お年玉企画「呪文」没原稿

〜風邪・1〜


 シャラン

 力強く鳴り響く鈴の音に、ふと顔を上げる。
 窓の外、ごうごうと唸り声を上げる風雨に負けじと鳴り響く、涼やかな音色。
 もう十年も口を閉ざし続けていた鈴は今、まるで祭にはしゃぐ幼子のように軽やかな笑い声を上げている。
「おやおや、賑やかなこと。どうやら、大層なお客さんのようだねえ」
 季節外れの嵐は厄介事を連れてくる。祖母に教わった諺がふと脳裏を過ぎった。
 こんな山奥の村までご苦労なことだよと呟きながら、のろのろと暖炉に手をかざす。
「なぁに、急ぐことはない。年寄りの出番は最後と決まっているんだよ。だからお前、もう静かにおし」
 宥めるような声音に、鈴の音が止む。
 そうして部屋は再び、叩きつけるような雨と風の音に支配された。


 強い人だと思ってたんだ。

 初めて会った時の強烈な印象もさることながら、筋肉隆々の男に腕相撲を挑んで瞬きする間もなく捻じ伏せてしまった時は目を疑ったし、それを「魔法を使った」と言いがかりをつけて殴りかかってきた男を杖一本で叩きのめした時は、魔術士やめても十分食っていけるんじゃ、と本気で思った。金の魔術士と間違われて魔法勝負を挑んでくる相手を返り討ちにするのは日常茶飯事だったし、ふらりと入った酒場で飲み比べをして、酒場の主人が泣いて懇願するまで飲み続けるのもいつものことだった。
 リダという人は、とにかく強い。この人に弱点なんて存在しないだろうし、出来ないことなんてないんじゃないかと本気で思った。
 一緒に旅をするようになって一月も経った頃には、敵のけしかけて来た夜狼の群れを攻撃呪文一発で森ごと吹っ飛ばしても、面倒だといって敵の本拠地を山ごと砕いても、気に食わないからと依頼主を豚や蛙に変えてしまっても、もう驚かなくなっていた。

