番外編競作 その花の名前は 参加作品

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 未来の卵・番外編

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追憶の《青》

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 飛び込んできた鮮やかな《青》に、彼は一瞬目を見張った。
 目の醒めるような《青》。単調な色合いの小屋の中、そこだけ色を帯びているかのような、鮮烈な色彩。
 十の月。収穫祭も終わり、すでに冬の気配の立ち込める村を背景に、玄関でにこにこと笑う少年は、腕いっぱいに可憐な花を抱えていた。
「きれいでしょう?今日エリナが摘んできたんですよ」
 うちに飾りきれなかったんでお裾分けに来ました、と続けた村長の息子マリオは、反応がない事に首を傾げ、目の前で立ち尽くす彼をまじまじと見た。
「ラウルさん?どうかしたんですか」
 いつもなら打てば響くように言葉を返してくるこの神官が、今はやけに神妙な面持ちを浮かべている。
「いや……」
 ようやく口を開いたラウルは、動揺を隠すかのように髪に手をやりながら、いそいそと台所に向かうマリオをじっと目で追っていた。
 いや、違う。彼が見ているのは、マリオの抱えた花の方だ。
 この辺りではあまり見ない、青い可憐な花。
 黄色い花心を彩り、風にそよぐ青い花びら。空の青とも海の青とも違う、それは郷愁の青。
 華やかな、それでいて何故か物悲しい色合いの花を花瓶代わりの水差しに活けて、マリオは扉のところで立ち尽くしているラウルの事などお構いなしに食卓へと飾り、満足げにそれを眺める。
「綺麗ですよね〜。これ、なんて花か知ってます? 僕、エリナから……」
「……キアだ」
「え?」
 答えなど期待してなかっただけに、マリオはラウルの呟きを聞き逃した。
「今、なんて?」
「フェリキア、だ……」
 そう答えたラウルの顔は、どこか寂しげな、それなのに怒っているような、そんな複雑な表情をしていた。
 そんなラウルに気付かず、マリオはいつもの調子でラウルをからかう。
「ラウルさんって花も詳しいんですか。ちょっと意外」
「やかましい。別に詳しいわけじゃないさ。たまたまだ」
 こちらもいつもの調子に戻ってやり返すラウル。そして、そっと花に指を伸ばす。
 繊細な花弁に触れたその瞬間、ラウルの脳裏に鮮やかに蘇る、声。
 ―――ラウルちゃん!―――
 艶やかな、それでいてどこか子供のような響きを含んだ声が、記憶の彼方から響いてくる。
 この青い花を、ラウルはかつて一度だけその手に摘んだ事があった。
 季節外れの青い花。時を経て、今再びラウルの目の前に飛び込んできた、追憶の《青》。
「なにか想い出でもあるんですか?」
 何の含みもなく尋ねてくるマリオに、花びらから手を離してラウルは静かに笑ってみせる。
 それは自嘲めいた笑み。そして、どこか寂しげな笑いだった。



 真夜中近くなっても、この街の灯りが消える事はない。
 行き交う人の波。賑やかな楽の音と嬌声が漏れてくる酒場の扉。道端で歌う吟遊詩人の隣では、酔っ払い達が地面に座り込んで札遊びに興じている。
 《常夜通り》と呼ばれるこの一帯には、酒場や賭博場、そして娼館などがひしめき合っていた。客引きの声が飛び交い、女に腕を組まれた男達が扉をくぐる姿があちこちで見られる。
 そんな通りを闊歩する、三人の若者がいた。
 肩までの赤毛を揺らして歩く長身の青年、短く刈り込んだ金髪が夜目にも鮮やかな、がっしりとした体躯の青年、そして二人の間で楽しげに笑う、長い黒髪を一本に束ねた青年。
 それぞれ違った魅力を備えた若者達は、慣れた足取りで《常夜通り》を進んでいる。
 他愛もない話をしながら歩く彼ら。先ほどの店にいた娘がどうの、という話が切りあがったところで、それまでどちらかというと聞き役に回っていた金髪の青年が口を開いた。
「ところで、これからどうするよ?」
 そんな問いかけに、先頭を行く黒髪の青年がにやりと笑いつつ
「まだ飲み足りないんだろ?久しぶりに『跳ねるじゃじゃ馬亭』でも行くか」
 と答える。これは、尋ねてきた相手が顔をしかめるのを見越しての発言だった。
「あそこはやめとこうぜ。他にもいい店いっぱいあるだろ。なあジェット」
 案の定そう言ってきた金髪の青年リゲルは、先月『跳ねるじゃじゃ馬亭』の歌姫にこっぴどく振られたばかりだ。しかも、店の中、衆人環視の下で。それ以来あの店には近寄れないでいるリゲルを、彼らはよく話のネタにしていた。
「なに、アネッサももうお前の事なんか忘れてるだろうよ」
 からかうジェットはと言えば、つい先日新しい恋人が出来て有頂天だ。それなのにその恋人をほったらかして連日仲間と遊び歩いているのだから、別れるのは時間の問題だろうと周囲は踏んでいる。
「なあラウル、お前だってこないだ『跳ねるじゃじゃ馬亭』の女の子に逃げられたばっかりだろ?」
 リゲルの言葉に、ラウルと呼ばれた黒髪の青年は何を言う、と鼻を鳴らした。
「逃げられたんじゃない、俺から手を退いたんだ」
「よく言うぜ。二股かけられてたんだろ?」
「もう一人はいいとこの坊ちゃんだっていうじゃないか。お前なんかに勝ち目ねえよなあ」
 まぜっかえす二人をこの野郎っ、と小突くラウル。
「悪かったな、どうせ俺は厄介者の不良神官、神殿の爪弾き者だよ」
 それをちっとも悪びれずに言ってのけるのだから、なお始末に悪い。リゲルもジェットも途端に笑い出しながら、その「不良神官」の肩を叩いた。
「お前ときたら、何年神殿にいても変わらないんだもんなぁ」
「だからこそ未だに腐れ縁が続いてるんだけど」
「言ってろよ」
 彼らは、このラルスディーンに暮らす若者達だった。
 画家を目指して都に出てきたものの鳴かず飛ばずで、日銭を稼いで暮らしているリゲル。
 貧民街で生まれ育ち、十代の頃から賭博で生計を立てているジェット。
 そして、ユーク本神殿に勤める神官でありながら、日々神殿を抜け出しては遊び歩いているラウル。
 二十代のはじめ。夢を見るには世の中を知りすぎ、それでも希望を捨てるにはまだ若すぎる、中途半端な年頃の三人は、夜な夜な街に繰り出しては享楽に耽っていた。とはいえ、それに溺れない程度には、彼らはこの街での生き方を心得ているつもりだ。
 中央大陸全土を掌握するラルス帝国。その首都である《黄金の都》ラルスディーン。文化の中心地と呼ばれるこの街には、魅力的なものが山ほどある。それは賭博や薬、はたまた美貌の歌姫から、道端で売られている贋物の宝石まで、様々だ。
 この街には何でもある。夢も、未来も、そして悪夢も絶望も。
 だからこそ、この街で生きていくのは難しい。ここでは誰も助けてはくれない。すべては自分の手で切り開かなければならない。それが出来ないものは、やがてこの街を去っていく。誰もそれをひき止めはしない。それが都会、このラルスディーンという街だ。
「とりあえず、適当な店で飲み直そうぜ」
「じゃあ、いつものあそこ行くか」
「おう」
 雑踏の中を歩き出す三人。その足取りは慣れたもので、深夜を過ぎても人通りの絶えないこの常夜通りを、彼らはまるで水の中を泳ぐ魚のようにするりと抜けていく。そんな彼らにあちこちからかかる、女達の声。
「あら、ラウル達じゃないの」
「リゲルったら、アネッサなんかよりアタシと付き合えばいいのに」
「最近お見限りじゃない。たまには遊びに来なさいよ」
 安っぽい化粧に薄っぺらな衣装、ここにはそんな女達が大勢いる。しかしどの顔も、自らを蔑む事なく、自信たっぷりの笑顔で道行く男達に秋波を送っている。
 したたかに、しなやかに夜を渡る女達。そんな彼女達の間で、この三人は馴染みの客として、または仕事抜きで酒を酌み交わす友人として親しまれていた。
「今日も色っぽいね、姉さん達」
「あ、つけは今度な。頼むよ」
「わりい、今日は勘弁」
 誘惑の手をひらりとかわして足を進める。建物の角を曲がって、行きつけの酒場まであと少し、というところで、彼らは人だかりに出くわした。
「なんだぁ?」
「痴話げんかか?」
 人垣の向こうから聞こえてくるのは、男の罵声。まあ、こういった騒ぎは珍しくない。
「どうする?」
 人だかりを迂回すれば飲み屋まですぐなのだが、こういった事にやたらと首を突っ込みたがる人間が一人いる。
「行ってみよう」
 好奇心丸出しでリゲルが人垣を掻き分けるのを、ラウルとジェットはやれやれ、という顔で追いかけた。この野次馬根性に富んだリゲルのおかげで厄介事に巻き込まれるのは、二人にとってもはや日常茶飯事だ。
「ったく……困った奴だ」
 舌打ちしつつ、リゲルの背中を追って人垣を抜けると、すぐに騒ぎの中心人物が目に入ってきた。

 飛び込んできたのは、目の醒めるような青。
 次の瞬間、それが青い衣装に身を包んだ女性の姿である事が分かる。光沢のある、まるで舞台女優のような派手ないでたち。しかしそれは彼女の淡い金髪を一層際立たせ、整った顔立ちを更に引き立てていた。
 そして、何よりも目を惹いたのはその瞳。
 淡い、どこまでも澄んだ蒼い双眸。強い意志を秘めた瞳は、儚げな雰囲気をそれだけで一掃し、彼女を凛とした女性に見せている。
 その瞳が一瞬ラウルを掠めた。その瞬間、まるで魅せられたかのようにラウルは一歩、前に踏み出しかける。
「おいラウル」
 その肩を掴み、ぐいと引き戻すジェット。はっとラウルは足を戻し、目の前で繰り広げられている言い争いに意識を巡らせた。
 激しい口調で怒鳴り散らしているのは、若い男。身なりからして、そこそこ裕福な人間なのだろう。年の頃はラウル達と同じくらいか。
「人を馬鹿にするにもほどがある!とんだ役者だな、お前は!!」
「違うわ、話を……」
 激しくなじられながらも懸命に言い募っている女性は、こちらはラウル達より上に見えた。恐らくは二十代も半ば、格好からしてどこかの歌姫か、もしくは男の言葉ではないが本当に役者か何かなのかもしれない。すらりとした長身を艶やかな青い衣装に包み、緩やかにうねる金髪を揺らして、必死に男へと言葉を投げかけている。その声は意外にも容姿から想像するものより低かったが、耳に心地よい穏やかな響きを持っていた。
「お願いクライド、私の話を聞い……」
「これ以上お前の話など聞きたくもない!」
「クライ……ッ!!」
 乾いた音が通りに響いた。
 頬を張られて、どっと石畳に倒れこむ女性。その瞬間、迷わずにラウルは動いていた。

