2.律動する大地
「……その『悪しき炎』というのが、ラーンさんのお母さんの仇『黒き炎』なんですね」
 長く苦い話を呑みこんだ頃には、エルクの涙もどうにか乾いていた。呟くように言ったエルクに、ラーンが静かに頷いてみせる。
「ああ、恐らくな。そうそう似たような連中がいるとも思えないしな」
 そうなると、エルクの父が残した言葉が俄かに気になってくる。
 妻を殺された。この子を頼む。そう言い残した男。
「エルクのご両親、またはどちらかには、『黒き炎』が欲する何らかの力、また情報を持っていた。それ故に狙われ、命を奪われた。そう考えるならば、『この子を頼む』と言い残した意味は――」
 淡々と語るリファに、ぎゅっと肩を抱きしめるエルク。
「でも、僕にはそんな力なんて……。でも……僕のこの耳が、本当に……その……」
 怖い考えが頭を駆け巡りそうになったところを、リファの声がぴしゃりと遮った。
「その耳は、森人の血を受け継いでいる証です。決して怪物が云々ということではありません」
 その言葉に、エルクだけでなく村長もが目を大きく見開き、そして顔を見合わせる。
「森人の……?」
 それは西大陸の森深くに住まう神秘の種族。長い寿命と優雅な容姿、とりわけ長く伸びた耳が特徴で、他種族との交流を頑なに拒む孤高の種族だ。大地溝を挟んで向こう側にも森人の住む森が広がっているが、この村で五十年以上暮らしている村長ですら、未だかつてその姿を目にしたことはない。
「彼らは滅多に森から出ることがありませんし、他種族と結ばれることも稀ですからご存じないのも無理はありません。知人に森人の血を引いている男がいますが、やはりあなたのような、先端が少し尖った耳をしていました」
「お前、知り合い多いよなー」
「人徳のなせる業ですよ」
 澄ました顔で答え、改めて村長へと問いかける。
「十四年前、エルクをあなた方に託した男は森人でしたか?」
 いえ、と即答する村長。いくら突然のことに気が動転していたとはいえ、森人特有の長い耳を見逃すはずがない。
「この子と同じ茶色い髪の、二十代後半の人間の男でした」
「であれば、奥様が森人か、またはその血を継ぐ方だったのでしょう。森人の中には類稀なる精霊術の使い手がいると聞きます。もしかしたら、そういった力を持った方だったのかもしれませんね」
「でもよお、そういう能力って遺伝するもんじゃないんだろ?」
 おや、と目を瞬かせるリファ。
「あなたからそんな言葉が出るとは驚きですね?」
「そのくらい俺でも知ってるっての! 親が魔法使いだからって、子供も魔法を使えるわけじゃないんだろ? 俺だって母さんは神官だったけど俺には神の声なんて聞こえないし。神官がそうなんだから、精霊術もそういうもんなんじゃないのか?」
 ラーンにしては珍しく筋の通った考察に、リファも珍しく素直に称賛の声を上げた。
「まさにその通りです。術士の能力は親から子に受け継がれるものではありません。種族によって能力の発現率にばらつきがありますし、先祖代々魔術士という方も稀にいるので一概には言えないんですが……おっと、難しすぎましたね」
 視線を彷徨わせ始めた相棒に苦笑を浮かべて講義を中断し、ともあれ、と続ける。
「ここで考えていても埒があきません。今日のところはこれでお開きにしましょう。エルクも疲れたでしょうから、少し休むといいですよ」
 言われて初めて、体にまとわりつくような疲労感に気づく。まだ夕飯時にもなっていなかったが、今日はこのまま眠ってしまいたい。そう思うほどに、今日一日で色々なことがありすぎた。
「夕飯の時間になったら起こしてやるよ。それまでゆっくり休んでな」
 親指を立ててにかっと笑って見せるラーンに頷いて、重い体を引きずるようにして部屋を後にする。そのまま寝室に向かおうとして、先程から抱いていた奇妙な違和感に気づいた。
「いけない、置いてきちゃった」
 いつも布で上げている前髪が落ちてきて、どうも視界が悪い。奪い取られた頭布はリファが抜かりなく拾ってくれていたが、受け取って机の上に置いたきりだ。
 後にしてもよかったが、いつも巻いているものがないとやはり落ち着かない。軋む廊下を引き返し、書斎の扉を叩こうとして、隙間から漏れ聞こえてくる声に手が止まる。
「……このままこの村に置いておくのは非常に危険でしょう」
 静かなリファの言葉に息を呑む。エルクに聞かせたくない話だからこそ、リファはわざと話を一度打ち切ったのだろう。でも――。
(もう、隠し事はいやだ!)
 それでも正面切って入っていく勇気がなかったエルクは、逡巡した挙句、扉にそっと張り付いた。