 だから、リダが風邪で倒れるなんて、本当に思いもよらなかったんだ。


 足音が近づいてくる。
 うたたねをしていたギルは、その音にはっと起き上がると、寝台に眠るリダの横顔をそっと窺った。
 額に乗せておいた布がずれて、枕元に落ちてしまっている。慌てて拾い上げたそれはじっとりと熱く、うわあと呟いたところに扉が開く音がした。
「様子はどうだい?」
 水を張った盆を持ってやってきた宿屋の女将に、力なく首を振る。
「熱が全然下がらなくって……むしろ上がってる気がします」
「困ったねえ……ほんと、こういう時になんで道が崩れちまうんだか、下の町に行きゃ神官さんも、お医者さまだっているのにさ」
 山間の小さな村には医師はおろかガイリアの神官もおらず、麓の町に続く道は先日の大雨で崩れてしまい、未だに復旧の見通しが立っていない。
 そう、その雨こそが全ての元凶だった。山越えをしようと麓を出発し、しばらく経った頃に突然降り出した大雨。季節外れの冷たい雨に一刻以上も打たれながら山道を進み、ようやくこの村についた頃にはリダもギルも見事な濡れ鼠で、迎えた女将は有無を言わさず二人を風呂場に押し込んだものだった。
 風呂で十分暖まり、温かい夕飯を腹に収めてようやく人心地ついた二人は、風邪でも引いたら大変、と心配する女将に「馬鹿は風邪引かないって言うし」「リダにとりつく病気なんてありえない」と軽口を叩き合っていた。
 その時のギルは、そう信じて疑わなかったのだ。あのリダが病気にかかるなど、天地がひっくり返ってもありえないことだと、そう確信していたのだ。
 ところが次の朝、リダは起きてこなかった。
「ギル、あんた魔法使いの弟子なんだろう? 魔法でぱーっと治せたりはしないのかい?」
 茶化すような女将の言葉に、しかしギルは大真面目に首を振る。
「俺は弟子じゃないし、魔法なんて使えないし、大体魔法で治せるなら、リダ本人がとっととやってると思う……」
 彼女が倒れてから三日。最初はまだ憎まれ口を叩く気力があり、心配そうにみつめるギルに「やだやだ、辛気臭い顔して。そんな顔見てたら治るもんも治らなくなるよ。ほら、どっか行ってな」などと言ってギルを追い出しにかかるほどだった。
 ところがその日の夜から熱が上がり、今に至る。今日など朝から一言も言葉を発していない。
「どうしよう、このまま熱が下がらなかったら……」
 泣きそうな少年の背中をどん、と叩き、女将はわざと明るい声を出した。
「あんたがそこで気を揉んでたって仕方ないだろう。ほら、もうお昼だ。下で一緒にご飯を食べようじゃないか。あんたまで倒れたら元も子もないよ」
「う、うん」
 押されるようにして部屋を出る。そうして二人でぎしぎしと音を立てる廊下を歩き出したところで、階下から賑やかな鐘の音が響いてきた。
「あれま、お客なんて珍しいこと」
 小走りに階段を降りていく女将に続いて、食堂となっている一階に降りる。
「はいはい、いらっしゃいませ――あれま、ネリ−婆さまじゃないの。どうしました?」
 ゆっくりと店内に入ってきたのは、一人の老婆だった。小さく見えるのは腰が曲がっているからだけではないだろう、小柄な体を暗い色の長衣に包み、手には節くれだった木の杖を握っている。
「いやねえ、病人が出たと聞いたもんだから、どうしたもんかと思ってねえ」
「まあまあ、わざわざ来ていただいて、すみませんねえ。病人ってのが、この子の連れでね、もう三日も熱が下がらなくって、どうなることかと気を揉んでたんですよ」
「こないだの雨にやられたかね。あれは体の心まで凍りつくような、冷たい雨だったからねえ」
 杖をつきつき、ゆっくりとやってくる老婆。近くまで来て初めて、ギルは老婆が目を悪くしているらしいことに気づいた。慌てて手を貸そうとして、不意に見上げてきた老婆と目が合う。
「坊やは旅の人だね。お日様と風の匂いがする」
 白く濁った瞳で笑いかけられて、思わず袖をくんくんと嗅ぐギル。
「匂いなんかするかなあ……?」
 その子犬のような仕草が見えているかのように、老婆はかかかと笑い声を上げた。
「こう目が悪いとね、その分鼻が利くようになるのさ。坊やの朝ご飯は炒り卵に焼いた腸詰、それに迷迭香入りのパン。違うかい?」
 ぴたりと言い当てられて目を白黒させるするギルに、横から女将の茶々が入る。
「うちで出せる朝食なんてそんなもんさね。まあそれはともかくとして、このネリー婆さまはね、そりゃあもう凄腕の薬師なんだよ。これであのお嬢さんも安心だ」