 叩くつもりはなかった。
 ただ、腕にすがられそうになって、それを払いのけようと手を挙げて……その悲しそうな顔を見た途端、怒りが爆発した。そんな顔でこれまで何人の男を誑かしたのだろう。そう思ったら余計に、あっさりと騙されてしまった自分が腹立たしくて……。
 気づいたら、彼女は石畳の上に崩れていた。そして。
「おい」
 人ごみの中から突如現れた青年に、クライドは眉をひそめた。
 黒髪に黒い服。まるで闇から抜け出てきたかのような青年の瞳は、まるで抜き身の刃を思わせるような危険な光を帯びている。その冷たい視線に一瞬気圧されそうになったが、酒の勢い、そして込み上げる怒りが、思わず後ずさりそうになった足を辛うじて踏みとどまらせた。
「……なんだ、お前は」
 尋ねたクライドに、青年は
「通りすがりのもんさ」
 とだけ答えて、クライドからあっさりと視線を外すと、地面に倒れたままの女性に歩み寄っていく。
「なっ……!」
 拍子抜けしているクライドなどお構いなしに、女性に手を差し伸べ、
「大丈夫か?怪我は……ああ、口ン中切ったか」
 驚いたように見上げてくる女性の口の端から血が滲んでいるのを見て、眉をひそめる青年。
「あ、あの……」
「いい、喋んな」
 恐る恐る手を伸ばしてくる女性の手を半ば強引に取り、立ち上がらせる。そして今来た方を振り返ると、人垣の最前列で呆れ顔をしている仲間達へと女性をそっと押しやり、改めてクライドを見据えてきた。
「何があったか知らねぇが、道のど真ん中で修羅場演じるのは無粋ってもんだぜ」
「う、うるさい!お前には関係のないことだ、引っ込んでいろ!」
 おそらくは一、二歳年下であるだろう青年。着崩した服装は意外にも上質のものだったが、そんなところにまで気は回らなかった。この辺りに山ほどいるゴロツキの手合いと思ったが、それにしては下卑た感じもしないし、それに一見してさほど強そうな相手でもない。それなのに、返す言葉が上ずってしまうのはなぜだろう。
「ま、確かに関係ないことだけどな」
 不意に通りを吹き抜ける夜風に黒髪が踊る。それをすい、とかきあげた青年は、不敵な笑みを浮かべてクライドをねめつけた。
「目の前でいい女が殴られてるの見て、黙って見てるわけにもいかねぇな」
「なにを……!」

「たく、相変わらずなんだから」
「厄介事に首を突っ込みたがるのはあいつの方だよな、絶対」
 ラウルの言葉を聞きながら、ジェットとリゲルは呆れた声で囁きあった。その二人にラウルが押し付けた女性はといえば、赤く腫れた左頬を押さえながら、はらはらと目の前のやり取りを見つめている。
「どうしましょう、私……」
「ああ、気にしないでいいよお姉さん」
 リゲルがそう言って、安心させるように笑ってみせる。
「あいつのお節介はいつものことなんだ。女には優しいからな」
「心配しなくても、あいつ強いから」
「いえ、そうじゃなくて……」
 
「何が「いい女」だ、あいつは……っ!」
 言葉が途切れ、クライドの体が大きく後ろに吹き飛ぶ。取り囲んでいた野次馬達が咄嗟に遠のき、彼らを取り囲む人の輪が大きく歪んだ。
「だ、大丈夫か……?」
「一発かよ、さすがはあの……」
 石畳に思いっきり背中を打ち付けてしまったのか、呻き声を上げているクライドの周りで、野次馬達が囁いている。
 この《常夜通り》において、ユーク本神殿の不良神官ラウル=エバストの名と顔を知らぬものはいない。その喧嘩早さと、そして腕っ節の強さも。
「うるせぇんだよ」
 蹴り一発であっさりとクライドを黙らせたラウルは、起き上がってこない彼に目もくれず仲間のもとへと戻っていった。そして困り果てたような顔でこちらを見ている女性に、優しく声をかける。
「大丈夫だったか?何だか知らないが、災難だったな」
「い、いえ、その……」
 口ごもる女性に、ラウルは深くは聞くまいと話題を変えた。
「あんた、見ない顔だけどどっかの店に新しく入った歌姫かなんか?」
「いえ、私は街外れの《猫足広場》で興行をしている、マレイン一座のものよ」
 そう答えた女性は、ようやく落ち着きを取り戻したようだった。ラウルや後ろの二人を見回し、丁寧に頭を下げる。
「どうもありがとう」
 少しだけ微笑んだその顔に、三人の顔が思わず緩む。ラウルが言った通り、確かに彼女は「いい女」だった。この辺りの歌姫や娼婦達とはまた違う、清楚で可憐な美しさ。それでいてどこか艶めいた色香をも漂せた不思議な女性は、更に言葉を続ける。
「なにか、お礼を……」
「いや、大した事したわけじゃないし」
「気にしないでいいって」
 へらへらと笑うジェットとリゲル。一方、騒ぎが一段落した事であっという間に散っていった人だかりの方を見ていたラウルは、よろよろと起き上がろうとしているクライドを鼻で笑いつつ、わざと彼に聞こえるような声で女性へと言葉を返す。
「礼がしたいってなら、一杯付き合わないか?その後、あんたの一座が泊まってる場所まで送ってく。また馬鹿な奴に絡まれたりしないようにな」
 答えも聞かずにさり気なく腕を彼女の背中に回し、二人に目で合図をして歩き出す。
「そんな、それじゃお礼にならないわ」
 ラウルに促されて歩きながら、困ったように言う女性。しかしラウルは首を横に振って、片目をつぶってみせた。
「野郎ばっかで顔つき合わせてても面白くないからな。あんたみたいないい女に酌してもらえりゃ、酒もうまくなるってもんさ」
「でも……」
 まだ納得がいかないらしい彼女に、ラウルはそれじゃ、と付け加える。
「そうだな。口づけくらいしてもらっても罰はあたらないかな。あとは、もしあんたが俺を気に入ってくれたなら、一晩付き合ってくれよって言うぜ?」
 本気とも、冗談ともとれない軽い口調。その瞳は、いたずらっ子のように輝いている。
 彼女が商売女でない事は雰囲気で分かる。分かっていて言っているのだから人が悪いが、それが嫌味や卑猥な台詞に聞こえないところは、まさに彼の人柄がなせる業であろう。
「その綺麗な瞳を一晩中拝ませてくれたら、俺としちゃこの上なく幸せなんだけどな」
 どうだい?と尋ねるラウル。一方、リゲルとジェットはやれやれ、また始まったと言わんばかりにそれぞれ肩をすくめていた。よくもまあ、そんな気障な台詞がほいほいと出てくるもんだ、と言いたげなリゲルを、ジェットがいつもの事だろ、と目で告げる。
 そして、女性の方はといえば、ラウルの言葉に目を丸くした後、茶目っ気たっぷりの瞳で笑ってみせた。
「それなら……」
「おい、お前ら!!」
 唐突に背後から声が飛んできた。
「あぁ?なんだよ」
 会話を遮られて不機嫌そうに振り返ったラウルは、ようやく立ち上がり、憤怒の表情で睨みつけてくるクライドをせせら笑う。
「振られたからって、負け惜しみは見苦しいぜ?」
 しかし、クライドは首を横に振ると、衝撃的な一言を告げた。
「そいつは、男なんだぞっ!!」

「は?」
 一瞬の沈黙の後、ようやく口から出てきた言葉はそれだけだった。
 背中に回していた手をそっと離し、クライドの言葉に悲しそうな顔をして立ち尽くす彼女をまじまじと見つめる。
「おとこ?」
「嘘だろ?」
「冗談きついぜ、あんた」
 リゲルとジェットもラウル同様彼女を眺め、そう呟く。
 この、どう見ても可憐な女性が男だなどと、嘘をつくにも程がある、と言い返そうとしたその時。
「ごめんなさい……」
 申し訳なさそうな顔で、彼女はクライドの言葉を肯定するように、そうとだけ呟いた。

 気まずい雰囲気が流れる。
 それを打ち破ったのは、意外な事に彼女だった。
「クライド。私、あなたを騙すつもりなんてなかった。私は、確かにこの体は男だけど、心は、本当に女なの。分かってほしかったけど……無理ね。ごめんなさい」
 最後の方の台詞は、かすかに震えていた。その美しい双眸はすでに滲み始めている。それでも涙を堪えて、彼女は別れの言葉を紡ぐ。
「忘れて下さい。私も、忘れます。それじゃ……ごきげんよう」
 くるりと踵を返し、立ち尽くしたままの三人に切なげな顔を向ける彼女。
「ありがとね。お礼が出来なくて残念だわ」
 そうとだけ言って、足早に歩き出す。
 去っていくその後姿を呆然と見送った三人は、街角に彼女の姿が消えるまでを見届けて、誰からともなく顔を合わせた。
「……あれが、男……?」
「うそだろ……」
「……まじかよ」
 がっくりとうなだれるラウルに、リゲルが首を傾げる。
「なんだよラウル」
「……ちくしょう……オカマ口説いたなんて、一生の不覚……っ!!」
 やれやれ、と大げさに肩をすくめてみせたジェットが、お?と呟く。
「どうした?ジェット」
「なんだ、あれ」
 ジェットが指差す先は、先ほどまでクライドと彼女が口論をしていた場所だった。
 いつの間に消えたのかそこにクライドの姿はなかったが、その代わりに小さく輝く何かが落ちている。
 誰かに踏まれぬうちにと足早にその落し物に歩み寄り、ひょいと摘み上げるジェット。月明かりにそれを翳し、なんだと呟く。
「……襟留め、だな」
「どれどれ……ああ、そうだな。随分年代物っぽいが上物だなあ。細工もいいし、それにこれ、見ろよ」
 リゲルが横から手を出す。緻密に細工された蓋を開けると、そこには小さく束ねられた亜麻色の髪の毛が入っていた。上流階級の女性などが好んで身に着ける装身具の一つだ。中には恋人や家族など、大切な人間の髪を入れてお守り代わりにするのが流行っているのだという。
「この意匠だと女物だよな。じゃあ、あの……」
 彼女が、と言いそうになって、口ごもるジェット。そして、未だ衝撃から立ち直っていないラウルへとそれを放った。
「…っと、なんだよ」
 反射的にそれを受け止めて、ラウルが尋ねる。ジェットはにやにやと笑いながら、
「彼女の落し物だ」
「彼女じゃねぇだろうが……。なんで俺に寄越すんだよ」
「薄情な奴だな、一度は口説いた相手だろ」
 ジェットの言葉に、ラウルが眉を吊り上げる。
「ふざけんな!俺は男色の気なんざねえ!」
「心は女だっつってたじゃん。あんなに別嬪さんなんだ、体が男でも構わないだろ?」
「構うに決まってんだろうが!!」
「ま、まあまあ」
 今にもジェットに掴みかからんばかりのラウルを、慌てて宥めるリゲル。
「ジェットの言うことなんか本気にすんなよ。ほら、飲みに行こうぜ?な?」
「俺はホントのこと言っただけじゃーん」
「てんめぇ……その減らず口が利けないようにしてやろうか…!」
「だーかーら!もうその話はやめて、な?飲みに行こう。ほら」
 喧嘩が始まってはたまらないと、リゲルは二人の腕を強引に取って、馴染みの酒場へと引っ張っていく。
「お、おいリゲル……」
「ひっぱんなって、こら……ったく、仕方ねえなあ」
 文句を言いつつも、ジェットとラウルは大人しくリゲルに引っ張られていった。今までの険悪な雰囲気はどこへやら、顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。お互い相手の反応が分かっていてじゃれているだけなのだが、リゲルにはそれが本気の喧嘩に見えているらしい。まあ、いつも半分以上は本気だが。
「山羊の蹄亭でいいだろ?ほら、早く行こう」
 二人を急かして一軒の酒場を目指すリゲル。街はさっきの騒動など最初からなかったかのように、いつものざわめきを取り戻している。この街は、そういう街だ。
(さっきのことは、忘れよう。なかった事にすればいい)
 そう心に決めて、ラウルは辿り着いた酒場の扉をぐい、と押した。
 ガラン、と大仰な鐘の音を立てて扉が開く。
「いらっしゃーい」
「おう、なんだお前達か」
「よお親父さん、席空いてる?」
「ああ、すわんな」
 足繁く通っている酒場の、これまたすっかり定位置と化した奥の席にどっかりと腰を下ろし、注文を聞きにきた看板娘と他愛もない会話をするうちに、先ほどの事は三人の頭の中からすっぱりと消えていた。
 消えていたのだが……。


