お年玉企画「呪文」没原稿

〜風邪・2〜


 強い人だと思ってた。
 初めて会った時からしてとんでもなかったけど、筋肉隆々の男に腕相撲を挑んで瞬きする間もなく捻じ伏せてしまった時は目を疑ったし、それを「魔法を使った」と言いがかりをつけて殴りかかってきた男を杖一本で叩きのめした時は、魔術士をやめても十分食っていけるんじゃ、と本気で思った。魔法勝負を挑んでくる相手を返り討ちにするのは日常茶飯事だったし、ふらりと入った酒場で飲み比べをして、酒場の主人が泣いて懇願するまで飲み続けるなんてこともしょっちゅうだった。
 リダという人は、とにかく強い。この人に弱点なんて存在しないだろうし、出来ないことなんてないんじゃないかと本気で思った。
 そんなわけで、一緒に旅をするようになって三月も経った頃には、敵のけしかけて来た夜狼の群れを森ごと吹っ飛ばしても、気に食わないからと依頼主を拳骨一発で伸してしまっても、面倒だと言って敵の本拠地を山ごと砕いても、もう驚かなくなっていた。

 だから――
 リダが倒れるなんて、本当に思いもよらなかったんだ。


「風邪、だねえ」
 気の毒なほどに狼狽している少年に、老婆はあっさりと言い放った。
「風邪!?」
 よほど意外な答えだったのだろう、ひっくり返った声で繰り返す少年に、もっともらしく頷いてやる。すると少年は、気が抜けたようにへなへなと座り込んでしまった。
 連れが三日も寝込んでいて熱が下がらない、と老婆の家へ駆け込んできた少年。小雨の降る中やってきた少年の慌てぶりに、すわ一大事と駆けつけてみればこれである。年寄りをこき使うなんていい根性してるね、と言ってやりたくなったが、連れを心配する少年の表情は真剣そのものだったから、苛めるのはやめておいた。
「酷い病気じゃなくて、ただの風邪なの?」
「ただの、とはお言葉だね。風邪は万病の元と言うだろう? このままこじらせていたら危なかったよ」
 苦しげな呼吸を繰り返す若い娘を見つめ、くすりと笑みをこぼす。こんな辺鄙な村に旅人がやってきたこと自体、かなり珍しいことだったから、彼らの噂はすでに村中を駆け巡っていた。それによれば彼女は腕のいい魔術士で、人を探してあちこち旅しているのだという。
 これだけ長く生きていれば、多少のことでは動じなくなる。だから他の村人のように「こんな若い娘が魔術士?」と驚くことはしなかったが、しかし老婆はまったく別の理由で目を丸くし、苦笑を漏らす羽目になった。
「まったく、いくつになっても世話を焼かせる子だねぇ」
 老婆の呟きを聞きつけて、小首を傾げる少年。何か聞きたげな彼を手招きして、老婆は懐から取り出した薬瓶を手渡した。硝子瓶の中で赤紫の液体がたぷん、と揺れる。
「これを飲ませておやり。苦いがよく効く薬だ」
「は、はいっ」
 老婆の言葉に嘘偽りはなかった。苦心して少年が薬を飲ませた途端、大きくむせ返った彼女は、
「にがいー!!」
 と絶叫したかと思うと、先ほどまでの苦しげな様子はどこへやら、少年の胸倉を掴んで苦いだの不味いだのと喚き散らす始末。これには老婆も苦笑を禁じえず、少年の息の根が止まらぬうちにとやんわり割って入った。
「その辺で勘弁しておやり、リダ。今度は坊やが寝込んじまうよ」
「だってこいつったら――」
 言いかけて、はっと息を呑む。そうしてつい先ほどまで風邪で寝込んでいた魔術士リダは、空色の瞳を目一杯見開いて叫んだのだった。
「ネリュレイアさま!?」
「それはとうに捨てた名だ。ネリーと呼んでおくれ。元気そうでなによりだね、リダ嬢ちゃん」
 皺だらけの顔を更にくしゃくしゃにして、老婆は笑った。つられて笑ったリダの顔が、たちまち泣き笑いの表情になる。
「婆さま……またお会いできるなんて、思ってもみませんでした……! お元気そうで、何よりです」
「こっちこそ、まさかこんなところであんたと会うとは思ってもいなかったよ。しばらく会わないうちに大きくなったねえ。魔術の腕も随分上がったようじゃないか」
「ありがとうございます。でも、ネリー様にはまだまだ及びません」
「おやまあ、大人になったもんだね。昔なら「そんなの当たり前」って言っただろうに」
「もう、ネリー様ったら、いつの話をしてるんですか」
 世にも珍しい光景だった。あのリダが、国王にすら頭を下げないと言われる最凶の女魔術士が、国境の小さな村に暮らす薬師の老婆に畏まり、敬語で話しかけ、あまつさえ謙遜したりはにかんだりしてみせるなんて……!
(信じられない……)
 呆然と立ち尽くす少年の目の前で、リダは尚も礼儀正しく言葉をつむぐ。
「でも婆さま、どうしてここにいらっしゃるんですか? 隠居なさったと、故郷にお帰りになったとばかり……」
「ああ、そうさ。ここがあたしの故郷なんだもの。お前さんこそ、こんなところでどうしたんだい? 宮廷魔術士はやめたのかい?」
「いえ、その……ちょっと色々ありまして……」
「また何かやらかしたね? まあ、お前さんはひとっところにじっとしていられるような性分じゃないものね」
 和気藹々と互いの近況を語り出す二人。老婆はともかく、リダはすっかり少年の存在を忘れているようだ。
(邪魔しちゃ悪いか)
 気を利かせてそっと部屋を立ち去り、少年は遅い昼食を取るべく階下の食堂へ向かった。こうして稀代の魔女達の会話を聞きそびれた少年は、後に激しく後悔することになる。

