ハイデガー邸は築300年を超える由緒正しき豪邸だ。そも、敷地面積だけで50ヘクタールを越えているところからして飛びぬけているのだが、そこに建つ建物も広さ1ヘクタールの屋敷から、今は使用されていない使用人棟、同じく使われていない牧場や農場、果ては湖畔のゲストハウスまであり、最盛期は使用人を含めて100人を越える人間が暮らしていたというのも頷ける。
そんな豪邸も、ハイデガー氏が退役して戻るまでは掃除ロボットだけが動き回る空き家だったというのだから、実に勿体ない話だ。
勿論、隠居生活にはさほどの部屋数はいらないからして、現在使われているのは主寝室と書斎だけだと氏は語った。当然、その他の部屋は何年も使われないまま、家具だけが恨めしそうに佇んでいる状態だ。掃除ロボットが隅々まで磨き上げてくれているから、埃やクモの巣まみれでないことだけが救いだった。
そんな廃屋寸前のお屋敷も、今日は賑やかな物音で満ち溢れている。実に十数年振りに響き渡るのは、てきぱきとした指示と忙しない足音、そしてしわがれた老人の声。
「本の扱いは丁寧にじゃ! 分かっとるな、小僧!」
「ちょっと待て、そのチェストはやはり入れんでいい。その代わりに菫の間のチェストを持っていけ!」
「ええい、何度言ったら分かるんじゃ! 廊下は走るなと言っておろうが!」
玄関フロアが見渡せる中央階段の上に陣取り、ステッキを振り回しながら檄を飛ばしている老人は、とても心臓が悪いとは思えないほど元気いっぱいだ。それは非常に結構なことだが、こうも怒鳴り散らされては作業に集中できない。
「もー、うるさいあのじーさん」
段ボール箱満載のカートを押しながら小声でぼやくヒロに、階上の老人がギロリと睨みを利かせる。
「リー・オンの若造、なにか言ったか?」
「いいえ、閣下っ」
反射的に答え、さっさと玄関を出て行くヒロ。後ろから続くケンも、余計なことを口走らないよう唇をぎゅっと閉じて、保護材でぐるぐる巻きにされたサイドテーブルをせっせと運び出す。
「まったく、社員教育がなっとらん!」
「申し訳ございません」
ぷりぷりと怒る老人に頭を下げるマリナも、そろそろ我慢の限界に達しそうなのが、その引きつった顔から見て取れる。ただでさえ運び出す荷物の量が多く、またそのほとんどが骨董品のために扱いが難しいというのに、それ以上に扱い難い老人の相手までさせられているのだから無理もない。
「チーフ、ちょっとすみません! こっちの荷物なんですけど……」
「はいっ! 今行きます。ハイデガー様、失礼します」
階下からの呼び声に、ボードを抱えてパタパタと階段を下りていくマリナ。顔には出さないものの、その弾むような足取りからその心境が垣間見える。
「まったく最近の若者は浮ついておるのう」
階下へ向かうマリナを見送りながら、ロナルド=ハイデガーは尚もぶつくさと文句を垂れていた。
とはいえ、先にやってきた業者と違い、この零細引越社は時間にも遅れなかったし、何人か慌て者がいるものの、指示が行き届いているせいで深刻な問題も今のところ起こしていない。何かやらかそうものなら怒鳴りつけてやると息巻いていたのに、重箱の隅をつつくようなケチしかつけられないのが面白くない。
「しかもあんな派手な制服を着おって、目がチカチカするわい」
些か方向のずれた文句をつけ始めた老人は、背後から響いてきた叫び声にぎょっと目を剥いた。
「うわわわわ、どいてどいてー!!」
廊下の向こうから声と共にやってきたのは、段ボール箱を積んだカート、ではない。よく見れば、やけに細長い板の上で段ボール箱がガタガタと不器用なタップを踏み、今にも転げ落ちそうになっている。
「な、な――!」
絶句する老人をよそに、その不恰好なカートもどきは積載物を派手に揺らしながら、併走する少年と共に廊下をひた走り、老人の目の前でやっと力尽きて地面に軟着陸した。
「ふー、良かったあ」
「良くないわ! 何をやっとるか!」
思わず声を張り上げる老人に、少年はえへへと頭を掻く。
「カートが足りなくなったんで、これで運べないかなと思ったんですけど、やっぱり無理があったかなあ」
「当たり前じゃ! どこの世界にエアボードで荷物を運ぶ者がおるかっ!」
そう雷を落としてから、それにしてもと、派手な装飾が施された板をしげしげと見つめる。
