[TOP] [HOME]

1.獅子門

 獅子の彫刻が施された門を潜り抜けると、そこは青白い光が灯る、幻想的な街だった。
「これは美しい」
 思わず呟いてしまったら、すぐ隣から「そうでしょう!」と声が上がる。
「おっと失礼。旅の方、ザナヴェスカは初めてでいらっしゃる?」
 声を掛けてきたのは、門の隣に建つ案内所の職員らしき男性だった。黒い長衣を着ているところを見ると、魔法使いだろうか。
「ええ、そうなんです。とても綺麗な街ですね、ここは」
 ザナヴェスカの別名は『魔法街』。名前からして、魔法使いばかりが住んでいるような印象を受けるが、どちらかというと彼らが使う魔術用品などを取り扱う店が集まって出来た街らしい。
「ここは谷間の街でしてね、昼日中でも薄暗いので、あちこちに『星屑角灯』が設置されているんです」
 あの青白い光は魔法ではなく、特殊な鉱石の発光作用によるものだという。火事の心配がないから、確かに街路灯には最適だろう。
「以前は本当に、魔術士か魔具技師くらいしか寄りつかない街だったんですが、最近は観光目的の方が増えて、活気が出てきたんですよ。そうだ、オススメの観光名所をご紹介しましょうか?」
 是非お願いします、と頷きかけて、はたと本来の目的を思い出す。
 いけないいけない。ここには観光に来たのではない。失踪した画家アルス=ディルクルムを探して、依頼の絵を描かせる。それこそが私の目的だ。
「いえ、実は人捜しをしているのですが、警備隊の詰め所はどちらですか?」
「ああ、それならあの建物ですよ」
 向かい側にある石造りの建物を指さし、「ただ――」と声を潜める男性。
「ここの警備隊は魔具の暴走とか魔術士の奇行を止めるのが専門でね。人捜しだったら、いっそうちに依頼した方が手っ取り早いかもしれませんよ」
 そう言って指し示したのは、自身の頭上――そこには『魔術士ギルド出張所』の文字が躍っていた。


2.尻尾広場(魔術士ギルド出張所)

「確実に獅子門を通っていて、大体の日時が分かっているなら、映っている可能性はありますね」
 今日の当番だという若い魔法使いは、そう説明しながら水晶玉に手をかざした。何でもこれは獅子門に取り付けられた魔法の水晶玉と連動しており、門の出入りを記録した映像を再生できるらしい。
「……半月前の……このあたりかしら……。大きなキャンバスを背負った壮年の男性……ああ、この方じゃありませんこと?」
 水晶玉に映し出されているのは、麦わら帽子を被り、背に大きなキャンバスを背負った痩身の男。人波に押されてよろつきながら門前広場を横断し、郵便局へと入っていくところがはっきりと映し出されていた。
「間違いありません。アルスです!」
 しばらくすると、身軽な姿になった男が郵便局から出てきて、意気揚々と歩いて行く姿が確認できた。郵便局に寄ったのは、キャンバスをどこかへ発送するためだったのだろう。
 ……これはまずい。もしかすると、私と入れ違いに依頼品が店へ届いている可能性が出てきたではないか。
 すぐに確認を取ろうと決意を固める私を横目に、魔法使いが申し訳なさそうに口を開く。
「門の水晶玉から見える範囲はあまり広くなくて、これが限界ですね。すみません、あまりお役に立てなくて」
「いえ、とんでもありません。ヤツが絵をどこかへ送ったことが分かっただけでも十分です。ありがとうございました」
 所定の料金を支払い、ギルドを後にする。勿論、この後に向かうのは郵便局だ。もしヤツが依頼品を発送しているのだとしたら、私がここまで追いかけてきた意味がなくなってしまう。それだけは確認しなければ。