「いやだね女将、あたしゃただの年寄りだよ。ただ、ちょっと薬に詳しいだけのね。さ、そのお嬢さんとやらのところに案内してくれるかい?」
「勿論ですとも! ほらギル、あんたも手を貸して」
「は、はいっ!!」
 慌てて老婆の腕を取り、降りてきたばかりの階段を再び登っていく。両脇を支えられてやっとのことで階段を登りきった老婆は、案内する前にスタスタと廊下を横切って、一番奥のリダの部屋を叩いた。
「ちょいと、お邪魔するよ」
 断りを入れて扉を開ける。途端に、か細い呻き声が聞こえてきて、ギルと女将は先を競うように老婆の後を追って部屋に入った。
「おやまあ、随分とこじらせたもんだ。ああ坊や、窓を開けとくれ。空気がこもっていけないよ。女将は温めのお湯を一杯持ってきてくれるかい」
「はいはい、すぐに」
 女将が階下に取って返し、ギルは部屋の窓を全部開け放して空気を入れ替える。その間に老婆は寝台へと近寄ると、うなされているリダの額に手を当て、そして――
「こりゃ驚いた……この子は――」
「どうしたの!? まさか、そんなに悪い病気なの!?」
 老婆の声に驚いたギルが枕元にすっ飛んでくる。掴みかからん勢いの少年をどうどうといなし、老婆はほほ、と笑いを漏らした。
「いやはや、縁は異なものというけれど、本当だねえ。こんなところでこの子に遭うとは……」
「おばあさん、リダを知ってるの?」
 こんな山奥の小さな村にまで利だの悪名が轟いているのかとぎょっとしたギルだったが、リダを見つめる老婆の瞳は親しげで、どこか懐かしんでいるような感じも窺える。
「はい、お湯……なに、どうかしたのかい?」
 ちょうど戻ってきた女将が、呆然と突っ立っているギルを見て首を傾げたが、老婆は何でもないよと答えて懐から小さな薬包を取り出した。
「そのお湯にこれを混ぜて飲ませるんだよ」
 言われた通りに薬を溶かし、女将とギルと二人がかりでリダの上半身を起こす。
「リダ、起きて! 薬だよ!」
「くすり……?」
 がさがさの唇から漏れた掠れ声。少しして、苦しげに閉じられていた瞼が持ち上がり、空色の瞳がギルを捉えた。
「リダ、気づいた? 薬飲める?」
「ほら、苦いだろうけど我慢してぐいっとお飲み。なぁに、レンネルの練り薬に比べれば、どうってことはないさ」
 老婆の言葉に素直に頷き、差し出された深緑色の液体をゆっくりと飲み干す。全て飲み終わった後、物凄い顔をしたところを見ると、やはり相当苦かったらしい。
「うっげー……まず……」
「良薬口に苦しと言うだろう? 大体、お前さんはよく、子供用に甘くした薬は嫌だって散々ごねていたものねえ」
「だって、甘味を足した薬って余計に苦味が出て飲めたもんじゃないから……って……」
 熱で潤んだ瞳を目いっぱい見開いて、リダは枕元に立つ老婆をそおっと見つめ、そして呆然と呟いた。
「ネリュレイア、さま……!?」
 慌てて飛び起きようとしたリダをやんわりと制し、いやだねえと笑う老婆。
「こんなところで畏まってどうするんだい。昔のように婆さまと呼んでおくれ。あんたとあたしの仲じゃないか」
「は、はい。婆さま」
 神妙に頷くリダを、ギルは唖然と見つめていた。
 彼女が誰かに畏まるところを見るのも、敬語で話すところを見るのも、これが初めてだ。まるで別人のようなしおらしい態度に、もしかして熱でおかしくなったのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「婆さま……またお会いできるなんて、思ってもみませんでした」
 まるで少女のように頬を染め、嬉しそうに喋るリダ。先ほどまでの苦しげな様子はどこへやら、今にも寝台から飛び出しそうな雰囲気だ。
 こんなに即効性のある薬なんて聞いたことがない。どういうことだろう、と首を傾げていると、老婆がひょい、とギルを振り返ってにんまりと笑った。
「あたしの薬はよく効くだろう? なぁに、この嬢ちゃんだって風邪なんかにかかってなけりゃ、このくらいは作れるはずなんだよ」
「あ……じゃあ」
 ようやく合点が行った。リダにも作れる薬といえば、たまに実験台にさせられることのある「アレ」だ。
(魔法の薬、だったのかあ……)
 何はともあれ、リダの具合が良くなったのならそれでいい。ほっと胸を撫で下ろすギルの目に、再びとんでもない光景が飛び込んでくる。
「とんでもありません、婆さまほどの薬なんて、私にはまだまだ……」