 そう、ギルは知らない。かつて、艶やかな黒髪と夜空のような黒い瞳から「夜のネリュレイア」と呼ばれた、偉大なる魔術士のことを。
 夜を纏い、月を従え、人々を魅了してやまない漆黒の魔女。都の芸術家達はこぞって彼女の素晴らしさを謳い上げ、その叡智の前には王侯貴族すら膝を負った。彼女を頼ってやってくる者は後を絶たず、中には海を渡ってやってくる者まであったという。

 リダは知っている。白髪交じりの髪を緩やかにまとめ、愛嬌のある笑顔で人々に慕われていた老魔術士を。魔術士になるのが嫌で家を飛び出した幼子を優しく招き入れ、「しばらく匿ってあげるから、その代わりに仕事を手伝っておくれ」と言って魔法薬の調合方法を一から教えてくれた、優しくも厳しい師匠の、丸い背中を。
 父の泣き落としに折れ、渋々家に戻ったあとも、少女は暇を見つけては彼女のもとに通い、魔法薬について学んだ。やがて魔術そのものに興味を抱くと、父に教わるのは絶対に嫌だとごねて、彼女に師事をした。
 もう教えることはないと推薦状を渡され、街の魔術士ギルドに赴いた時に初めて、リダは彼女が稀代の魔女であったことを知らされたのだった。

 昔の話さ、と老婆は笑う。
 緑なす黒髪は褪せ、黒曜石の如き瞳は白く濁り、すらりとした長身は一回りも二回りも小さくなって、ふっくらと肉がついた。唯一つ、今も変わらぬ白磁の肌、そこに深く刻まれた皺は、彼女が過ごしてきた年月を雄弁に物語る。
 ここにいるのは、人々に「ネリー婆さま」と慕われる薬師の老婆。
 それがあたしの選んだ道なのさ、と微笑む老婆に、リダは黙って頷いた。


 それまでの悪天候が嘘のように、翌日の空はすっきりと晴れ渡った。
「もっとゆっくりしていけば良かったのに。別に急いでないんだしさあ」
「馬鹿言ってんじゃないよ。ぐずぐずしてたらあいつはどっかに行っちまう」
 一晩ですっかり調子を取り戻したリダは、鼻歌など歌いながら藪をこいでいる。目指すは隣国ウェイシャンローティ。武勇の誉れ高き猛者の集う国だ。かの国に腕利きの魔術士がいると聞き及んだのは、もう半月も前のことになる。
「でも、また人違いかもしれないじゃないか。それより、あのお婆さんともっと話していけばよかったのに」
 朝早くの出立だったにもかかわらず、わざわざ村の入り口まで見送りに来てくれた老婆。餞別だといくつかの薬を持たせてくれたのがありがたかった。その中に万能中和剤なる薬が入っていたのは、少年への配慮かもしれない。
「いいんだよ。これが今生の別れってわけじゃないんだから」
 さばさばとした台詞は、いかにも彼女らしい。だからギルはそれ以上何も言わずに、そう言えばと話題を変えた。
「俺、なんか安心した」
「なにが?」
 不思議そうに振り返るリダに、笑って答える。
「リダも人間なんだなあ、って思って」
「ほおぉ……それじゃあんた、わたしが化け物かなんかだと思ってたわけ!?」
「いやそうじゃなくってっ! って痛っ!いたい! 耳ちぎれるッ!」
 褒めたつもりが怒らせてしまったようだ。万力のような力で耳たぶを引っ張られて、少年の目に涙が浮かぶ。
「まったく、人が苦しんでる時にそんなくだらないこと考えてただなんて、呆れた奴! あーもう、なんでこんなの連れて旅してんだろ、わたし」
「それはこっちの台詞……」
「なんか言った!?」
「き、気のせいだって! それよりリダ、早く行こう! 今日中に国境を越えないと、病み上がりに野宿はきついよ」
「あ、こらっ! 待ちなさーい!!」

 初夏の青空に響き渡る、賑やかな声。
 追いかけっこは国境を越えて、なお続いたという……。




←関連作品『風邪・1』


 これも「風邪」というタイトルで書いていた頃のお話。しかし、盛り込んだテーマ(「風邪」「ギルから見たリダ」)がどっちつかずになってしまい、没になりました。ここまで書き上げておいて没になるのも珍しいんですが。
 実は「風邪・1」「風邪・2」のほかにも書き掛けで没になった原稿があったりします。内容も二転三転して、「呪文」に方向転換してようやく日の目を見たわけです。


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