「ラウルったら、オカマ口説いたんだって?」
 朝食を盆に載せてやってきた少女の言葉に、ラウルは机の上に突っ伏した。
「……おいおい、なんでそのこと……」
「昨日、遅くに来たお客さんが言ってたわよ?でもきれいな人だったんでしょ?いいじゃない」
「よくねぇっ!……つぅ……」
 二日酔いの頭で怒鳴ったものだから、途端に激痛が走って椅子の背にぐったりともたれかかるラウル。その様子を面白そうに見ていた少女は、ラウルが頼んだ朝食の皿を机に並べながら、なおも言葉を続ける。
「アタシも見たかったなあ、その人。ねえ、今度連れてきてよ」
「なんで俺がっ……大体、名前すら知らないんだぞ」
「あれ?じゃあ振られたの?」
 腕落ちたんじゃない?などと笑っている少女は、ラウルがよく立ち寄る食堂の看板娘だ。常世通りに近いこの店は飲み明かした後に朝飯を取るにはもってこいで、看板娘のミルトとはすっかり顔馴染みである。
「うるせー、大体、男を落としてどうすんだ」
「あれぇ、美人ならなんでもいいんじゃなかったの?」
 昨日ジェットに言われたような事をまた言われて、しかしラウルはもはや怒鳴る気力もなく朝食の皿に手を伸ばした。食欲はあまりないが、これから神殿に戻ってお説教を聞く羽目になるかと思うと、きちんと栄養をつけておかないと気力が持たない。
 だるそうに食事をつつくラウルを、ミルトはやれやれ、という目で眺める。
「まったく、これでユークの神官様だっていうんだから、不思議よね」
 初めて彼に会った時、ミルトは街の不良だと信じて疑わなかった。もっともその時は喧嘩の後で、顔は腫れてるわ口の端は切れているわ、服はところどころ破れて血までついているわで、ミルトでなくともそんな第一印象を抱くのは当たり前だったろう。
 それが次に会った時、彼は黒い神官服に身を包み、朗々と聖句を唱えていた。葬式の場であったからそれが当たり前なのだが、あまりの印象の違いに、そこが葬儀の場であることも忘れて素っ頓狂な声を上げ、顰蹙を買ってしまったくらいだ。
 ユーク正神官ラウル=エバスト。それが彼の正式な身分だった。ついでに付け加えるならば、彼は養子ではあるが現ユーク本神殿長の息子でもある。
 普通「神官」といえば、誰もが厳格で品行方正な真面目人間、という姿を想像するだろうが、このラウルときたら、女は口説くわ酒には強いわ賭博はやるわ、とてもではないが聖職に就くものとは思えない。
 そんな彼が暮らしているのは、街の外れにある荘厳な作りのユーク本神殿だ。死を司る神ユークを崇めるユーク神殿は葬儀全般を取り仕切る場所でもある。
 この本神殿に部屋をもらっているラウルは、度々神殿を抜け出して街に繰り出している。しかし酒に酔おうが、女と夜を共にしようが、朝にはきちんと神殿に戻る事が多い。とはいえ朝帰りは立派な規律違反であり、戻った途端にお偉い方に捕まってこっぴどく説教をされるのはもはや日課となっていた。余りにもしょっちゅう小言を食らっているものだから、今となっては聞き流すのも得意技になっており、さほど苦にもならないのだが、
(あー、めんどくせ。今日は戻るのやめとくか……)
 今日はどうもそんな気がしなかった。神殿長の息子とはいえ、彼はただの神官だ。いないからといって神殿の業務に支障をきたすわけでもない。
「なあミルト、今日……」
「駄目よ。アタシは友達と遊びに行く約束してるの」
 あっさりと断られて、ちぇっと舌打ちするラウル。そんなラウルに紅茶のお代わりを注いでやりながら、ミルトはふと、机の上に無造作に置かれたあるものを見つけた。
「なに、それ?」
「あ?……ああ、これか。……拾ったのさ」
 それこそは、昨日ジェットが拾い、ラウルに押し付けた襟留めだった。何気なく服の隠しにしまったまま、ついさっきまで存在すら忘れていた。なにか肌に当たるのでなんだろうと引っ張り出したら、昨日の襟留めだったわけだ。
「欲しいならやるよ」
 ラウルが持っていても仕方のないものだ。拾った経緯を簡単に話してミルトに押し付けようとしたが、彼女は首を横に振る。
「いらないよ。こんないい襟留めつけられるような服なんて持ってないし」
「じゃあ……」
 適当に処分してくれよ、と言おうとしたラウルを遮って、ミルトはその襟留めをラウルの手に戻すと、さも当然のこととばかりに言い放った。
「落とし主に返してあげなよね」
「はぁ?なんで俺がそんなことしなきゃなんないんだ」
「どうせお仕事サボるつもりなんでしょ?暇つぶしに行ってくればいいじゃない」
「行くって、どこにだよ」
 憮然と聞き返すラウルに、ミルトはぴっと人差し指を立ててみせた。
「《猫足広場》のマレイン一座」
「ん?……どっかで聞いたな、それ……って、なんでお前がそんなこと……」
 それは確かに、昨日の女性が告げた言葉だった。しかしなぜこの少女がそれを知っているのだろう。
 怪訝そうな顔で見上げてくるラウルに、ミルトはあっけらかんと言う。
「だから、昨日の一部始終を見てた人がいたんだって。あんな通りのど真ん中で騒いでれば人の目にも留まるでしょ?その人が昨日うちに来て、そりゃあもう詳細に話してってくれたのよ」
「……誰だよ、そんな余計な真似しやがった奴は……」
 ミルトの言葉にも一理ある。あれだけの観衆がいたのだ、衝撃の事実をあの男が告げた時には大分人も減っていたが、それでも通りには大勢の通行人がいた。つまりは、ラウルの失態をかなりの人間に見られたわけで。
「……ああ、もう……」
 再び机に突っ伏すラウル。そんな彼のうなだれぶりにはお構いなしに、ミルトはびしっと言いつけた。
「いい?ちゃんと届けてあげるのよ?《猫足広場》のマレイン一座だからね。聞いた話じゃ結構面白い興行やってるらしいから、ついでに見てくればいいじゃない。暇つぶしにさ」

「……どうして俺がこんなこと……」
 憎々しげに手の中のものを握り締めて、ラウルは広場に張られた天幕の前に立っていた。 太陽は中天に差し掛かり、猫足広場と名づけられた街外れの広場にも燦々と光が降りそそいでいる。普段は子供や年寄りしか立ち寄らないような小さな広場に、今はくすんだ色の天幕が張られ、中からは賑やかな楽の音が響いていた。
 天幕の入り口、今はきっちりと閉められた幕の上には、「マレイン一座」と書かれた派手な装飾の看板が備え付けられている。ここへ来る道すがら聞いた話では、十日ほど前ほどからこの広場で興行を行っている、小さな旅芸人の一座だという。軽業や手品のほか小芝居も上演して、小さいながらも客の入りは上々らしい。
 そのマレイン一座の天幕の前で、ラウルは苦虫を噛み潰したような顔で入り口を睨んでいた。誰か出てくれば、と思って待っているのに、もう半刻近く誰も出てくる気配がない。楽の音や何かの掛け声、また歌なども聞こえてくるから、練習の真っ最中なのだろう。
(ったくよお……)
 ミルトの言葉に従うつもりなど毛頭なかった。食事を終えた後も散々粘っていたラウルだが、混んで来たから早くどけ、とミルトに追い出され、どこか適当な場所で暇をつぶそうと街をほっつき歩いているうちに、いつの間にか《猫足広場》についてしまったのだ。
(早く誰か出て来いよ…!)
 心の中で呟きつつ、ふと手を開いて、問題の落し物を見つめる。
 古風な襟止め。昨日は暗くてよく見えなかったが、太陽の下で鈍い光を放つそれは、精緻な細工が施された純銀製のものだった。年代物だがよく手入れされていて、黒ずみひとつない。それほど大事にしていたものなのだろう。
 とはいえ、別に届ける義理もなにもない。リゲルが上物だと言っていたから、誰のものとも分からぬ髪など捨てて、そこいらで売って小銭に替えてしまえばいい。
 そう思っていたはずなのに、気づけば彼はそれを届けにやってきている。
 こんなところをあの二人に見られたら、つくづくお人よしだよな、と笑われるに違いない。
 ―――と。
「お兄さん」
「おにいさん」
 唐突に、目の前から声が聞こえた。しかも見事に重なっている。
 顔を上げると、そこに可愛らしい少女の顔が二つあった。しかも、顔だけでなく髪型や服装まで見事に同じ。一瞬、二日酔いのせいでものが二重に見えているのかとも思ったが、よく見ると、上から下まで完璧に同じように見えた二人は、それぞれ手にしているものだけが異なっていた。一人は太鼓のばちを、一人は縦笛を握り締めて、ラウルの顔を見上げている。
「何か御用ですか?」
「なにかごようですか?」
 再び重なる声。そして、立ち尽くすラウルの手の中のものを覗き込んで、これまた同時にぽん、と手を打つ。
「お兄さん、昨日姉ちゃんを助けてくれた人?」
「わざわざとどけにきてくれたんだ」
 今度の台詞は二人別々だった。そして嬉しそうに入り口の幕を上げ、ラウルを手招きする。
「入って、お兄さん」
「おねえちゃん、よころぶよ!」
「え、いや、俺は……」
「ほらほら、早くっ!」
「はやくぅ」
 業を煮やしたのか、一人がラウルの腕をぐいぐいと引っ張り出した。一生懸命なその顔に、ラウルはふぅ、と息をつく。
「……分かったよ」
 仕方なしに、ラウルは引っ張られるまま幕をくぐった。