「エアボードとはまた、懐かしいものを……」
一時期は若手軍人の間でも流行しており、よく基地内を滑走する兵士達を怒鳴りつけたものだ。なにせこのエアボードの最高時速は40km。ブレーキがあるとはいえ、迂闊に踏めば急制動に耐えかねて操縦者自身が吹き飛ぶという、なかなか危険な代物だ。それを人の多いところで乗り回せば事故にも繋がりかねない。衰退の影にはそういった事情もあったのだろう。
「時代遅れだってみんなにも言われたけど、僕はこれ、好きなんですよ」
すぐにバッテリーが切れちゃうのが難点ですけど、と言いながらボードを隅にどけ、運んできた段ボール箱をはい、と差し出す少年。
「この箱、書斎に置いてあったんですけど、どうしますか?」
それは大分古ぼけた段ボール箱だった。蓋が出来ないほどに詰め込まれているのは、一見するとガラクタばかりだが、老人は目を輝かせて手を伸ばす。
「なんとまあ、懐かしいものが出てきたのう」
目を細めつつ箱の中を探れば、最初に出てきたのは古びた遊戯盤だった。その下にはトランプやダーツ、宇宙船の模型やテニスボールなど、遥か昔に子供部屋を占拠していた玩具の数々がぎっしりと詰め込まれている。
「すごいや、リバーシにダイアモンドゲーム、軍人将棋まである」
一緒になってキラキラと目を輝かせる少年に、老人は意外そうな顔をした。
「なんじゃ、お前さんもこの手のゲームが好きか」
コンピュータゲームに押されてすっかり人気のなくなったそれらの名前を知っていること自体が驚きだったが、少年は段ボールの奥からチェス盤を取り出しながら、懐かしそうに笑った。
「祖父に仕込まれましたから。よく、おやつを賭けて勝負してましたよ。勝つと祖父の分までもらえるので必死でした」
懐かしそうにそう言って、そして少年はチェス盤を老人へと差し出すと、とんでもないことを言い出したのだ。
「ねえ閣下。僕と勝負しませんか?」
「なんじゃと!?」
第一弾の積み込み作業を確認し終えて戻ってきたマリナは、扉を開けた瞬間押し寄せてきた奇妙な静寂に眉根を寄せた。
「……やけに静かね?」
先ほどまで響き渡っていた老人の怒鳴り声も、それに答えるクルー達の声もない。さぞやかましいことだろうと覚悟して扉を開けたのに、肩透かしを食らった気分だ。
不思議に思ってホールを見渡せば、左右に分かれて伸びる階段の上に人影があった。ほっとして階段を上がろうとしたマリナは、横からひょいと肘を引っ張られてきゃあと声を上げそうになった。
「しー!」
人差し指を口に当ててそう言ってきたのはラスティだ。押していたカートを横に停め、マリナを引っ張って階段の脇に移動する。
「今、上に行っちゃ駄目ですよ。真剣勝負の真っ最中ですから」
「勝負? 誰と誰が?」
小声で言ってくるラスティに合わせて囁くように尋ねれば、ラスティはほら、と手すりの隙間から上を指差す。
「あれは……ハイデガーさんと……もう一人は、イサオ君? 何やってるのあの子は!?」
思わず声が大きくなってしまい、慌てて口を押さえるマリナ。
「チェスですよ」
「チェス? なんでまた――」
「書斎の片付け中にチェス盤を見つけたイサオ君が、氏に勝負を持ちかけたみたいなんです」
「勝負って、仕事中になんでそんなことを!?」
「賭けたんだとよ」
背後から割り込んできた声はアーサーだった。大きな衣装ダンスを運んできたアーサーは、二人と同じく声を絞って、にやりと笑う。
「イサオが勝ったら、じーさんは「大人しく」応接間のソファで作業終了まで座っていること。じーさんが勝ったら、イサオが一日なんでも言うことを聞くって約束なんだと」
おかげで作業がはかどるよ、と言いながらカートを押して去っていくアーサー。ラスティも苦笑を浮かべつつ、彼に感謝ですよと囁く。
「勝負は拮抗してるみたいだから、しばらくは静かでしょう。この隙に、さっさと作業を終わらせましょう」
「そ、そうね」
目を丸くしていたマリナだったが、折角イサオが作ってくれた「平穏なる作業時間」を利用しない手はない。慌ててボードに目をやり、まだ作業が終わっていない区画を確認する。
「ラスティさん、その荷物を積み込んだら書斎に来てくださいね。まだ本の梱包が終わっていないみたいですから」
「了解、チーフ」
