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里桜
 松来家の庭には様々な樹木が植えられているが、その中に桜の木はない。
 近所に見事な桜並木があるのだから、わざわざ庭に植える必要はないだろう、というのが家主の考えであり、故に桜の季節になると、下宿人達は一升瓶を抱えて近くの土手まで繰り出してゆく。
(ふみ)さんも一緒にどうですか!?」
 鼻息荒く声をかける新入りの後頭部を容赦なく張り飛ばして、松来家の次期当主は実体なき使用人を振り返った。
「すまん、文」
「お気になさらず、坊ちゃま。それよりも、まだ冷えますから、上着を一枚お持ちくださいませ」
 地縛霊たる彼女は、敷地外には出られない。花見に限らず、花火大会や秋祭、初詣、ちょっとした散歩に行くことすら叶わないが、彼女はそれを悔やんだり、まして妬んだりするような人間ではない。
 だからこれはそう――ただの我がままだ。


「おーい、文! すまんが手を貸してくれないか」
 玄関から大音声で呼ばわれば、はーい、ただいま! と奥から声が返ってくる。
「お帰りなさいませ、坊ちゃま。今日は随分とお早い――まあ、これは?」
 小走りでやってきた彼女は、三和土のど真ん中に居座る盆栽に目を丸くした。
「土産だ」
 小さいが見事な枝ぶりの若木。枝の先に綻んだ薄紅色の花は、紛う方なき八重桜。
「その、なんだ。花見のたびに、わざわざ土手まで遠征するのは面倒だと思ってな。だから――これからは庭で花見をしようじゃないか。どうだ、いい考えだろう?」
 些かわざとらしい弁明に、しかし彼女は満面の笑みで手を叩く。
「ええ! とても素敵な思い付きですわ、坊ちゃま!」
 この笑顔が見られただけでも、苦労の甲斐があったというものだ。
 松和荘の面々はどうやって花見を楽しんでいるのかな、と思った時に「そういう時、文さんはどうしてるんだろう?」と考えたことがきっかけで思いついたお話。
 これはまだ、松来家が下宿を営んでいた頃の話なので、盆栽を抱えてきた『次期当主』は香澄さんの高祖父にあたる春臣です。

 文さんは松来家憑きの地縛霊なので、玄関から一歩たりとも外には出られません。なのでお花見についていくことは叶いませんが、松来家の人々ならそれを「仕方ない」と切り捨てたりせず、何らかの方法を模索しただろうな、と思ったらこんなお話に。
 以来、庭の一角に据えられた盆栽の桜を愛でるのが、松来家の春の風物詩となりました。
 もちろん、香澄さんの代になっても、この風習は続いています。

 ちなみにタイトルの「里桜(サトザクラ)」は桜の園芸品種の総称だそうで、春臣さんが買い求めてきたのは里桜の中でも「旭山桜」と呼ばれる八重の桜です。
2018.04.13

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