[TOP] [HOME]
空猫通り

 例えば「遠慮のかたまり」とか、例えば「まるでボヘミアの村だ」とか、その土地にだけ通じる変わった言い回しがあるけれど、ここ『ゆめみの町』においては、「急に気が抜けてどうでもよくなること」なんていう、かなり限られたシチュエーションを表す言い回しがあるという。

「ええー! これで今月3回目ですよ!? 今日行ったら私、7連勤じゃないですか! 勘弁してくださいよ!!」
『そこを何とか! 一生のお願い! ほんと今日だけ、今日だけだから!』
「こないだもそんなこと言ってたじゃないですか、ホント無理、今日はイヤですって!」
『頼む! もうみちるちゃんだけが頼りなんだって! それじゃよろしくッ!』
「あっ、ちょっ、センパイ!? ……ああもう!! ふざけんな―――ッ!!」
 思わず絶叫してしまってから、そこが天下の往来だったことを思い出して、かあっと顔が赤くなる。
 坂道を自転車で軽快に駆け下りていく高校生。信号待ちをしながら雑談に興じている近所のおばさん達。たばこ屋の御隠居さん。みんながこちらを見ているような気がして、しゅんと肩を落とす。
(は、恥ずかしい……!!)
 それもこれも、しょっちゅうシフトを変わってと泣きついてくるバイト先の先輩のせいだ。やれ就活だやれ合コンだやれオフ会だと忙しいのは分かるけど、他にもバイトの子はいるのに私にばかり頼んでくるのは、よほど私が懐柔しやすい人間、かつ暇人だと思われているのだろう。――実際、いつも断りきれないし、他に予定もないから反論の余地もないのだけど。
 信号が青に変わり、こちらを窺っているように思えた人々が一斉に動き出しても、怒りが収まらない私は横断歩道を渡る気になれなくて、通行の邪魔にならないよう信号機の横に体を寄せ、すでに待ち受け画面に切り替わっているスマホをいじるふりをする。
 折角のいい天気だっていうのに、朝っぱらから気の滅入る電話を受けてしまったせいで、やり場のない怒りと空しさで頭の中がぐるぐる渦巻き状態だ。
 ああ、このままくるりと踵を返して、アパートに戻ってふて寝でもしてしまおうか。でも、この水曜日の一限はどうしても落とせない授業だし、しかしこんなモヤモヤした状態で受講しても、勉強に身が入る気もしない。
 ああもう、センパイからの電話なんか取るんじゃなかった――!

 するり。

 不意に、足元をすり抜ける柔らかい感触。
 それは滑らかな毛並みとしなやかな肢体から生み出される、まるで生きたベルベットのような、究極の触感。

「――猫?」
 そう、それはまさしく猫が足元を通り抜けていった感触。その一瞬の暖かさまでもがはっきりと思い出せるのに、辺りを見回してもそれらしき猫の姿は見つからない。
「あれ?」
 おかしい、確かに感じたのにと、必死に目を凝らしても、猫どころか動物一匹見当たらない。
 挙動不審を自覚しつつもキョロキョロと辺りを見回していると、不意に背後から声が響いた。

「空猫が通ったね」

 ぎょっとして振り向けば、たばこ屋の隣、小さな喫茶店らしきお店の玄関から出てきたらしい男の人と目が合った。寝起きの姿なのか、あちこち飛び跳ねた髪に無精髭。よれよれのスウェットに身を包んで、手には郵便受けから引っこ抜いたらしき朝刊が握られている。
「空猫が通った?」
 知らない人にいきなり声をかけられたことよりも、その台詞に驚いて、思わずオウムのように繰り返すと、その男の人はどこか楽しそうに、髭の伸びた顎を掴んで頷いてみせた。
「ああ、キミはこの辺の人じゃないんだな。この通りの名前、知ってるかい?」
 唐突な質問に、ぶんぶんと首を横に振る。大学への近道だから毎日ここを通るけれど、こんな小さな通りに名前がついているとは思わなかった。
「ここね、『空猫通り』って言うんだ。今、キミの足元をすり抜けていった猫。そいつがよく現れるからそう呼ばれてる」
「猫! おじさん、猫が見えたんですか!?」
 一瞬目を見開き、そして苦笑交じりに頭を掻きながら、その人は謎めいた答えを返してくる。
「見えたような、見えないような。でもほら、キミ、さっきまでの怒りがどこかへ行ってるだろ」
 そう指摘されて、はたと思い出す。そうだ、さっきまであんなに胸の中がモヤモヤしていたのに、今はむしろすっきりとして、なんだかとてもいい気分。
「この辺ではね、そういう風に「急に気が抜けてどうでもよくなること」を「空猫が通った」って言うのさ。あいつがそういうモヤモヤを全部かすめ取っていっちまうんだと」
 無精髭だらけの顔にはおよそ似つかわしくない、詩的な表現。
 それなのに、不思議と納得が行ってしまって、そっかあと気の抜けた声を出してしまったら、その人はそれこそ猫のように目を細めて、うんうんと頷いた。
「その素直さに免じて、おじさん呼ばわりについての抗議は止めにしておこう」
「あっ……ご、ごめんなさい、つい……」
 いいよいいよと手をひらひら振って、ふと思いついたように「そうそう」とにんまり笑うお兄さん。
「詳しい話が聞きたければ、授業の帰りにでも寄ってくれ。うちは見ての通り喫茶店なんだが、閑古鳥が鳴きっぱなしでね。バイトまでの時間潰しにでも使ってくれると嬉しい」
「は、はいっ!」
 レトロな看板には「喫茶 三日月」の名前。横に貼られた手書きのメニューによれば、季節のおすすめは紅茶のシフォンケーキらしい。甘味好きとしては見逃せないところだ。
「絶対寄ります!」
「おう、待ってるよ。それじゃあ、行ってらっしゃい。気をつけてなー」
 その言葉を待っていたように、信号が青に切り替わる。
「い、行ってきます!」
 手を振って見送ってくれるお兄さんに小さく手を振り返して、足早に大学への道程を辿り出せば、季節外れの暖かい風が背中を押してくれる。
 その温もりはまるで、さっき私のモヤモヤを掻き消してくれた空猫の体温に似ていて、つい嬉しくて頬が緩んでしまったら、道の先でばったり出会った友人に、朝の挨拶よりも先に肘で小突かれた。
「なあに、朝から楽しそうじゃないのよ。いいことでもあった?」
「うーん、そうかもねー」
 まさか、朝からバイト先の先輩に泣きつかれてさあ、なんて、この顔で言えるわけもなく。
 適当に誤魔化して、無理矢理に話題を変える。

「ねえねえ、空猫って知ってる?」

おわり


 こちらは「Text-Revolutions3」のアンソロジーに出そうと書いたものの、当日の頒布物とまるでテイストが違うため、全然参考にならないよなーと没にしたお話。
 珍しく現代モノの読み切り短編ですが、舞台となっているのは「ゆめみの町」。実は、「Boarder Life」のケイさんとめぐみクンが暮らしている、あの町です(^o^)
 前々から町の設定なんかを色々考えていて、「Boarder Life」以外の話も書いてみたいなと思っていたので、思い切ってこちらも始めてみました♪

 あれこれ繋がっているようで単品でも楽しめる、そんな作品群にしたいと思っています。
 どうぞのんびりお付き合いくださいm(__)m
2015.12.25


[TOP] [HOME]