小さく敬礼し、ラスティは家具を積んだカートを押して玄関へと歩き始めた。
「チェック!」
明るい声に、沸きあがる歓声。一方、愕然とチェス盤を眺めていた老人は、小さく息をつくと、黒のキングに手を伸ばし、静かに倒した。
「お主の勝ちじゃ」
「やったあ!!」
「イサオ、すごい!」
いつの間にか二人の周囲に出来ていた人の輪がぎゅっと狭まって、あちこちから伸びてきた手にもみくちゃにされつつも、イサオは対峙する老人へと右手を伸ばす。
「とても楽しかったです。ありがとうございました」
「いやなに、久方ぶりに熱い戦いをさせてもろうた」
差し出された手をしっかりと握り返し、老人は初めて、わずかながら笑顔を見せた。
「約束通り、ワシは応接間に引っ込むとしよう」
「いえ、閣下。その必要はありません」
怜悧な声が響く。なに、と眉を上げるハイデガー氏に、人垣を掻き分けるようにしてやってきたマリナがぴしり、と姿勢を正して告げた。
「18:07をもちまして、全搬出作業は終了いたしました。最終確認をお願いいたします」
「なんと……」
窓の向こうを窺えば、先ほどまでエントランスを煌々と照らしていた恒星カルクは遥か彼方へと過ぎ行き、夕日の残滓がかすかに残るのみ。夕空のカーテンが引かれた空には、気の早い星達が瞬き始めている。
「そんなに長く対戦しておったとは、気づかんかったわい」
「僕もです。あー、お腹すいた」
その言葉に、どっと笑いが起こる。
「船に帰れば、まずーい飯が待ってるぜ!」
「そうそう、栄養価と量だけは保証つきのね」
じゃれあう新人達を横目に、マリナはハイデガー氏へボードを差し出した。
「荷物は全てトラックに積み込んであります。お手数ですが、各部屋の確認と積み込み荷物の確認をお願いします。こちらがリストです」
「ふむ。では確認させてもらおうとするかの」
二人が確認作業に行ってしまうと、ホールは途端に賑やかな声で溢れ返る。
「全く、お前ってヤツは! 仕事サボって何してるのかと思ったら」
「まさかあのじーさんの文句を封じ込めてくれてたなんて、ほんとすごいよ!」
「イサオ、おじいさん、トクイ?」
大絶賛の声に、イサオは照れたように頭を掻く。
「僕はただ、久しぶりにチェスがしたかっただけなんだけどね。まさかこんなに長く続くとは思わなかったな」
「そうだな。見たところ、勝負は互角だった」
早めに作業を終えて野次馬に加わっていたハンスは、二人の白熱した試合をつぶさに観察していた。腕組みをし、先ほどまでの試合を脳内で再生しながら淡々と続ける。
「随分と古い定跡を知っているようだな。イサオ=ヨシダ」
「なにしろ祖父仕込みですから。ハンスさんもチェスやるんですか? 今度対戦しましょうよ」
「お前に勝てる自信がない」
真顔で答えるハンスに、ラスティが思わず目を見張る。実直なハンスは決して嘘をつかないし、また謙遜もしない。故にハンスが勝てないと言えば、それは紛う方なき事実なのだ。
しかしイサオはやだなあと手を振る。
「さっき閣下に勝てたのはまぐれですよ。もう何年もやってなかったから、感覚が鈍っちゃって」
「それであの対戦か。本気を出したらどうなっていた?」
「あれが本気ですってば」
対照的な表情で向き合う二人の間に割って入ったのはアーサーだ。まあまあ、と二人の肩にのしかかり、身長差に物を言わせてがしっと首に腕を巻きつける。
「まぐれでも何でもいいさ。おかげで今日の作業は実に効率よく進んだんだからな」
当初は夜中までかかるかと思われた作業が、どうにか夕方には終わったのだ。あとは荷物を宇宙港まで運び、シャトルに積み換えて『テランセラ』に載せれば、今日の作業は終了だ。
「ちょっと、ドクター! 首、首入ってるっ! 苦しいっ……」
「ドクター、窒息する前に腕を離して頂きたい」
抗議の声を右から左に聞き流し、そういえばと呟くアーサー。
「今回、あのじーさんは一緒に乗っていかないのか?」
恒星間の引越しともなると、移動距離も時間も馬鹿にならない。故に引越荷物と依頼主をまとめて運ぶケースも多いのだが、ボードを一瞥したユンがいいえと首を振る。
「輸送船は乗り心地が悪いからと、チャーター便で行くそうです」
「さすが金持ち、豪勢だな」
尻上がりな口笛を吹くアーサーの腕からようやく抜け出して、残念と呟くイサオ。
