい。
「他の部員が入ってきたらどうするんだ。まるっきり不審者だぞ」
 机の上の消しゴムかすを払いながら睨んでくるヨシくんは、一足早く原稿を終えていたようだ。
「その時は上手いこと誤魔化してよ。ところで二人とも、卒業本の原稿、終わったの?」
「何とか間に合いましたー」
「今年は二人だけでよかった。去年は六人もいたから、描くのも製本するのも大変でな」
 『毎年一人は五年生を出す』という漫研のジンクスを突き破り、見事卒業の決まった四年生二人。堀内くんは内定がなかなか取れず、下級生相手に管を巻いていたし、伊藤さんは卒業論文にダメ出しされて、それはもう盛大に嘆いていた。
 彼らがボクを知らなくても、ボクはずっと忘れない。彼らがここで過ごした四年間を。
 泣いて笑って、時に対立して。それでも最後には笑い合って、そうしてここを去っていく、愛しき「仲間」達。
 そう、あの時も――あの時? どの時だっけ。
「コンノさん、何かいい夢見てました? 楽しそうに笑ってましたよ」
 夢――そうか、ボクは夢を見ていたのか。
「そうだね。なんだか、懐かしい夢を見ていたみたいだ」
 今となっては、もう思い出せないけれど。夢の中でボクは、なんだかとても楽しくて、そしてどこか――悲しかった、気がする。
「さあて、原稿も無事終わったことだし、打ち上げでも行く?」
「残念ながら、今日はこれからバイトだ。無理言って遅出にしてもらったからな」
 さっさと帰り支度をして出ていこうとするヨシくんに、吉川さんが慌てて原稿を事務机の引き出しにしまい込む。
「わわ、待ってくださいよぉ! 私も帰りますってば!」
 あたふたと広げていた荷物を鞄に詰め込んで、椅子を蹴倒す勢いで部室を後にしようとする吉川さん。そのまま飛び出していこうとして、慌てたようにこちらを振り返る。
「あっ! コンノさん、また明日!」
「はいはい、また明日」
 それは呪文だ。ボクをここに引き留めてくれる『魔法の言葉』。
「吉川、置いてくぞ」
「今行きますってばー!」
 今度こそドアを閉め、バタバタと駆けていく吉川さん。やれやれ、ヨシくんの方は挨拶もなしか。でもまあ、それも彼らしい。
彼は決して口には出さないけれど、ちゃんと信じてくれているんだろう。ボクが勝手に消えたりしないってことを。
「さてと。電気と戸締りくらいはしてあげないとね」
 どちらも見事に忘れて帰っていった二人の代わりに、窓を閉め、内側からドアの鍵を閉めて、最後の仕上げに照明を落とす。
 暗闇に包まれた部室の中、仮初めの肉体が夜に融ける。そうしてボクは本体――窓際に飾られた白狐の面――へと戻って、孤独な夜を過ごすのだ。
『また、明日』
 自分に言い聞かせるように呟いて、そっと意識を閉ざす。
 明日もまた、二人に会えますように。そう祈りながら。

閑話・狐面は極彩色の夢を見るか?・おわり


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