3.五番街郵便局

「すみません、そういった情報はお教えできないんですよ」
 きっぱりと告げられて、がっくりと肩を落とす。私宛の荷物かどうかを調べてもらうくらいなら造作もないかと思ったが、言われてみれば、郵便物の差出人だの宛先だのは極めて個人的な情報だ。まして、私がどこの誰かを証明する手段がない以上、おいそれと教えてもらえるわけもなかった。
「無理を言いました、申し訳ない」
 こうなったら、店番に手紙を出して、郵便物を確認してもらうのが一番早いだろう。窓口で便箋を買い、入口付近に設けられた書き物机で手紙をしたためる。返事は一番街郵便局留めにしてもらえば、他の郵便局から取り寄せが出来るそうで、実にありがたい。
「この手紙を一番街経由でメイナムまでお願いします。……どのくらいかかりますかね?」
「そうですねえ……早くて十日くらいでしょうか」
 なにせメイナムはアルステラ大陸の西端にある街だ。私が一番街へ到着するまでに鉄道と馬車を乗り継いで半月ほどかかっていることを考えると、むしろ手紙の方が早い。
「速達便をご利用になりますか?」
 三日は短縮できるというので、是非にとお願いした。料金は倍以上になるが、これは経費で落とせるから問題ない。
「ザナヴェスカ内、もしくはアイシャス大陸内の配達でしたら、特急便をご利用いただけるんですけど」
 特急便になると、速さ自慢の魔法使いが空飛ぶ箒で運んでくれるらしい。それはちょっと見てみたかったが、なにしろメイナムは一番街の更に外だ。魔法使いすら滅多にお目にかかれない世界で、空飛ぶ箒はあまりにも目立ちすぎる。
「五番街郵便局の消印を押しておきますね。これ、密かに人気らしいんですよ」
 キラキラ光る紫色のインクで捺された消印は、とんがり帽子と空飛ぶ箒の意匠だった。


4.魔法道具街

 郵便局をあとにし、ぐねぐねと曲がりくねった坂道を道なりに上っていく。
 五番街と呼ばれる区間は、獅子門のある尻尾広場から巨蟹門のある逆鱗広場を繋ぐ《うわばみ通り》のみ。実のところ、十二ある《世界樹の街》では一番狭い街区らしい。《うわばみ通り》は一本道で、《門》も一番街と四番街にしか繋がっていないから、迷いようもない。あちこち当たってみて、手がかりがなければ四番街へ進むしかないだろう。
 このあたりは魔法道具専門店が軒を連ねる、通称《魔法道具街》と呼ばれるところだ。道の両側には風変わりな看板を掲げた店が立ち並んでおり、硝子をふんだんに使った飾り窓には見たこともない道具の数々が飾られている。
「すまないね、そこを通してもらえるかい?」
 うっかり扉の前で立ち止まっていた私にそう声を掛けてきたのは、紺の長衣にとんがり帽子を被った年嵩の女性だった。
「これは失礼」
 慌てて横にずれると、女性は「ありがとねえ」と笑顔でドアノブに手を掛け、「準備中」の札がかかった扉を容赦なくこじ開ける。
「ヴァレス、いるかい? 至急、杖を作って欲しいんだけど!」
「まだ開店時間じゃねえぞ! 出直してこい」
「急ぎなんだよ!」
 どうやら、ここは魔法の杖専門店のようだ。アルスは杖を使わないから、きっとここには立ち寄っていないだろう。
 そう、アルス=ディルクルムは腕利きの魔法画家だ。専用の絵筆と絵の具を使い、絵に命を吹き込む魔法を得意とする。
 かなり特殊な魔法のため、扱える魔法使いはほとんどいない。それ故に専用の魔法道具が存在せず、彼はいつも市販の絵筆や絵の具を自ら改良して使っていた。
「……もしかして、この街なら……?」
 これほど多種多様な魔法道具を取り扱う店が軒を連ねているのなら、彼が求める魔法道具が売っていたとしてもおかしくはない。もしや、この旅の目的はそれだったのでは……?
 慌てて一番街で買い求めた案内書を取り出し、魔法道具街の頁を開く。魔法の筆や魔法の絵の具、はたまた調合の材料を取り扱っているような店があるならば、彼がそこに立ち寄っている可能性は高い。
「よし、片っ端から当たってみるか」
 張り切って捜索を開始したのはいいものの、結局のところ有力な目撃情報は得られなかった。
 一番可能性が高そうだった魔法画材屋『世界樹堂』には、彼があれほど探し求めていた『魔法絵の具』が大特価で売られていたが、「この絵の具を使って書くと一定時間光る」とか「絵が動く」といった魔法が込められているだけの代物で、彼の『絵画魔法』には使えそうにない。
 店員に聞いたところ、世界中の魔術士が集うと言われるこのザナヴェスカでも、魔法画家というのはかなり希少な存在らしい。
 別の街区では、機械仕掛けの『動く絵画』が存在するらしい、という話も聞いたが、それはそれで興味深い。
 さて、彼がこの魔法道具街に立ち寄っていないとなると、怪しいのはこの先――《胃袋》だろうか。


