近所に見事な桜並木があるのだから、わざわざ庭に植える必要はないだろう、というのが家主の考えであり、故に桜の季節になると、下宿人達は一升瓶を抱えて近くの土手まで繰り出してゆく。
「
鼻息荒く声をかける新入りの後頭部を容赦なく張り飛ばして、松来家の次期当主は実体なき使用人を振り返った。
「すまん、文」
「お気になさらず、坊ちゃま。それよりも、まだ冷えますから、上着を一枚お持ちくださいませ」
地縛霊たる彼女は、敷地外には出られない。花見に限らず、花火大会や秋祭、初詣、ちょっとした散歩に行くことすら叶わないが、彼女はそれを悔やんだり、まして妬んだりするような人間ではない。
だからこれはそう――ただの我がままだ。
「おーい、文! すまんが手を貸してくれないか」
玄関から大音声で呼ばわれば、はーい、ただいま! と奥から声が返ってくる。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。今日は随分とお早い――まあ、これは?」
小走りでやってきた彼女は、三和土のど真ん中に居座る盆栽に目を丸くした。
「土産だ」
小さいが見事な枝ぶりの若木。枝の先に綻んだ薄紅色の花は、紛う方なき八重桜。
「その、なんだ。花見のたびに、わざわざ土手まで遠征するのは面倒だと思ってな。だから――これからは庭で花見をしようじゃないか。どうだ、いい考えだろう?」
些かわざとらしい弁明に、しかし彼女は満面の笑みで手を叩く。
「ええ! とても素敵な思い付きですわ、坊ちゃま!」
この笑顔が見られただけでも、苦労の甲斐があったというものだ。