 謙遜するリダという、これまた世にも珍しいものを見てしまい、絶句するギル。そんな少年のことなど眼中にないだろうリダは、老婆を前に嬉々として喋り続けている。
「でも婆さま、どうしてここにいらっしゃるんですか……? 隠居なさったと、故郷にお帰りになったとばかり……」
「ああ、そうさ。ここがあたしの故郷なんだもの。こっちこそ、まさかこんな山奥であんたと会うとは思ってもいなかったよ。ああ、すまないね気を使わせて」
 気を利かせた女将が部屋を出るのを見送って、手近な椅子を引き寄せる。
「よっこらしょ……ああ、いやだねえ、これを言うたびに老け込む気がするよ」
 どっかりと椅子に腰を下ろし、不要になった杖をギルに預けて、老婆はゆっくりと頭巾を取った。まとめられた髪は雪のように白く、柔和な笑みを浮かべる顔には深い皺が刻まれている。
 ギルは知らない。かつて、艶やかな黒髪と夜空のような黒い瞳から「夜のネリュレイア」と呼ばれていた、偉大なる魔術士のことを。
 夜を纏い、月を従え、人々を魅了してやまない漆黒の魔女。都の芸術家達はこぞって彼女の素晴らしさを謳い上げ、その叡智の前には王侯貴族すら膝を負った。彼女を頼ってやってくる者は後を絶たず、中には海を渡ってやってくる者まであったという。
 リダは知っている。白髪交じりの髪を緩やかにまとめ、愛嬌のある笑顔で人々に慕われていた老魔術士を。魔術士になるのが嫌で家を飛び出した幼子を優しく招き入れ、「しばらく匿ってあげるから、その代わりに仕事を手伝っておくれ」と言って魔法薬の調合方法を一から教えてくれた、優しくも厳しい師匠の、丸い背中を。
「三日前に鈴が鳴った時は、まさかリダ嬢ちゃんとは思いもよらなんだ。しばらく見ない間に、随分と魔力も上がったようだね」
 隠居した今も、彼女を頼ってやってくる者は多い。それだけならまだしも、中にはかつての名声を聞き及んで挑んでくる魔術士もいて、その対応策として村の入り口に魔力に反応する結界を張ってあるのだと老婆は笑った。家の鈴が鳴ったら魔術士がやってきた証。そうと分かったら尻に帆をかけて逃げ出すのだと。
「最近はめっきり鳴ることもなくて、ようやっと静かな暮らしが出来ると思ったんだけどね」
「申し訳ありません、ご迷惑をおかけするつもりはなかったんですが……」
 うなだれるリダに、いやだねえと笑う。
「もう生きてるうちに会うことはないと思ってた弟子に会えたんだ、それで帳消しだよ」
 そして老婆は思い出したように、呆然と立ち尽くすギルに目を向けた。
「この子があんたの弟子かい?」
「違いますっ!!」
 ぴたりと重なる声に、呵々と笑う。そして老婆はギルを手招きすると、その手をぎゅっと握り締めた。
「なるほど、魔力はほとんどないね。でもとても素直な性質だ。動物や精霊によく好かれてる。おまけに運もいい。なるほど、なるほど。色々背負っているようだねえ」
 ぎょっとして老婆を見る。その瞳はどんよりと濁っているのに、なんだか心の底まで見透かされているようで、体が震えそうになった。
 しかし老婆はすぐに手を離し、それ以上は何も言わなかった。ただにこにこと柔和な笑みを浮かべ、リダとギルを交互に見つめて、静かに口を開く。
「ギルと言ったね。この先もこの子と一緒に旅を続けるなら、一つ覚えておいで。この子は強い。とても強い。それが、この子の弱さなんだよ」
 まるで謎掛けのような言葉に、ギルはきょとんと首を傾げた。言われた当人も難しい顔をして、老婆をしげしげと見つめている。
「強いから、人を頼ることを知らない。甘えることを知らない。だからいざって時に、こうやってにっちもさっちも行かなくなる。あの位の雨、魔術を使えば簡単に遮れたんだ。おかしいと思わなかったかい?」
 そういえば、と呟くギル。風の結界を使って雨を防ぐやり方を、知り合ってすぐの頃に教えてもらった覚えがある。それなのにあの日、リダはギルと一緒に濡れ鼠になっていた。

(書きかけの状態で没になったので、原稿はここまでです)



←関連作品『風邪・2』


 実はこの話、最初は「36 etude」の「風邪」というテーマで書き始めたんです。ところがどうにもまとまらず、書きかけの状態で没にしました。はじめの方のギルのモノローグはほぼそのまま、「小さな秘密」に受け継がれています。


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