5.青鱗広場

 すでに昼過ぎというのに、広場にまで立ちこめてくる美味しそうな匂い。
 この先の露店街《胃袋》には、食料品だけでなく、その場で食べられるような惣菜や菓子なども売られており、食べ歩き目的での観光客も多いらしい。
 実際、広場のベンチでは、《胃袋》で買い求めたらしき食料を食べて歓声を上げている観光客がそこここに見受けられる。
 中には、広場中央の銅像によじ登って甘味を堪能している不届き者もいたが、これはすぐに警備隊に注意されて、そそくさと退散していた。
 広場の銅像は『尻尾を飲み込む蛇』――こちらでは『永遠』を象徴する図案らしい。こういったものがさりげなく街角に飾られているとは、いかにも魔術師の街らしい。
 なんてことを思いながら銅像を見ていたら、蛇と目が合った――のは気のせいだろうか。
 もしかしたら、この蛇も『獅子門』の水晶玉と同じく、魔術的な防犯装置なのかもしれない。


6.《胃袋》

 アルスは食に拘りのある人間ではないが、無類の甘い物好きだ。これだけ周囲からいい匂いがしていたら、そのつもりがなくとも立ち寄っている可能性は高い。
「いらっしゃい、いらっしゃい! 菓子店《オ・ルカ》の魔法菓子だよ~!」
 元気な呼び込みにつられて足を止めると、そこは瓶詰めの飴やチョコレートを取り扱う露店だった。
「光る星粒に夢見るチョコレート! おやつにお土産に、お一ついかがッスかー!」
 呼び込みをしているのは魔法使いらしき長衣の少年、その隣でせっせと商品を補充しているのは、艶やかな鱗と尻尾が美しい妙齢の女性だった。
「すみません、魔法菓子とは何ですか?」
 そう尋ねてみると、少年が待ってましたとばかりに解説を始めた。
「お客さん、お目が高い! 魔法菓子っていうのは、《極光の魔女》が開発した、魔法効果を織り込んだお菓子のことッス!」
「アタシの知り合いでね。うちの店に卸してもらってるのさ」
 そう補足したこちらの女性が、菓子店《オ・ルカ》の店主らしい。
「こっちは食べると体が光り出す砂糖菓子、こっちは良い夢が見られるチョコレートッス。味も効果も折り紙つきッスよ」
 そう語る少年は、どこか遠い目をしている。何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
「おや、こちらは? 魔法菓子ではないのですか?」
 端にひっそりと置かれていた棒付き飴を指さすと、店主が「そっちは試作品さ」と苦笑を漏らした。
「これは舐めているうちに飴が七色に変化する、という魔法菓子でね。安全性はばっちりなんだけど、正直なところ、魔法なしでも色が変わる飴は作れる。もうちょっと捻った方がいいんじゃないか、って試作を繰り返しているところなのさ」
 なるほど。これは魔術の本質を突く問題だ。魔術以外の手段が確立されている場合、わざわざ魔術を行使する必要があるのか。店にいた頃、アルスとそんな議論をしたことがあった。
 彼が描いた魚は水槽を撥ね回り、鳥は大空へ飛び立つ。しかし、それならば最初から生きた魚や鳥を用意した方が早いし費用も安く済む。ならば、彼がわざわざ描く必要はあるのか。描くとしても、魔法を使わない、普通の絵ではいけないのか――。
「ただねえ、魔法を使わないで七色に変えようとすると、ものすごく大きな飴になっちまうのさ。それこそ子供が頬張れないくらいにね。それはそれで問題だろう?」
 確かに、いくら費用的に優れていても、飴としての存在価値が失われては意味がない。
「でもルカさん、こないだこれを買ってったお客さんは『魔法だろうが何だろうが、味わう側には分からない。分かるのは「凄い」ってことだけだ』って言ってたじゃないッスか」
「そりゃあそうだけど、こちらにも菓子職人としての矜持ってもんがあるのさ。同じ効果があったとしても、普通の菓子を『魔法菓子』と謳うことはしたくないし、ユラだって『魔法菓子』を普通の菓子として売りたくはないから、こうやって試行錯誤してるわけだろう?」