 天幕の中は意外に広く、そして薄暗かった。
「待っててね、今呼んでくるから」
「すぐだよ」
 ラウルを客席であるござの上に座らせて、二人は足早に舞台の方へと走っていく。
「っておいちょっとまて!俺は……」
 会いにきたわけじゃない、直接渡す必要は、と言いかけたが、すでに二人の姿が見えなくなっている事に気づいて、口を閉ざす。
「ったく……」
 仕方ない。渡すものを渡したらさっさと帰ろう。そう心に決めて、改めてラウルは天幕の中を見回した。
 地面に敷かれたござは、三十人も座れればいい方だろう。そしてその奥にある粗末な舞台の上で、今は数人の男女が大道芸やら楽器の練習に励んでいた。一心不乱に練習に打ち込む彼らは、ラウルのことなど気づいてもいない様子でひたすらに玉の上に乗ったり、笛を吹いたり太鼓を叩いたりを続けている。
 こうした舞台裏を覗ける機会というのもなかなかない。そう思って物珍しそうに舞台を見ていたところ、ふと自分が入ってきた入り口とは違う幕の切れ目から顔を出して辺りを伺っている髭面の男と目が合った。
「おお、あんたかね」
 どかどかと近づいてくる男。体格のいい、まるで熊のようなその男は、ラウルの目の前まで来ると人懐こい笑顔を浮かべた。
「うちのもんが世話になったらしいな。ああ、俺は座長のマレインだ。みんなは親方と呼んどる」
 そういいながら手を伸べてくるマレインに、ラウルは不承不承その手を握り返す。
「ラウルだ。俺は……」
「ああ、わかっとる。落し物を届けにきてくれたんだろ?昨日帰ってきてから、襟留めがない、ないと騒いでな。夜も遅いのに探しに戻るといって聞かないもんだから、みんなで必死に止めたんだ。今あの双子が呼びに行ってるから、もう少し待ってくれ」
「いやだから、別に俺は……」
「しかも、聞いた話じゃ昨日、お前さんあのクライドとか言う男をのしてくれたんだって?すまなかったなあ、手を煩わさせて。本当なら俺がやるべき事だったんだが……」
 そう言って、頼んでもいないのにマレインが話して聞かせたところによると、あのクライドという男はアストアナ地方の商人の息子で、父親の商用に付き合ってこの街に来たらしい。そしてふらっと立ち寄ったこの広場で彼らの興行を見て一座の看板女優に一目惚れし、五日も通い詰めた挙句、昨夜半ば強引に飲みに連れ出したのだという。
「ちょうど俺が人と会ってる時で、他の連中も後片付けで止める暇もなくてな。気づいたら衣装のまま連れ出されてるわ、しかも遅くになって頬を腫らして帰って来るわ……。で、聞いたら向こうが勝手に勘違いして強引に言い寄った挙句、訳も聞かずにひっぱたいたっていうじゃねえか」
 とんだ野郎だ、と怒りを露わにするマレインに、ラウルはなるほどな、と呟きつつ肩をすくめる。
「しかし、あの男が憤るのも無理ないんじゃないのか?惚れた相手がお……」
「まあ!」
 唐突に背後から声が上がった。はっと振り向くと、そこに鮮やかな《青》があった。

 無言で差し出した襟留めを大事そうに受け取って、彼女は顔をほころばせる。
「本当にありがとう。助けてもらったばかりか、わざわざこれを届けに来てくれるだなんて……」
 昨日とは違う簡素な薄紅色の服に身を包んだ彼女は、しかしそこだけは変わらない青い双眸でラウルを見つめていた。薄く化粧の施された顔、きれいに結われた淡い金の髪。そしてほっそりとした白い腕。それらは、これが男だなどと信じがたいほどにたおやかで、美しかった。
 しかし。たとえどこからどう見ても別嬪さんであろうが、男は男だ。
「……別に来たくて来た訳じゃねえ。ただ、それが大切なものらしいから、仕方なく……」
 ぶっきらぼうに答えるラウルに、彼女はそうなのよ、と愛しげに襟留めを撫でる。
「これは、私に残されたたった一つのものだから」
 謎めいた物言いに、ラウルが首を傾げる。その様子に言葉を続けようとした彼女は、不意に舞台から響いた「おーい、はじめるぞ」という声に、弾かれたように振り向いた。
「今行くわ!」
 そう答えて、再びラウルに向き直る。そして
「ごめんなさい、今お芝居の稽古中なの。あとでゆっくりお話したいから、もうちょっとだけ待っていてくれる?」
「え、お、おい」
 なんで俺が、と抗議する前に、彼女はマレインに向かって
「親方、お願いね」
 というが早いか、衣装の裾を翻して舞台に走っていった。
「ああ、分かってるとも!」
 その背中にそう答えて、マレインはラウルを見る。
「まあゆっくりしていけや。ついてこい、裏で昼飯でも馳走するから」
「いや……っ」
 丁重に断ろうとしたラウルの腹がくぅ、と鳴った。
 二日酔いに負けて、ちゃんと朝飯を食べ切って来なかったからだろう。そんなラウルの腹の虫を聞いてマレインは豪快に笑い、さぁさぁとラウルの背中を押して歩き始めた。

「記憶喪失?」
 野菜と鶏肉の煮込みをほおばりながら、双子の言葉にラウルは目を見開いた。
「そうなんだ」
 頷いて見せたのは、先ほど太鼓のばちを持っていた少年。名はレネーだとさっき教えてくれた。まだ十歳になり立てだが、軽業を担当するれっきとした一座の一員だ。
「半年くらい前かなぁ、道端で倒れてたのを親方が拾ったんだ」
「びっくりしたよね。キズだらけで、あたまにもけがしてて」
 舌足らずに話す少女はユノー。双子の妹である彼女も、同じく軽業を担当している。
「親方ってば人がいいからさ。お医者さんも呼んだりして手厚く介抱したんだ。それで、三日後にようやく目を覚ました時には、何にも覚えてなかったってわけ」
 身分を証明するようなものは何一つ身に着けておらず、近くの町で聞き込みをしても何の情報も得られなかった。唯一の所持品といえば年代物の襟留めひとつ。それにも名前などはなく、中に収められた亜麻色の髪を見ても、それが誰のものなのか思い出せなかったという。
「そんなこんなで一座の仲間入りをして、最初は裏方しててもらったんだけど、お芝居に興味があるみたいだったから、冗談で女装させて舞台に出したら、なんかはまっちゃってね」
「それから、じぶんはおんなとしていきるっていいだして、で、ああなったの」
「それじゃ、最初からオカマな訳じゃなかったのか」
 匙をくわえながら言うラウルに、双子は揃って頷いた。
「でも今じゃ、女よりも女らしいって評判だし」
「きれいだし、にあってるし、あれはあれでいいんじゃないって」
 今では一座のものも完璧に彼女を女扱いしており、またあの容貌だけあって、実は男であるという事に気づく客も滅多にいないという。
「まあ、確かに言われなきゃ分からないしな……」
 と、天幕の入り口付近が騒がしくなって、どっと人がなだれ込んできた。
 先ほどまで舞台にいた人間達が稽古を終えて戻ってきたのだ。そんな彼らにねぎらいの言葉をかけながら、昼飯を配っているマレイン。料理はいつも、この座長が腕を振るっているらしい。
 一気に人であふれた天幕の中、なんとなく居心地の悪さを覚えて食事の手を止めたラウルのもとに、食事の乗った盆を持った彼女がやってきた。
「待っていてくれてありがとう。親方のお料理、おいしいでしょう?」
 伺いも立てずにラウルの隣に腰を下ろし、笑顔を向けてくる彼女。
「あ、ああ……」
 料理の味は確かに抜群だった。そう答えるラウルに、彼女はまるで自分の事のように喜んでみせる。そして改めてラウルに向き直ると、とびきりの笑顔で言ってきた。
「まだ名乗ってもいなかったのよね。私、フェリキアっていうの」
 親方がつけてくれたのだと、彼女は嬉しそうに付け加えた。それは初夏に咲く花の名なのだそうだ。彼女の瞳のように青い、可憐な花。
「あなたの名前を教えてくれる?」
 そう言ってくるフェリキアに、ラウルは渋々名を名乗る。
「ラウルだ。ラウル=エバスト」
 それを聞いた途端、まず双子が驚きの声を上げた。
「お兄さんが、ラウル?!」
「うっそー」
 なんだ?と眉をひそめたラウルの周りで、実は会話に耳をそばだてていたらしい一座の人間たちが口々に言ってくる。
「へぇー、あんたがラウル!なるほどなあ、黒い狼とはよく言ったもんだ」
「聞いた話じゃ、誰彼かまわず喧嘩をけしかけるとんでもないゴロツキだって……」
「死神の使いだなんて言うから、もっとおっかない人かと思ったら、なーんだ、結構いい人っぽいじゃん」
 どうにもひどい言われようだ。いったいどんな噂を聞いたのやら。頭を抱えるラウルに、フェリキアが
「あなたが噂の不良神官さんだったのね」
 と言ってくる。そして、にっこりとこう続けた。
「こんなに優しい人だなんて思わなかったわ」
「優しい?」
 思いがけない言葉に顔をしかめるラウル。
「おいおい、やめてくれよ」
「あらなんで?私を助けてくれたり、こうして落し物を届けてくれたりするのは、優しい人じゃない?」
「……昨日のは成り行きだ。落し物を届けにきたのは仕方なく……」
「でも届けに来てくれたでしょう?」
「仕事サボる口実が欲しかっただけだ」
 苦虫を噛み潰したような顔で答えるラウル。そして、ふと思い出したようにフェリキアの顔をまじまじと見た。
「……顔、大丈夫か」
 大の男に力いっぱい張られたのだ、二、三日は残るだろうと思っていたが、今の彼女の頬はきれいなものだ。
「あの後一生懸命冷やしたし、お化粧でごまかしてるから」
 もう痛くないし大丈夫、と答えるフェリキア。
 と、それまで黙々と自分の分の食事を片付けていたマレインが、ぱんぱんと手を叩いた。
「ほらほら、いつまで喋ってるんだ。とっとと食わないと公演の準備が間に合わんぞ!」
 その言葉に、慌てて食事をかき込む彼ら。双子とフェリキアもそれに倣って昼食を片付ける。すでに大半を食べ終わっていたラウルは、それでもその場の雰囲気に流されて食事を片付け、ごちそうさん、とマレインに食器を返した。
「どうだ、うまかったか?」
 すっかり空になった食器を受け取って尋ねてくるマレイン。
「ああ、久しぶりにうまいもん食った。どこで洗うんだ、これ」
「なんだ、気にするな。後片付けは当番制だからな」
「いや。ただで食わしてもらったんだし、自分の分くらい片付けるさ」
 意外に義理堅いラウルの態度にマレインは目を細める。そして洗い場を教えようと口を開きかけた時、一斉に食べ終わったらしい一座の人間達が
「ごちそうさまー!」
「それじゃ小道具出してくる!」
「その前に客席の掃除だろ?あ、ゆっくりしてきなよ!ラウルさん」
「親方、あとでもう一度大道具の調子見てくださいね」
 などと口々にラウルやマレインに話しかけながら、空の食器をその場に積み上げ、そして慌しく幕から出て行った。
「賑やかだなあ」
 彼らの勢いに圧倒されて、思わず目を丸くしているラウルに、マレインは苦笑を浮かべる。
「元気だけがとりえの連中ばっかりだからな。ま、そうでなきゃこの仕事はやってられんよ」
 さて、とマレインは腰を上げ、天幕の中を見渡した。ほとんどのものは出払い、残っているのは双子とフェリキアだけだ。
「今日の当番はフェリキアだったな」
「ええ。午後の公演は出番ないしね」
 最後の一すくいを口に放り込み、答えるフェリキア。その向かいでは、すでに食べ終わっているレネーが妹をせっついている。
「ユノー、早く食べないと練習する時間なくなっちゃうぞ」
「わかってるよぉ」
「あらあら、急がないでいいわよ。先に洗ってるから、食べ終わったら持ってきて」
 優しくそうユノーに告げて、フェリキアは自分の分の食器をお盆に載せてマレインとラウルのところまでやって来る。
「それじゃ頼むぞフェリキア。終わったら、準備の方はいいから衣装の繕いをやっててくれ」
「ええ、任せて」
 そう言いながら手早く、積み上げられた空の食器を大きなお盆に載せていく。少人数の一座とはいえ、一度に洗うのは大変な仕事だろう。
「それじゃな。おっとラウルさんだったか、もし良かったら次の公演と、時間があるなら夜の公演も見ていってくれや。夜はフェリキアが出るからな」
 そう言ってさっさと天幕を出て行くマレイン。一方のフェリキアは腕まくりをして、食器を山盛りにしたお盆をよいしょ、と持ち上げようとしていた。その手つきがあまりにも危なっかしくて、つい思わず手が出てしまう。
「あら?」
 持ち上げようとしたお盆が急に軽くなって、目を瞬かせるフェリキア。
「どこまで運べばいいんだ」
「裏の井戸までだけど、でも……」
 困惑した表情のフェリキアに、ラウルはそっぽを向く。
「食わしてもらったんだ、洗い物くらい手伝う」
 軽々とお盆を持って歩き出すラウルに、慌ててフェリキアが幕の入り口を上げに走る。そして、
「ありがとう。本当にいい人ね、あなた」
「……言ってろよ」
 照れくさそうに呟いて、ラウルは幕をくぐった。

