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余聞・月鏡
 満月の夜は明るすぎて、どこか落ち着かない。
 だからだろうか。うっかり目が覚めて、そして気づいてしまった。
 月明かりが差し込む店内、その青く透明な闇の中で、淡く光る人影。生身の人間でないことはすぐに分かった。物音も立てず、気配もなく。ただぼんやりと光っているだけで、ぱっと見た限りでは彷徨える幽霊にも見えるが、生憎と――知った顔だ。
「……不法侵入もいいところじゃないか」
『人聞きの悪い。ちゃんとノックはしたよ。君が気付かなかっただけで』
 雑然と物が並ぶ帳場に腰かけて、『影』が笑う。
『第一、実体じゃないんだから、不法侵入には当たらないんじゃないかな?』
「生身だろうが幻影だろうが、ひとの家に断わりもなく上がり込んだら、立派な不法侵入だろう。第一、今は僕一人で住んでるわけじゃないんだから」
『そうそう、それだよ』
 灰色の長衣を翻し、ふわりと着地する。そして『影』は雲の上を歩くような足取りで目の前までやってくると、おどけた様子でぐい、と顔を近づけてきた。
ひとりぼっちのユージーン(ユージーン・アル・ファルド)。やんわりと《世界》から遠ざかっていた君が、この街に店を出すと聞いた時も驚いたものだけど。とうとう、家族を作る気になったかい』
「彼女は従業員だよ。それに――」
『遠慮なくどつき合えるくらいに親しい《小さき友》だろう? 今はせっせと店に通って、彼女ばかりか君の面倒まで見てくれている。なんと麗しき友情だ』
「何が言いたい」
 冷ややかな一瞥を投げかければ、おお怖い、と言わんばかりに肩をすくめてみせる『影』。
『君が積極的に、誰かと関わりを持つようになった。それが嬉しいのさ』
「……人のことを言えた義理かな、《果ての塔》の引きこもり賢者」
 おっと耳が痛い、とおどけた仕草で両耳をふさいでみせ、そして『影』はくるりと身を翻した。
『今宵は挨拶しに来ただけさ。ちょっと買い取ってもらいたいものがあってね。そのうち寄らせてもらうから、そのつもりで』
「ちゃんと扉から入って来るなら、いつでも歓迎するよ」
『心得た。じゃあね、ユージーン。また今度』
 ふっと、まるで蝋燭の炎を吹き消したかのように消える『影』。それを見届けてから、苦々しい顏で窓辺へ歩み寄り、きちんと閉まらない鎧戸をぐいぐいと押さえつける。《果ての塔》の賢者が編み出した『月鏡』は、月光が差し込む場所ならばどこでも交信可能という、便利かつ厄介な術式だ。独りの時は何とも思わなかったが、同居人がいる状況だと、なかなか心臓に悪い。
「ああもう。……あちこち修理しないと、安心して寝てられないな」
 どうにか鎧戸を締め切って、やれやれと吐息を零す。
「また今度、か。しばらくのんびりできると思ったのにな」
 あの賢者が動くと、大抵ろくなことがない。一波乱ありそうな予感を払いのけるように頭を振って、《ユージーン骨董店》のぐうたら店主は長椅子にごろりと転がった。
月鏡・終わり


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