「なあんだ。『テランセラ』で一緒に行くなら、また対戦できると思ったのにな」
「そんなに対戦したいなら、通信対戦の約束でもしとけよ。向こうは隠居の身なんだ、時間はたっぷりあるだろ」
と、背後からこほん、と咳払いが聞こえてきた。振り返ればそこに、荷物の確認を終えて戻ってきたマリナとハイデガー氏がいて、ちょうど確認のサインをし終わったところだ。
かっちりとしたコートに身を包んだハイデガー氏の足元には、小さな鞄が一つ。余計な荷物は一切持たない、まさに軍人らしい旅支度だ。
ボードをマリナに返すと、老人は神妙な顔で立ち尽くす作業員一同をぐるりと見渡し、おもむろに口を開いた。
「色々と口やかましいことを言ったが、満足のいく仕事ぶりだった。――ありがとう」
まさかこの老人の口から感謝の言葉が出てくるとは思わなかったから、一同は目を丸くして黙り込み、一人イサオだけがにこにこと言葉を返す。
「こちらこそ、楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました」
邪気のない笑顔をじっと見つめ、そして老人はふと思い出したように抱えていたチェス盤をぐいと差し出した。
「これはお主にやろう」
「え……いいんですか?」
勝負を始める前、老人が「子供の頃に父親からもらったもの」と話していたのを覚えていたから、受け取るのを躊躇ったイサオだったが、老人はいいから持っていけとチェス盤を押しつける。
「どうせ航海中は暇じゃろう。仲間に教えてやればいい。その代わり、腕が鈍らんように、たまにはワシと通信対戦するんじゃぞ」
「はいっ! 喜んで」
そうして互いの連絡先を交換しあう二人を、不思議なものでも見るように見つめるクルー達。
「イサオ君って、やっぱり変わってる」
ぽつりと漏らすユンに、アーサーが肩をすくめる。
「うちのクルーに変わってない奴なんていないだろ」
「それもそうですね」
くすりと笑って、そうしてユンはマリナに声をかけると、撤収準備に入るべくてきぱきと指示を飛ばす。
ちょうど玄関近くにいたアルが重厚な玄関扉を全開にしたところで、長いアプローチの向こうからやって来る無人タクシーのヘッドライトが見えた。夕闇を切り裂く眩い光に目を細め、老人は来たかと呟く。
「ワシは一足先に《エリュシオン》へ向かう。まず検査入院することになっておるから、お主らと直接会うことはもうなかろう。あとのことは現地のスタッフに任せてあるから、そちらの指示に従え」
そう言ってすたすたと歩き出した老人は、置き去りにされた鞄を手に追いかけてきたイサオに、おおすまんと言って鞄を受け取ると、清々しく笑う。
「時代はもう、おぬしら若者のものじゃ。老兵がでしゃばるものではない」
「消え去るにはまだ早いですよ、閣下。それにほら、憎まれっ子世に憚るって言いますし」
「言ったな、小僧」
イサオの背中をばんと叩き、そして老人は音もなくやってきた無人タクシーの扉に手をかけた。
そのまま乗り込もうとして、ふと振り返る。
誰もいなくなった屋敷をじっと見つめ、鋭く敬礼をする。そうして静かに車内へと滑り込めば、心得たように扉が閉まり、タクシーは静かに動き出す。
「ありがとうございました!」
深々と頭を下げたマリナは、窓越しに垣間見た老人の横顔に、僅かに光るものを見た気がした。
あっという間に遠ざかっていくタクシーが門を過ぎて道を曲がり、完全に見えなくなるまでを見守って、マリナはパンパンと手を叩く。
「さあ、急いで撤収作業を終わらせましょう。今日中にタジームの宇宙港を発ちますからね」
「なんだよ、折角作業が早く終わったんだから、出航は明日にして、今日は街で羽を伸ばさせてくれてもいいだろう?」
文句たらたらのアーサーに、ハリーが苦笑を漏らす。
「あのご老人より荷物の到着が遅かった、なんてことになったら、またどやされますよ」
「なに、その時はまた、あいつに言い包めてもらえばいいだろ。って、いつまで敬礼してるんだ。早いとこ撤収するぞ」
アーサーの声にはっとして右手を下ろした少年は、はーいと答えてトラックへと走り出す。先に乗り込んでいたヒロとケンに遅いとどやされて頭を掻いているイサオの、その無邪気な様子にふん、と鼻を鳴らして、アーサーもまたトラックへと歩き出した。