「……それじゃ、何もかも覚えてないってのか」
 尋ねるラウルに、フェリキアは手際よく針を動かしながら頷いた。
「ええ、そう。名前も、生まれも育ちも、なーんにも」
 そう答える彼女の口調は明るい。
「でも、仕方ないことでしょう?悩んだって記憶が戻ってくるわけでもないし、それならとにかく、今を精一杯生きなきゃ」
 その言葉を聞いたラウルの表情が微妙に変化した事に、フェリキアは小さく首を傾げた。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
 とにかく今を生きる事。それは、かつて養い親がラウルに諭した一言。そしてラウルの信条でもある。その言葉がフェリキアの口から出てきた事に、びっくりした。びっくりしたと同時に、なんだか彼女に親近感を覚えて、こわばっていた表情が和らぐ。
「なぁに?気になるじゃない」
 そう言って笑うフェリキアは、手馴れた手つきで糸の端を結び、余った糸を切った。そして次の繕い物を引っ張り出すと、それに合う色糸を探し出すべく裁縫箱に顔を突っ込むようにして中を漁っている。そんな仕草はまるで少女のようで、男と分かっているのに、つい可愛らしいと思ってしまう。
(……どうかしてるよな、俺。男だぜ、男!)
 自分に言い聞かせるように心の中で呟きながらも、どうしても彼女を「女」として見ている自分がいる事に焦りを感じるラウル。そして、彼の心中など知る由もなく、ようやく探し当てた色糸を針に通すフェリキア。
 二人は、先ほどとは別の小さな天幕の中にいた。衣裳部屋になっているというその天幕の中には色とりどりの衣装やら小道具やらが溢れ返っており、床に敷かれた粗末な絨毯にぺたんと座り込んで針を動かすフェリキアを、少し距離を置いて座ったラウルが物珍しげに見つめている。
 洗い物を終えたらとっとと退散するつもりだったのに、せっかくだから公演を見ていって、と懇願するフェリキアの顔があまりにも一生懸命で、どうにも嫌だと言えなかった。
 結果、時間をつぶすため、フェリキアに付き合ってここにいる。
「だからといって、オカマになる事ないだろうよ」
 怒り出すかなと思いつつ、あえてそんな事を言ってみる。するとフェリキアは、不思議そうに首を傾げてきた。
「なんで?」
「なんでって……だって、男だろ、あんた」
 さすがに年上をお前呼ばわりする気は引けて、それでも名前を呼ぶ事は余計に躊躇われて、そんな呼び方をするラウルに、フェリキアはあっけらかんと答えた。
「確かに体は男だし、記憶を失う前にはちゃんと男として生きてたのかもしれない。でも、今の私は女として生きる事に喜びを覚えてるんだもの。それでいいじゃない?」
「……そんなもんか?」
「そんなものよ。さあ、出来た」
 話しながらも器用に針を動かしていた彼女は、縫い上がったそれをぱん、と広げてみせる。
 それは昨晩、フェリキアが着ていた青い衣装だった。
「これね、今上演している「双子の姫」っていうお芝居の衣装なの。綺麗でしょう?北大陸に実在したお姫様達の物語なんだけど、一つの国の後継者争いと悲恋とが絡み合った、とても感動的なお話なのよ。私はライラってお姫様の役で、もう一人のローラ姫は……」
 衣装を胸に当ててはしゃいでいたフェリキアは、ふと話しかけている相手が妙に静かな事に気づいて口を閉ざした。衣装を傍らに置き、そっとラウルの顔を覗き込む。
「まぁ……」
 少し離れて座っていたラウルは、いつの間にやらその目を閉じて、静かな寝息を立てていた。
「そういえば、あの後も飲んでたっていうし……」
 昨日から今まで一睡もしていないのでは、眠くなって当然だ。腕を組み、体を丸めるようにして舟を漕いでいるラウルはどこか辛そうな表情を浮かべていて、フェリキアは小さくため息をつく。
「そんな格好で寝たら、体痛くなっちゃうわよ」
 とはいえ、この狭い天幕に寝具を持ち込む余裕もない。かといって彼を寝泊り用の天幕まで運ぶ力は彼女にはなかった。
「困ったわね……」
 フェリキアは少し考えた後、意を決して立ち上がった。ラウルの隣に座り込み、その頭をそっと自分の膝の上に引き寄せる。
 起きるかもと一瞬思ったが、よほど眠かったのか、ラウルは少し身じろぎをしただけで、すぐにフェリキアの膝の上で安らかな寝息を立て始める。
「ゆっくり休んでね」
 無防備な寝顔に囁いて、フェリキアは嬉しそうに微笑んだ。

 目を開けた時、まず飛び込んできたのは間近に迫った青い双眸。
「でぇっ……!」
 思わず跳ね起きたラウルに、フェリキアはくすくすと笑いながら、声をかけた。
「おはよう」
「な、なにがおはようだっ……っていうか、ここどこだっ」
 起き抜けで混乱する頭を必死に回転させて、現状を把握しようと試みるラウル。そんな彼を横目に、フェリキアはすっくと立ち上がる。
「良かった、公演前に起きてくれて。あと少ししたら起こそうと思ってたのよ」
(公演前……?そうだ、確か、時間つぶしに……)
 衣装の繕いをするフェリキアの話を聞くうちに、不覚にも眠ってしまったらしい。しかも……
「男に膝枕……男に膝枕……」
 ほぼ初対面に近い相手の前で眠りこける事すら普段のラウルでは考えられないのに、膝枕をしてもらっている事に気づかないだなんて、どうかしている。それも、男に―――!!
 自分への怒り、そして気まずさと気恥ずかしさに頭を抱えるラウル。それを面白そうに見つめながら、だって、とフェリキアは続ける。
「気持ちよさそうに寝てたから、起こすの忍びなくって」
「起こせっ!っていうか、膝枕すんなっ」
「あら、嬉しそうだったわよ?」
「嬉しいかっ!!」
 そう怒鳴ったラウルは、ふと衣装をかき集めているフェリキアの足元がふらふらしている事に気づいて、すっと怒りを引っ込めた。
「……どのくらい寝てたんだ?」
 二日酔いで重かった頭はすっきりしているし、体も大分楽になっている。ちょっと居眠りした程度ではあるまい。
「四刻と少し、かしら?」
 平然と言ってのけるフェリキアに、ラウルは唖然とした。
「午後の公演は?」
「とっくに終わって、もうすぐ夜の公演が始まるわよ。さっきまでここでみんな着替えてたけど、結構うるさかったのに全然起きないんだもの」
 よほど眠かったのね、と言いながら髪を解いているフェリキアに、ラウルはこわばった表情で尋ねた。
「……四刻も、ずっと膝枕してたのかよ」
「嫌だったなら謝るわ。でも……」
 少し悲しげに言うフェリキアの言葉を遮って、ラウルは言う。
「足、しびれてるだろ」
「え?ああ、ちょっとね。でも大丈夫よ」
 そんな長い間人の頭を膝に乗せていれば、しびれて当たり前だ。それなのに、これから公演だという彼女は、大丈夫と笑っている。
「悪い……」
 感謝すべきところを、つい怒鳴りつけてしまった。ばつの悪そうな顔をするラウルに、フェリキアはいやね、と手を振る。
「なんで謝るの?私がしてあげたかったからやっただけよ。それに本当に大丈夫だから気にしないでったら。分かったらほら、早く客席に行ってちょうだい」
 そう言って、立ち上がったラウルの背中を押す。突然どうしたんだ、と慌てるラウルに、フェリキアは恥ずかしそうに答えた。
「着替えるの!あなたがいたら着替えられないでしょ?」
「な……分かったよ」
 男のくせに何を、と言いかけたがやめた。彼女は女だ。体は男だが、心が女なのだと言うなら、女扱いするのが賢い付き合い方だろう。
 そう考えて、はたと気づく。
(ん?付き合い方?おいおい、なに考えてるんだ、公演見たらとっとと帰って、二度とここにくるもんか)
 落とせない相手と分かっている以上、これ以上仲良くする必要もない。そして相手は旅芸人。長くこの地にとどまる人間ではないのだから、ラウルがここに二度と顔を出さず、彼らが首都を去れば、あっけなく切れてしまう縁だ。あと数刻で、恐らくは永遠に―――。
「一番前で見ていてね」
 そんなラウルの心中など知る由もなく、フェリキアはそう言ってラウルを天幕から追い出し、その入り口をぴったりと閉めてしまった。やれやれ、と肩をすくめるラウルの背中に、賑やかな声がかかる。
「お兄さーん」
「いたいたー」
 色鮮やかな衣装に着替えた双子が駆けてくる。双子の後ろに広がった空は、夕焼けと夜の交じり合ったえも言われぬ色合いに染まっていた。
「起きたんだ、良かったあ」
「一番前の席、埋まっちゃうよ」
「ほら、はやくぅ」
 ラウルの手を取って走り出す双子。すでに天幕入り口には客が詰め掛けている。なるほど、評判の一座というのは間違いではないようだ。
「お、おい、引っ張るなってば」
 そう文句をつけつつ、ラウルは小さな子供達を蹴飛ばさないよう慎重に走り出した。