 なるほど、考えさせられる言葉だ。アルスも時折、手慰みだといって魔法抜きの絵を描くが、それを販売したことはない。どんなに普通の絵を請われても、魔法絵より高値で買うと言われても、「それをしたら魔法画家の名折れだ」と言って聞かなかった。
「こちらでは魔法菓子以外も扱ってらっしゃるのですか?」
「ああ、うちは元々、《胃袋》のもっと奥まった場所に店を構えてる菓子店でね。祭の時とか、魔法菓子の納品があった時だけ、こうやって露店を出してるのさ」
 店内には飲食出来る席があり、買った菓子をその場で食べることも出来るそうだ。アルスなら全種類を制覇するまで帰らない、と言い出すところだろう。
「ところで、お客さんも魔術士ッスよね。《北の塔》にご用事ッスか? オレ、あと少ししたら帰るんで、案内しましょうか」
 驚いたことに、彼はザナヴェスカ近郊の魔術研究機関《北の塔》に所属する、駆け出しの魔術士だという。
「いえ、私は魔法使いではなくて――そうですね、使い魔みたいなものだと思っていただければ」
 魔力感知が出来る相手に、下手な隠し立ては無意味だ。当たり障りのないところだけ掻い摘まんで、事情を説明するとしよう。
「……というわけで、アルスを探しに世界樹の街へとやってきたのですが、手がかりが少なくて難儀しているところなのですよ」
「なるほどねえ、そいつは大変だ。この五番街は狭い上に人が多いからね、よほど特徴的な見た目でもしてない限り、記憶に残らないだろうねえ」
 そう、せめてあの目立つキャンバスを背負ったままでいてくれたなら、目撃証言も多く得られただろうに。
「それを言ったら、お客さんはめっちゃ目立ってるッスね。でもまあ、ここは奇抜な格好をしてる人間が多いからなあ」
 異世界人が多く立ち寄る五番街内は、多種多様な人種が行き交っており、どんな風体でも不思議と溶け込んでしまう。この街に入ってから、ほとんど好奇の目を向けられなかったのも、この街ではそれが当たり前だからなのだろう。
「だからアタシもこの街で商売してるのさ。ここならアタシの尻尾や鱗も目立たないからねえ」
 あっけらかんと笑う彼女は、三番街からの移住組だという。火竜の血を僅かに引いているという彼女は、艶やかな尻尾や手足の鱗、そして縦に裂けた瞳孔といった特徴を備えている。
「こっちじゃ竜は希少種ッスからねー。おかげで、師匠がルカさんに出会った時は大興奮で手がつけられなかったッスよ」
 彼の師匠は竜についての研究をしており、魔法街で偶然出会った彼女を小一時間ほど質問攻めにしたそうだ。それだけ、こちらの世界では竜が珍しい存在なのだろう。もっとも、私の暮らすアルステラ大陸でも、竜はすでに絶滅しており、神話にのみ語られる存在だ。案内書の『各街区の固有種族について』という特集記事を読んでいなければ、きっと私もルカさんを見て驚いていたことだろう。
「その探し人がこの街で目撃されたのが半月前だっていうなら、きっともうこの街にはいないだろうね。ここは宿が少ないし、生活費も割高だ。この街が目的地でないなら、とっくに先へ進んでると思うよ」
 五番街から繋がるのは四番街のみ。行き先が絞られている分、楽と言えば楽だ。
「四番街はどうでしょう、私のような風体では目立ってしまうでしょうか」
 恐る恐る尋ねると、二人は口を揃えて「大丈夫」と太鼓判を押してくれた。
「四番街はここ以上に何でもありッスから」
「何か言われたらこう答えるといい。「これは仮装です」ってね」
 四番街は不思議な市が立つ街だと聞いたが、常に祭でも開かれているのだろうか。しかし、こういった情報はありがたい。
「ああ、そうだ。巨蟹門は通行時間が決まってて、あと二時間くらいで閉門なので気をつけた方がいいッスよ」
 閉門時間に間に合わなかった旅人は、門前市場周辺の宿に泊まって翌朝の開門を待つしかないという。
 グズグズしている暇はない。なんとしても今日中に、次の街へ辿り着かなければ。