「あーあー、今日もまた、あの飯を食わなきゃなんないのかー」
食堂へと向かう道すがら、今日もまたヒロは文句たらたらだ。
「我慢しろって。トルージャで荷物を下ろしたら、少し時間があるらしいから、町へ出て飯でも食いに行こう」
「マジ!? よーし、うまい飯のために頑張るぞー!」
「お前、ホント単純だよなあ……」
話しているうちに食堂と到着した三人を、先についていたアルがトレイ片手に出迎える。
「ヤア、いらっしゃイ。……あレ、一人タリナイよ?」
「ああ、イサオのヤツなら技術部に用があるって――」
ケンの台詞を遮って、廊下の彼方から響いてくるけたたましい声。
「おーい、みんなー!」
「げっ――」
大慌てで壁に張りついた三人の間をぶっちぎって、少年を乗せたエアボードはそのまま食堂の前を通り過ぎ、ちょうど角を曲がってやってきたラスティの目の前でようやく緊急停止した。
「うわっ、びっくりした。イサオ君か」
「ごめんなさいラスティさん。おっかしいなー、ブレーキ直してもらったのに、まだ効きが悪いや」
ボードに乗ったまま、そんなことを呟いているイサオに、ラスティと並んで歩いていたハンスが冷静に告げる。
「イサオ=ヨシダ。もうまもなく食事の時間だ。早く食堂に入れ」
「わ、そうだった。ごめんなさいっ」
慌てて床を蹴り、ボードを食堂へと向けるイサオ。まったく落ち着きのない、とぼやくハンスをまあまあと宥めつつ、イサオに続いて食堂の扉を潜りかけたラスティは、はたと立ち止まって呼びかけた。
「おっと。船内でエアボードを使うのは規則違反だ。船長に見つかる前に……って、もう遅いか」
「え? あ……」
ラスティの視線を辿れば、そこには張りついたような笑顔のマリナが、腕組みなどしてこちらを見つめている。その全身から立ち昇る怒りのオーラが目に見えるようだ。
あはは、と乾いた笑いを浮かべながらエアボードから降り、そそくさと後ろ手に隠すイサオに、ずんずんと歩み寄ってきたマリナはすう、と大きく息を吸い込むと、じりじりと後ずさる少年目がけて容赦なく雷を落とした。
「イサオ君!!」
「ごめんなさあいっ!」
「やれやれ、あれが老将を難なく攻略してみせた人間と同一人物とはね」
冷めたフライドポテトをつつきながら呟くアーサーに、ハリーが優雅にコーヒーを傾けながらくすりと笑う。
「美人には弱いなんて、ドクターとそっくりじゃないですか」
「おいおい、俺は別に――」
「えー、なになに? あたしの話?」
「わたしですよねー? ハリー君」
わざとらしく割り込んでくるユンとアイリーンに反論する気を削がれ、ふんとそっぽを向くアーサー。一方のハリーは澄ました顔で、美女二人にうんうんと頷いてみせる。
「いやあ、まったく。この船には美人が多くて困りますね」
しらっと言ってのけるハリーの頭をよしよしと撫で、ユンは食堂の隅で膝詰め説教中の二人に視線を向けた。
懇々と続く説教はすでに十五分を超えている。あと二十分弱で『テランセラ』は惑星トルージャへ降下する予定となっているが、そんなことはおかまいなしだ。
「大体あなたは一体どれだけ余計な荷物を持って旅行するつもりだったんですか!?」
「使えるかもしれないと思ったから持ってきたんですってば」
努めて冷静に諭そうとしているマリナの努力も、あっけらかんとした言葉の前にあっさりと無駄になる。
「何を想定したらエアボードが使える状況になるんですか!!」
「ほら、悪い人から逃げる時、とか?」
「普通に旅してれば悪い人には絡まれません!」
「いやあ、最近どこも物騒だって言うし」
「あなたの方がよほど物騒です!」
ますますヒートアップするマリナの説教に、周囲はすっかり食事の手を止めて観戦モードに入っている。
「タカトウさんとは違う意味で、避雷針よね」
ユンの呟きにぷっと吹き出すアイリーン。なるほど、彼がマリナの雷を一手に引き受けてくれているうちは、他への被害は軽減されるというものだ。
「堅物の船長には、ちょうどいい息抜きになるかもな」
「余計に胃が痛くなりそうな気もしますけどお」
「怒りを溜め込むより健康的だよ。ほら、避雷針が頑張ってるうちに、さっさと食事を終わらせようぜ」
その言葉に、思い出したように味気ない食事をかき込むクルー達。
惑星トルージャは、もうすぐそこだ。