 マレイン一座の興行は、評判通りなかなかのものだった。
 まずは双子の軽業で人々の目を釘付けにし、座長が面白おかしく口上を述べる。その後に出てきたのは手品師の男性で、何も無いところから花を取り出したり、客に選ばせた札の種類を言い当てたりと、優雅な動作と独特の言い回しで観客を沸かせていた。次にやってきたのはなんと猛獣使いの少女で、その猛獣と言うのがなんとも可愛らしい豹の子供だったものだから、二重に驚かされた。その豹が少女とともに軽々と火の輪潜りや玉乗りをこなして見せた後は道化師の出番だ。滑稽な動きで観客をたっぷりと笑わせた道化師が引っ込むと、一転してしっとりとした小芝居が始まる。役者はたったの四人、舞台装置も貧相なものではあったが、絶妙な台詞のやり取りや動作の優美さ、そして何よりフェリキア演じるひたむきな姫ライラの美しさと儚さに、客席はすっかり魅了されていた。
 最後に一座全員が舞台に上がり、賑やかな歌と踊りで公演を締めくくる。客席からの拍手は、いつまでも鳴り止まなかった。
「ありがとうございました!」
「今月いっぱいはこちらで興行を行っております」
「またおいで下さいませ!」
 興奮冷めやらぬ様子の観客達を一座揃って笑顔で見送る中、最後尾で手を振っていたフェリキアが、最後の方に出てきたラウルを目ざとく見つけて顔をほころばせた。
「いたいた!」
 その声に気づき、足早に立ち去ろうとした彼の腕をしっかと握り締める。
「見てくれてありがとう。どうだった、私のお芝居?」
 頬は火照り、額には汗が光っている。さっき繕っていた青い衣装は夜目にも鮮やかで、彼女によく似合っていた。
「……ああ、いい芝居だった」
 素直に観想を言ってやると、フェリキアはそれは嬉しそうに瞳を輝かせた。
「ありがとう、ラウルちゃん!」
 その呼び方にラウルの顔が思いっきり歪んだが、そんな事にはお構いなしにフェリキアはラウルの手を離さぬまま、ちょうど近くにいた座長へと声をかける。
「ねえ親方!ラウルちゃんが褒めてくれたのよ」
「おお、そりゃ良かったな。さあて、片付けを始めるとするか。急げよ。今日は満員御礼だったからな、この後どこかでぱぁっと飲もうじゃないか!」
 座長の一言に、周囲が沸く。フェリキアも喜びの声を上げて、そして一言付け加えた。
「ラウルちゃんもいらっしゃいよ!ねえ親方、いいでしょう?」
「え?」
「ああ、構わないさ。ちょうどいい、いい店を教えてくれ。お前さんなら知ってるだろう?」
「おい!ちょっと待て」
「駄目?」
 上目遣いに見上げてくるフェリキア。その瞳に見つめられると、どうしても嫌とは言えなかった。
「……分かったよ」
 盛大にため息をついて、そう答える。彼女は嬉しそうに歓声を上げると、早く着替えなきゃ、と天幕へ走って行った。
「……ったく……」
 なぜ、彼女にこうも振り回されているのだろう。ラウルは頭を抱えながらも、なぜか心のどこかでこの状況を楽しんでいる事に気づいて、小さく苦笑を漏らした。
(ま、いいか。どうせ暇なんだしな)
 ここのところしばらく、面白い出来事がなかった。気晴らしに、この連中にちょっと付き合ってみるのもいいだろう。
 そう。決して、フェリキアが気に入ったからではない。この物珍しい一座を気に入っただけなんだ。
 そう思う事にして、周りを見渡す。大道具を運び出したり楽器をしまい込んだりと忙しそうな団員達。人数が少ないから後片付けも一苦労だ。一人何もしていない自分が浮いて見える。
「俺ってば、ほんとお人よしだよなあ」
 そう呟きながらマレインの元に向かうラウル。手伝える事はあるか、と尋ねてくる黒髪の青年に、マレインはにやりと笑って遠慮なく仕事を言いつけると、最後にこう付け足した。
「お前さん、さては惚れたな?」
「そんな訳あるかよ!」
 怒ったように答えるラウルに、親方はさも楽しそうに笑ってみせた。


 朝日に照らされた神殿が目に眩しい。
 物憂げに手で日光を遮り、目の前にそびえる建物を忌々しげにねめつける。
 そんな青年の姿を見咎めて、門番達が一瞬身構える。しかし、すぐに警戒を解いて、代わりに呆れたような表情を浮かべた。
 こんな早朝にユーク本神殿へ戻ってくる者など滅多にいない。まして、こうも悪目立ちしている人間など、本神殿広しと言えど一人しかいない。ラウル=エバスト正神官。又の名を「神殿長のどら息子」である。
「……なんで白い建物なんか建てたんだ……闇の神なら黒だろ、黒」
 そんな事をぐちぐちと呟いているラウル。その道理で行くと、炎の女神を祭る神殿は真っ赤に染めなければならなくなるのだろうか。まあ、二日酔いの頭からひねり出される屁理屈にいちいち口を挟んでも詮ない事だ。すっかり顔馴染みの門番はそう思い、いつもの言葉を口にした。
「また朝帰りか。いいご身分だな」
「おかげさまでね」
あっさりと言葉を返し、門番の横をすり抜けてスタスタと歩いていくラウル。門番達はやれやれ、と肩をすくめ、仕事へと戻っていった。

 固く閉ざされた正面玄関を迂回し、脇にある勝手口から中へと入る。がらんとした神殿内を、自室のある棟へと歩いていると、廊下の向こうで待ち構えている人影が目に入った。
「……二日も神殿を空けた挙句に朝帰りとは、いい度胸だな。エバスト神官」
 押し殺したような声が薄暗い廊下に響く。
 目を凝らすと、見慣れた顔ぶれがそこに並んでいた。どの顔も渋面を浮かべ、一様にラウルを睨みつけている。
「お褒めに預かり光栄です、ドゥルガー副神殿長」
 馬鹿丁寧にそう答えながら、ラウルは内心舌打ちをする。
(よりにもよってこいつがお出迎えかよ……)
 神殿において、恐らく一番に彼を嫌っている人物。それがこの副神殿長だ。神殿内でもっとも規則と規律を重んじる人物で、それ故にラウルのようなはみ出し者には極めて厳しい。後ろにぞろぞろくっついているのは彼の取り巻きで、やはりラウルの事を毛嫌いしている連中が揃っている。
(わざわざ待ち構えてるだなんて、暇人だよなあ)
「その髪はなんだ」
 不意にそんな事を言ってくる副神殿長に、ラウルは一瞬目を瞬かせ、そして後ろにたらした髪を引き寄せて顔をしかめる。
「なんだよ、これ……」
 いつもはただ適当に結わえている髪が、いつの間にやら三つ編みになっている。しかも赤い飾り帯つきだ。その犯人の目星はすぐについた。
(あいつか……!)
 フェリキアだ。恐らくは不覚にも彼女の膝の上で眠りこけていた間にやられたのだろう。普段から髪になど気を払っていないから、今の今まで気づかなかった。
 忌々しげに飾り帯をひっぱり、三つ編みを解くラウルに、副神殿長は言ってくる。
「ラウル=エバスト神官。貴様は神殿の規律というものを未だに理解しておらぬようだな」
「はあ。何分、若輩者ですから」
 しれっと答える彼に、取り巻き達が何を、と色めき立つ。それを片手で制して、副神殿長は淡々と続けた。
「昨日より、神殿長が公務で留守にされているのは知っておろうな?」
「……そうだったな」
 しまった、と口の中で呟くラウル。養父である神殿長がいない。それはこれから起こる事を意味していた。
「規律を乱した者は罰せられる。そうだな?」
 含みのある台詞に、ラウルは口の端を引き上げて笑ってみせた。
「……ああ、そういう事になるだろうな。しかも、それを咎めるくそじじいもいない。まさに、あんたのやりたい放題って訳だ」
「なっ……!!」
「貴様、口の利き方に気をつけろ!」
 いきり立つ取り巻き達をせせら笑って、ラウルはくるりと踵を返す。
「懲罰房に行けってんだろ?分かってるさ。お手柔らかに頼むぜ」
 スタスタと歩き出すラウルの背中を、副神殿長は深い憎悪のこもった瞳で睨みつけた。


「そこの金髪のお兄さん!」
 人込みの中で呼び止められて、リゲルは一瞬遅れて足を止めた。声に聞き覚えがなかったから、それが自分を呼ぶ声である事にすぐには気づかなかったのだ。
 どこから呼ばれたのかと辺りを見回すと、少し離れたところから彼に駆け寄ってくる人物が目に入った。
「ああ、良かった。あなた、この間ラウルちゃんと一緒にいた人よね」
 息を切らして駆け寄ってきたその姿に、一瞬息を呑む。
「あんた、この間の……」
 淡い金髪に青い瞳。それは紛れもなく、三日ほど前にラウルが助けた「彼女」だった。
 昼下がりの中央広場。からくり時計の下で再開したその姿は、変わらず美しかった。とてもではないが男には見えない。
「ごめんなさい、ちょっと聞きたい事があって」
「あ、ああ。なに?」
 相手が男と分かっているだけに、どうにもぎこちない態度になってしまうリゲル。そんな様子にはお構いなしに、彼女は話しかけてくる。
「三日くらい前にね、ラウルちゃんが私の落し物を届けに来てくれたの。その後、一座の興行を見ていってくれて、一座のみんなと明け方近くまで飲んだんだけど」
「へぇ……」
 意外そうな顔をするリゲル。
(なんだかんだ言って、やっぱり届けに行ったのか、あいつ)
 さすがはお人よし、と本人が聞いたら嫌がるだろう賞賛を心の中で送りつつ、まだ続いている彼女の言葉に耳を傾ける。
「……それでね。その時ラウルちゃんがこれを落としていったから、次の日にユーク神殿まで届けに行ったの。でも、面会は禁止されているって追い返されちゃって……。どうして会わせてくれないのか、あなた達なら知っているかと思って、探してたの」
 そう言って彼女が見せたのは、ラウルが愛用している小刀だった。それを落としていった事自体がラウルにしては珍しい事だ。よほど酔っていたのか、それとも彼女に気を許していたのか。
(いや……だって男だもんな、気を許すも何もないよな……)
 そう思いつつ、リゲルは不安そうな顔をする彼女を見て、慌てて答えた。
「ああ、それなら多分、謹慎中なんだと思うよ。よくあるんだ。ユーク神殿は規律が厳しいのに、あいつはそれを破りまくってるから」
 その言葉に、彼女は目を見開いた。そして、
「……私が、一緒に飲みましょうなんて誘ったからいけないんだわ」
 今にも涙ぐみそうな彼女の様子に、慌てふためくリゲル。
「いや、そんな事は……。それにこんなことしょっちゅうだし、あいつも慣れてるから心配しなくても」
「そういうわけには行かないわ。教えてくれてありがとう、えっと……」
「リゲルだよ」
「私はフェリキアよ。ありがとうリゲル。私、行ってくるわ」
「え、ちょ、どこ行くんだよ?!」
「ユーク神殿よ。私が悪いんですって言いに行くの。だってラウルちゃんは何にも悪くないのに、謹慎処分だなんておかしいわ」
「いや、それは……」
 何も悪くない、というには多分に語弊があるだろう、と言おうとした時には、すでに彼女の姿は小さくなっていた。見かけによらず俊足である。
「……ま、追い返されるのがオチだよなあ」
 二度も追い返されれば彼女も諦めるだろう。あとは、そうだ。ラウルの謹慎が解けて街に現れるようになったら、彼女に会った事、そして小刀は彼女が持っている事を教えてやればいい。
「ん?そういえば……」
 ふと先ほどのフェリキアの台詞を思い出して、リゲルはこみ上げてくる笑いを必死に押し殺した。
(あのラウルをちゃんづけ出来る奴がいるだなんて……!!こりゃ傑作だ)
 ジェットに会ったら教えてやろう、とにやにやしつつ、リゲルは遅い昼食を取りに、再び中央広場を歩き出した。


