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風薫る正午
 青葉揺れる頃、と表現される季節の到来を象徴したわけでもないのだろうが、月が変わったその日、驚くほど小ざっぱりとした風体で現れたその人物に、パン屋の髭親父は二度見どころか三度見した挙句、手にしていたトングをぽろりと取り落した。
「――ああああ、びっくりした! なんだよその格好!」
「そこまで驚かなくてもいいじゃないか」
 飾り気のない白いシャツにズボン、長い枯草色の髪を一まとめにした長身の男は、さも心外だと言わんばかりに憤ってみせたが、普段の彼を知る者なら誰でも同じような反応をしたはずだ。何せ普段の彼ときたら、今時《塔》の魔術師でも着ないような古めかしい長衣を着崩しているのが常で、体の線が見えるようなかっちりした服を持っていること自体が驚きだ。
「いやー、生まれてこの方、あんたのそんなまともな格好見たことなかったぞ。やればできるんじゃないか。しかもこんな時間に顔を出すなんて、明日は雪か!? いや、いっそ世界が滅びると言われても、今なら信じるぞ俺は」
 酷い言われようだが、男は反論することなく、ただ困ったように肩をすくめてみせた。
「ほら、今日は絶好の洗濯日和じゃない。しかもオルト君の休みが重なってたもんだから――」
「ははあ、読めたぞ。いつもの『ずるずる』をまとめて洗濯されて、着るもんがなくなったんだな」
 昨日までぐずついた天気が続いていたから、久々の好天に洗濯意欲が刺激されるのも無理はない。きっと今頃、骨董店の裏庭には洗濯用の縄が張り巡らされ、大量の布類が薫風に翻っていることだろう。
「乾くまでこれを着てろって渡されたんだけど、着慣れないから何だか心許ないね」
 なるほど、やけに神妙な顔つきで店に入ってきたのはそういう理由だったらしい。初めて毛を刈られた羊のように、己の身軽さに戸惑っているというわけだ。
「普段が着込み過ぎなんだよ。もう青葉月だぞ、気の早いやつは半袖になってるくらいだ」
「君は年がら年中袖なしだろ」
「おうよ、竃の前は暑いからな。着込んじゃいられねえよ」
 自慢の上腕二頭筋をばしんと叩き、豪快に笑う髭親父に、何を思い出したのか、くすくすと笑みを零す男。
「君は全然変わらないね。虫取り網を手に、うちの裏庭に突撃してきた時と、ちっとも変わってない」
「……その台詞、そっくりそのまま返してやるよ」
 《垂れ耳エルフ》のユージーン。彼の若かりし頃を知る者は、少なくともこの街にはいない。いつ見ても、誰に聞いても、彼は『くたびれたおっさん』だ。栄光の過去も語り継がれる伝説もない、ごくごく普通の『中年エルフ』なのだ。種族的に否が応でも美形補正がかかるところは若干腹立たしいが、そのぐうたらぶりであらゆる評価に下方修正が入っているので、彼に対する周囲の目は割と冷ややかだ。
「気づいたら俺の方がおっさんになっちまった。いやホント、時の流れってのは容赦ねえもんだ」
 むくつけき髭親父が街一番のガキ大将として名を馳せていた頃から――いや、そんな生易しいものではない。曽祖父がこの街でパン屋を開いた頃から、彼は何一つ変わらない。飄々とした佇まいも、のんべんだらりとした暮らしぶりも――曽祖父が語る昔話のままに、彼は今もここに存在する。
「で? 洗濯の邪魔だからって追い出されて、暇潰しに来たってわけか?」
「人聞きが悪い。ちゃんと客としてきたんだよ。昼食になるようなものを三人分、適当に見繕ってくれる?」
「はいよ。ちょうど、お嬢ちゃんの好きなキッシュが焼き上がったところだ」
 焼きたてのキッシュを籠に詰めながら、わざとらしくぼやいてみせる。
「まったく、閑古鳥の鳴いてる店に、あんなに可愛い看板娘がいるなんて反則だぜ。給金は弾むから、うちで働いてくれんもんかね」
「それは困るよ。彼女が来てから、随分と楽させてもらってるんだから――」
 からかい半分の言葉に、やけに真面目な顔で反撃してきたかと思ったら、唐突に黙り込む男。そして――。
「……忘れてた」
「なにがよ」
「お給料」
 しまったー、と頭を抱える男に、おいおいと肩をすくめる。あの銀髪の少女が骨董店の看板娘に納まったのは、確か先々月の始めではなかったか。
「初っ端から給料滞納、しかも二か月連続と。こりゃあ、愛想つかされても文句言えねえな」
「ああー、どうしよう。契約書を取り交わした時まではちゃんと覚えてたのになあ。怒ってるかな。怒ってるよねえ」
 珍しく取り乱している男に籠を押し付け、動物でも追い払うように手を振る。
「いいからさっさと帰って、とっとと払うもん払って謝るんだな。ああ、再就職先を探すなら、うちはいつでも大歓迎だって伝えてくれよ」
「やだね。彼女がいなくなったら、僕はおちおち昼寝もしていられないじゃないか」
「するな」


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