7.星見の塔

 二人に礼を言って露店を後にし、《胃袋》を通り抜ける。さっきまで人波に揉まれるほどだったのに、今や歩いているのは私だけだ。
 このあたりは魔術士や天文学者達の研究室が軒を連ねている。狭い土地に無理矢理建てた結果、高い塔ばかりが乱立してしまっているらしい。時折、実験が失敗して研究室が吹き飛んだりするらしいが、今日は至って静かだ。人通りすらなく、一人分の足音だけが高く響く。
 谷間の街に聳える塔は、まるで洞窟の奥深くに眠る水晶柱のようだ。あちこちに灯る青い街灯の光が、ますます神秘的な雰囲気を醸し出している。
 そういえば、この街の街路灯は発行する鉱石を利用した、熱を帯びない光なのだと聞いたが、光や熱に弱い私でも、これなら携帯できるのではなかろうか。画廊の照明にもいいかもしれない。
 案内書を見ると、なんとこの近くに専門店があるという。地図を頼りに探すと、すぐに見つかった。倉庫を改造したような小さな店だが、ここで街中の街灯を製造・点検しているらしい。
「こいつは精霊の宿った石を使ってるからな。よその街区で長く使える保証はないぜ」
 強面の店主はそう言いつつも、小ぶりで携帯しやすい角灯を選んでくれた。
「光が弱くなってきたら、太陽に当ててやれ。大事に使ってくれよ」
「はい、勿論です。ありがとうございます」
 角灯を手に、再び誰もいない道を行く。この先にあるのは四番街へ続く《巨蟹門》だ。


8.逆鱗広場

 緩やかな坂道を上りきった先が、《巨蟹門》のある逆鱗広場だった。
 ここまでの道程の静けさが嘘のように、広場は旅人で賑わっている。この広場周辺にある宿屋で念のため聞き込みをしてから、四番街へ向かうとしよう。
 《巨蟹門》は広場の中央にどんと建っており、何も知らなければ単なる飾りだと思うだろう。実際、門をくぐらなければ、そのままザナヴェスカの街中を歩き続けるだけだ。
 しかし、注意深く見ていると、門から唐突に出現する旅人や、門を通り抜けた瞬間に姿を消す旅人がいる。こうして《門》は何食わぬ顔で、あちこちの世界を繋いでいるのだ。
 今まさに《門》を通ってやってきた旅人は、何やら両手にずっしりとした紙袋を携え、達成感に溢れた笑顔で喫茶店に吸い込まれていった。四番街には特殊な市が立つと言っていたが、あの旅人はその市場で買い物をしてきた帰りなのかも知れない。
 門の上に設置されたからくり時計が、賑やかな音楽を奏で出す。閉門まであと一時間弱。聞き込みをするには十分だろう。


9.《巨蟹門》

 あちこちの宿屋で聞き込みをしたものの、それらしき人物がこの街の宿屋に泊まっていたという確証は得られなかった。やはり、この街は素通りして、先に進んでしまったのだろう。
 少し時間が余ったので、門近くのベンチに座りこみ、休憩がてら四番街の案内書に目を通す。次なる街では定期的に不思議な書物市が立ち、他では見ることの出来ない希少な書物を手に入れることが出来るらしいが、読書は苦手だと公言して憚らないアルスが、この街に長く滞在するとは思えない。
「旅人さん、これから四番街へ行くの?」
 軽やかな声に顔を上げると、黒猫を抱きかかえた魔法使いが目の前に立っていた。
「はい、そのつもりです」
「それなら忠告しておくけど、四番街に宿屋はないわ。今日のバザールは終わってるし、行っても朝までやることないから、誰もいない広場で野宿するしかないわよ。それが嫌ならここで一泊していくといいわ」
 これは盲点だった。市場が立つ街というよりも、市場そのものが「四番街」なのだろう。
「ご忠告、感謝いたします」
 野宿するのは構わないが、早く行っても出来ることがないのであれば、先を急ぐ必要もない。
「ちなみに、私は人探しをするために四番街へ向かおうとしているのですが、明日も市が立つでしょうか?」
 行ったはいいが誰もいないのでは、聞き込みすらできない。それならばいっそ四番街を通過して、次の街へ進んだ方がいいかもしれないと思ったのだが、これは杞憂だった。
「前は年に二回程度だったんだけど、最近は長くやってるの。今回は明後日までよ。早朝から準備してる人もいるから、聞き込みも出来るんじゃない? 何にせよ、明日の開門を待った方がいいわ」
 困ったことがあったらいらっしゃい、と差し出されたのは、黒猫の絵が描かれた名刺。
「それじゃあね。貴方だけの素敵な物語が紡がれますように」
 じゃあね、と手を振って、門へと吸い込まれていく魔法使い。その背中が虚空に消えると同時に、からくり時計が高らかな鐘の音を響かせた。
 こうしてはいられない。閉門に間に合わなかった旅人で部屋が埋まる前に、急いで宿を探すとしよう。


[TOP] [HOME]

© 2021 seeds/小田島静流