 足音が聞こえて、ラウルは顔を上げる。途端に背中に痛みが走ったが、そんな事はまったく顔に出さずにやってきた人物を見上げた。
「よぉ、くそじじい。早かったじゃねえか。公務とやらは終わったのかよ」
 楽しげですらあるその口調に、やってきた人物は肩をすくめる。
「昨日の晩に帰ってきたばかりだ……まったく、懲りない奴だな」
 呆れた顔で格子の中を覗き込んでいる人物の胸には、最高司祭である事を示す首飾り。それは即ち、このユーク本神殿の長である事を意味している。誰からも敬われる存在であるはずの彼に対し、ラウルの口調は余りにもぞんざいだ。本来なら不敬とされる口の利き方も、彼にだけはそれが許されていた。なぜなら、彼らは義理とはいえ親子であったから。
「あいにく、学習能力って奴に乏しいもんでね」
 ユーク本神殿長ダリス=エバストは、相変わらずな息子の態度に苦笑を浮かべる。
「またドゥルガーにこってり絞られたぞ。息子さんの躾を間違えられましたな、とかなんとか……」
「生憎と、俺はあんたに躾けられた覚えはないんだが」
 八つで彼に引き取られて早十年と少し。その間に一般知識や神官としての教育は受けてきたが、この養父が口うるさく言った事といえばせいぜい食事の作法くらいで、あとはほとんど野放しにされていた。それを無責任と言うつもりはない。むしろ余計な干渉をしないでくれていた事は有り難かった。
「ああ、私もお前を躾けた記憶はない。そんな事をして、お前が素直に態度を改めるとは到底思えなかったしな。となればいくら躾けたところで時間の無駄だ」
 あっさりと返す神殿長。流石はラウルの親だ。いい性格をしている。
「しかし、子供の不始末は親の責任というのが世間の常識となっていてな」
「子供って、俺はもう二十歳超えてるんだぞ?」
「ああ、私も常々そう言ってるんだが、どうもあの連中には聞こえないらしい。ともあれ、お前もいい加減、人の神経を逆なでするような事はやめたらどうだ?適当にあしらう事くらい、お前なら簡単だろうが」
 言っても無駄だと知りつつ、彼は諭す。その気になれば、ラウルはいくらでも完璧な猫を被れる事を、勿論養父である彼は知っている。あえてそれをしないでいる事も。
「あんな陰気くさい連中の機嫌を取るだなんてごめんだね」
 予想通りの答えにやれやれ、と呟いて、神殿長は鍵を服の隠しから取り出した。
「なんだ、もう出ていいのか?」
 いつもなら、大体十日ほどはここで反省を強いられる。ところが、あれからまだ六日しか経っていない。そんなラウルの言葉に、神殿長はああ、と頷いた。
「お前を訪ねてきた人間がいる。とっとと出て、会ってやれ」
「俺を?」
 思い当たる人間がいないラウルに、養い親はにやり、と人の悪い笑みを浮かべて答える。
「ちらと見ただけだが、大層な別嬪さんだ。どこでひっかけてきたかは知らんが、随分と趣味がよくなったじゃないか、小僧」
 その言葉ですぐに思い当たった。途端に顔をしかめるラウル。
「げっ……あいつか?!なんでまた……」
 そんな様子に神殿長は意外そうな瞳を向け、そして付け加えた。
「さっき聞いた話では、三日前から来ているそうだ。追い返されてもめげずに訪ねて来るもので、見かねた門番がこっそりと私のところに注進に来たくらいだからな」
 神殿長が留守の間は、神殿内の取り仕切りはすべて副神殿長ドゥルガーに委ねられている。そして彼からラウルへの面会人はすべて追い返せと厳に命じられた門番達は、何度追い返してもやってくる美人にすっかり心打たれたらしい。
「ほら、美人を待たせては失礼に当たるぞ。とっとと行かんか」
 扉を開けてそう言ってくる養い親に、ラウルは怒ったような顔で扉をくぐった。体を屈めた際にその顔を小さく歪ませた事に、神殿長は気づかないふりをする。
「ったく……何しに来やがったんだ……」
 などとブツブツ呟きながら足早にその場を去っていくラウル。その後姿を、神殿長は深いため息と共に見つめていた。

「ラウルちゃんっ!!」
 飛びついてきたフェリキアに、一瞬息が詰まりそうになって、ラウルは慌ててその体を引き剥がす。
「やめろよっ、人が見てんだろ!」
 ユーク本神殿の正門前。やってきたラウルに抱きついたフェリキアは、彼の抗議に辺りを見回す。そしてすぐ傍で目を丸くしている門番達に気づいて、ぱっと顔を赤らめた。
「あら、いやだ」
「『あら、いやだ』じゃねえ。何しに来たんだ」
 怒ったように尋ねて来るラウルに、フェリキアは、いっけない、と足元を見回す。ラウルの姿が目に入った瞬間、思わず地面に放り出していた籠を拾い上げ、そこから布の包みを取り出した。
「これ、この間忘れていったでしょう?」
「あ?ああ……そうか、あんたが持っててくれたのか」
 布を解くと、そこから見慣れた小刀が出てきた。てっきり、懲罰房に入れられた際に取り上げられたのだと思っていた。
「ありがとな」
 一応きちんと礼を言って、腰紐に小刀を差す。馴染んだ重さが心地良い。
「あとね、お昼ご飯作ってきたの。もし良かったら一緒に食べない?」
 籠の中を示してそう言ってくるフェリキア。明るい口調に反し、その顔はどこか泣き出しそうに見えて、ラウルは渋々頷いた。何があったか知らないが、ここで泣かれでもしたら門番達に何を言われるか分かったものではない。
「来いよ」
 そう言ってくるりと踵を返すラウルを、フェリキアが慌てて追いかける。慌てたのは門番達も同じで、
「おい小僧、どこへ行くんだ?」
「神殿内に入れるつもりか?部外者を入れちゃならんと……」
「うっせぇよ。こいつは参拝者だ、中を案内する。それのどこが悪い?」
 そう言われてぐっと押し黙る門番達。その脇を、ラウルはしらっとした顔で通り抜ける。その後に続くフェリキアは申し訳なさそうな顔で門番達にぺこり、と頭を下げ、そしてラウルの後を追いかけていった。
「ちょっと待ってよ、ラウルちゃんったら!」
「だから、その呼び方はやめろっ!」

 墓地にほど近い裏庭には、穏やかな日差しが降り注いでいた。
 石造りの椅子が一つと、昔のお偉い方が植えたという一本の木があるだけの小さな庭。聞こえるのは小鳥のさえずりだけ。滅多に人の訪れないここは、ラウルにとって格好の昼寝場所だった。
 椅子に腰掛けて、フェリキアは籠の中から手作りの昼食を取り出しながら、初めて見るラウルの神官衣姿に、
「そういう格好してると、神官さんらしく見えるわね」
 と素直な感想を述べる。
「……悪かったな」
「あら、褒めてるのに。……はい、召し上がれ」
 たっぷり具を詰め込んだパンを差し出すフェリキア。それを受け取ろうと手を伸ばしたラウルは、彼女が思いつめたような顔をしている事に気づき、眉をひそめた。さっきは泣きそうに見えたし、ここに来る道すがらもずっと俯いて、一言も喋らなかった。何かあったのだろうか。
「……どうしたんだよ?」
 尋ねるラウルに、フェリキアは俯いて呟く。
「ごめんなさい、私のせいで……」
「あ?なんだよそれ」
「リゲル君に聞いたのよ。あなたが謹慎を受けてるって事。神殿の規律は厳しいんでしょう?夜遊びなんかいけないのよね。それなのに、あの時強引に引っ張って行っちゃって……」
「あんたが気にする事じゃない。こんなのいつもの事だ」
 そう言いながら彼女の手からパンを受け取り、がぶりと食らいつくラウル。それでもフェリキアは首を横に振る。
「本当に、ごめんなさい……」
「だから、謝るなよ。あんたのせいじゃない。大体、あんたがいくら誘ったって俺が乗らなきゃ済んだ事だろ。それを、何であんたが気に病む」
 たかが行きずりの人間に、こうも心を砕く理由が分からなくて、ラウルは心底不思議そうにフェリキアを見る。そのフェリキアは、怒ったように答えた。
「当たり前じゃないの。ラウルちゃんは私にとって大切な人ですもの」
 思いがけない言葉に、ラウルは思わず食べかけのパンを取り落としていた。挟まれていた卵やら肉やらが黒い神官衣の上に盛大にこぼれたが、気にも留めずにフェリキアをまじまじと見つめて呟く。
「大切な人、だぁ?」
 たかだか一日ちょっとの付き合いでしかない人間を『大切な人』と呼んだフェリキア。その彼女はラウルの呟きには取り合わず、「もうなにやってるの!」と慌てふためいて服を拭いていたが、どうにも取れない卵や肉汁の染みに嘆息し、こう命じた。
「脱いで」
「はぁ?」
「いいから脱いで!早く洗わないと染みになっちゃうわよ。ほらっ」
 そういうが早いか、上着の合わせに取り付いて脱がしにかかる。
「っわ、やめろよ!あとで洗濯するからいいって、い……!」
 フェリキアの手から逃れようと身をよじった途端に、鈍い痛みが背中に走る。
 堪えようとしたが遅く、小さな呻き声が口から漏れた。途端にフェリキアが眉をひそめる。
「ラウルちゃん?」
「……だから、やめろって……」
 どこか辛そうな声。フェリキアはハッと顔をこわばらせ、きゅっと唇を結んで再びラウルの上着を引っ張った。
「おい!」
「いいから!」
 その剣幕に、ラウルは短く嘆息して降参、と手を挙げる。
「……分かったから手ぇ離せ。脱ぎゃいいんだろ」
 そう言ってラウルは腰紐を解き、ゆっくりとした動作で上着を脱ぎ捨てた。そして日の下に晒されたその素肌に、フェリキアが息を呑む。
「……ラウルちゃん……どうしたのよ、その傷!!」
 ほどよく筋肉のついた細身の体。その背中に、まだ血の色も生々しい裂傷が走っていた。
「ねえ、なんでこんな怪我してるの?!早く手当てしなきゃっ……」
「大したことねぇよ。あんまり騒ぐな」
 ラウルはそう言うが、とてもではないが「大したことない」傷には見えない。何故彼がそんな怪我を負っているのか。その訳を察して、フェリキアが青ざめる。
「謹慎だなんて、そんな生易しいものじゃなかったのね……こんな……こんな……」
 透き通る青い双眸から、透明な涙が溢れ出した。
「私のせいで、こんな酷い……」
「おい、泣くなよ……」
 とめどなく滴り落ちる涙を拭う事もせずに、フェリキアは泣いている。化粧が落ちるのも構わず、子供のように泣きじゃくる彼女に、困惑した表情で立ち尽くすラウル。
 泣かれるのは苦手だ。どうしていいか分からなくなる。
「あんたが痛いわけじゃないだろ。泣いてどうなるわけでなし、どうして泣くんだ」
 人のために何故泣けるのか、ラウルには分からない。彼自身、誰かのために涙を流した事などなかったから。
 それでも、彼女の流す涙は限りなく透明で、まるで宝石のように輝いていて。心底、綺麗だと思った。触れてみたいとさえ感じた。
(……不思議だ……)
 女の涙など珍しいものではないのに、彼女のそれはまるで媚薬のように、ラウルの心に染み込んでいく。
 そして、ふと見上げてきた瞳。澄んだ泉のような濡れた瞳が、とどめとばかりにラウルの胸を打つ。
 ほとんど無意識のままに、ラウルは手を伸ばしていた。
 淡く輝くその頭をぐい、と引き寄せ、腕の中に抱きしめる。些か乱暴な抱擁に彼女は一瞬身を固くしたが、そのまま何も言わずラウルの胸板に顔を押し付けて、そして泣いた。
 その耳元で、宥めるようにラウルは囁く。
「あんたのせいじゃない。だから泣くな」
「……でも……」
「これは俺と神殿との問題だ……もう気にすんな。それに、それ以上泣くと顔が腫れるぞ」
 優しく耳に響くラウルの言葉。フェリキアはしゃくりあげながらも頷き、もう少しだけ涙を零して、そっと体を離した。
「……ごめんなさ……」
「あっちに水場があるから、洗ってきてくれよ」
 謝罪の言葉を遮ってそう言うと同時に、染みのついた上着を放り投げてやる。受け取り損ねて頭から被ってしまったフェリキアは思わず悲鳴を上げて、そしてようやく笑顔を見せた。
「急に投げないでよっ」
「ついでに顔も洗って来いよ。そんな腫れぼったい目の女優なんて目も当てられないぜ」
「もうっ……やな人ね」
 怒ってみせながら、フェリキアはラウルの上着を抱えて水場へと走っていった。
 静かになった裏庭で、ラウルは背中の痛みに顔をしかめつつ、まだたくさん残っているパンに手を伸ばす。懲罰房では食事もろくに出ないのだ。久しぶりに食べる心づくしの昼食は、この上なく美味に感じた。
 ラウルが籠の中身を半分以上平らげた頃になって、ようやくフェリキアが戻ってきた。しかも、手には洗った上着だけではなく、救急箱のようなものを抱えている。
「どっから持ってきた、それ」
 思わず尋ねると、フェリキアは事もなげに
「通りかかった神官さんに頼んで、貸してもらったの。ほら、背中見せて。ちゃんと手当てしなきゃ」
 と答えながら、せっせと救急箱から消毒液だの包帯だのを取り出していく。
(通りかかった神官だぁ?)
 こんなところをうろついている神官など、そういないはずなのだが。そんな事を考えていたラウルは、突如背中に走った激痛に悲鳴を上げた。
「な、なにすんだっ!」
「なにって消毒よ。ほら、動かないで」
 問答無用で傷の消毒をし、ぎこちない手つきで包帯を巻いていくフェリキア。最後の仕上げとばかりに背中をぽんぽん、と叩いたものだから、再びラウルは叫び声を上げそうになった。
「て、てめぇ……!」
「あら、ごめんなさい。つい」
「ついじゃねぇ!ったく……」
 文句をたれつつ、籠をぐい、とフェリキアに押し付ける。
「……うまかった」
「あら本当?良かったぁ」
 嬉しそうに答えた彼女は、さっきまで泣いていたのが嘘のように明るい笑顔を浮かべていた。それは穏やかな、透き通るような微笑み。そう、まるで、そのまま光の中に融けていってしまいそうな―――。
「フェリキア?」
 唐突に呼びかけてくるラウルに、彼女はどうしたの?と首を傾げる。そしてぱっと顔を輝かせた。
「初めて名前を呼んでくれたわね」
「そうだったか?」
 照れくさそうに頬をかくラウル。
「そうよ。で、なあに?ラウルちゃん」
「だからその呼び方はよせって……。その……さっきの話だ。なんで俺があんたの、その、大切な人なんだ?」
 まさか、今にも消えてしまいそうに見えた、などと言える訳がなく、慌ててそんな事を口にする。するとフェリキアは、意外な答えをくれた。
「だって、私が男だって知ってからも態度を変えないでいてくれたの、ラウルちゃんだけなんですもの……」
 彼女の顔が翳る。それは、風に揺れる梢の淡い影のせいだけではなかった。
「大抵の人は私が男だって知った途端に態度を翻すのよ。それまで綺麗だとか愛してるだとか言ってくれた人が、騙されたとか、このオカマ野郎だとか言うんだもの。だからラウルちゃんが、私が男だって知った後も優しくしてくれた事が、とっても嬉しかった」
「優しくなんて……」
「優しいじゃない。わざわざ襟留めを届けてくれたし、その後強引に引き止めたのに怒らなかったし、打ち上げまで付き合ってくれて。それにね」
 フェリキアは不意に言葉を切って、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「最初に会った時ね。突然現れて助けてくれたあなたのこと、一目で好きになってたのよ」
 気負わず、飾らず、どこまでも自然に彼女は「好き」という言葉を口にした。
 面食らった顔のラウルに、フェリキアは続ける。
「だからあの時、迷惑だって分かっててもつい、引き止めちゃったの……ごめんなさい。私、あなたの恋人になりたいわけじゃないわ。ただ、親しくなりたかっただけ。でも、もう無理よね。男から好きって言われても嬉しくないでしょうし」
 それじゃ、もう行くわね、とそう告げて、フェリキアは籠を手にくるりと踵を返した。 スタスタと歩き出すその背中が、初めて会った時のあの背中に重なる。
 悲しみを堪え、毅然とした顔で去っていった彼女。
 その気高さ、芯の強さは、まさに凛と咲く一輪の花。風に煽られ、嵐に弄られてもなお、太陽を仰いで咲き誇る、青い花。
「なあ」
 ラウルの声に、フェリキアは驚いたように振り返った。呼び止められるとは思っていなかったのだろう、目を丸くする彼女に、何気なさを装って尋ねる。
「いつまでこの街で興行を続けるんだ?」
「月末までよ。それが終わったら、今度は東大陸に行くの」
 となると、あと十日ほどはラルスディーンに滞在する事になるわけだ。
(十日、か……)
 それが過ぎたら、恐らくは二度と会う事はあるまい。彼らは旅芸人。風の吹くまま、気の向くままに世界中を旅して回る者達だ。
(たった十日間だけなら……)
 終わりの見えている出会いなら。たった十日間だけ、この花に惑わされてみようか。気高く美しい花。初夏に咲くフェリキアという名の青い花に―――。
「今夜、空いてるか?」
「え?ええ、夜の公演が終わったらあとは自由時間だけど……」
「なら、夕飯を一緒にどうだ?昼食のお礼さ。あとは明日でも、明後日でもいい。暇な時間があったらこの街を案内してやるよ」
 ラウルの言葉に、フェリキアの顔がぱぁ、と輝く。
「ラウルちゃん……!」
「ったく、参ったぜ。どうやら、俺も結構あんたのことが気に入ってるらしい」
 観念したようにそう告げるラウルに、フェリキアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。大好きよ、ラウルちゃん!」
「だから、その呼び方はやめろって……」
 目の前で無邪気に喜ぶ彼女に、そうそう、と付け加える。
「言っとくけど、夜のお付き合いだけはなしだからな」
「当たり前でしょ!」
 顔を赤らめて背中を叩いてくるフェリキアに、ラウルは軽快な笑い声を上げた。傷の上を叩かれて結構痛かったが、それよりも限られた時間をどう過ごそうか、そんな楽しい考え事で頭がいっぱいだった。


 そして。
 その限られた時間は、十日を待たずに幕切れとなる。


「お花はいかがですかぁ〜」
 街角に立つ花売りの声に、ふと気が向いて足を止めた。見ればすでに先客がいて、少女から青い花を受け取っている。その鮮やかな色合いに惹かれて、ラウルはふらり、と少女の前に立った。
「よぉ、お嬢ちゃん」
「はい、どのお花が……って、なぁんだ。ラウルじゃない」
 声をかけてきた相手が知り合いだと分かった途端、営業用の笑顔が引っ込む。そのあからさまな表情の変化に苦笑しつつ、ラウルは少女の手にした花籠を覗き込んだ。
「あれ、なんだ。さっきの青い花、あれで売り切れか?」
「何よ、どうせ冷やかしでしょお?女の人に花の一本も買っていった事ないくせに」
 年の割にしっかりした口を利く少女に、何だと、と怒ってみせるが、顔は笑っている。こまっしゃくれた口を利くこの少女は、いつもこんな調子でラウルをからかうのだ。
「なあ、さっきの花の名前、なんていうんだ?」
 もしかして、と思いつつ尋ねたラウルに、少女はあっさりと答えをくれた。
「フェリキアよ」
「そっか、やっぱりあれが……」
 遠目で見ただけだったが、その青い花びらはまさに彼女の目の色と同じ、少し切なげな青だった。
 なるほど、と納得しているラウルを少女は怪訝な顔で見上げていたが、すぐにこう付け加える。
「見ての通り、もう売り切れよ。青い花ってあんまりないからすぐ売れちゃうのよね。なに?欲しかったの?どういう風の吹き回しよ」
「客に対してなんて口利くんだ、お前さんは……。ないならいいさ。ちょっと気になっただけだ」
 じゃあな、と手を振って歩き出そうとするラウルに、少女はちょっとだけ逡巡してからこう言った。
「ソレーデスの丘」
「へ?」
「南東の斜面。私だけが知ってる穴場なんだからね」
 誰かに知られたらお飯の食い上げだわ、と呟く少女の頭をぽん、と軽く叩いて、ラウルは笑ってみせる。
「ありがとな。もっと大きくなったら付き合おうぜ、エルダ」
「その頃にはあんたなんかおじさんになってるわよ!ほら、商売の邪魔なんだから、どいたどいた!」
 そう言ってラウルの手を払いのけて、少女は再び道行く人へと声をかける。
 そしてラウルは、小さくも逞しい商売人が教えてくれたラルスディーン郊外の丘へと歩き出していた。ここからなら、半刻もしないで行って帰ってこれる場所だ。約束の時間にはまだ余裕がある事だし、暇つぶしにはちょうどいい。
 それに。あの青い花、フェリキアの花を摘んでいったら、きっと彼女は喜ぶに違いない。
 そんな事を考えた次の瞬間、はっと我に返る。
(うわ、柄でもねえ……)
 どうも、彼女の純真さにすっかり感化されてしまっているようだ。どうにも調子が狂って仕方がない。
 あれから五日。一座の連中とも仲良くなり、一座の天幕に入り浸るようになった。空いた時間はフェリキアとどこかへ出かけたり、一緒に食事をしたり、他愛もない話をして過ごした。
 いつもの彼ならこんな健全な「お付き合い」など、まだるっこしいと一蹴するはずなのに、なぜか彼女と過ごす穏やかな一時は心地よくて、それを心待ちにさえしている自分がここにいる。
 今まで数多くの人間と付き合ってきたが、これほどまでに気楽に、それでいて適度な緊張感を保てる人間はいなかった。
 それは、最初から終わりが見えていたから。そして、越えられない一線をお互い知っていたから。
 だからこそ、余計な感情抜きで傍にいる事が出来たのだ。それが、あの気楽さと楽しさだったのだと、後のラウルはそう解釈する。
 しかし今はただ、不思議に楽しいこの関係に戸惑いつつも、それを受け入れている自分がおかしくて、うっかりすると訳もなく口元が緩みそうになるのを抑えるのに必死だった。
 ―――と。
「おいラウル」
「どわっ……ってなんだ、ジェットか」
 突如目の前に現れた赤い髪に、ラウルは慌てて足を止めた。よぉ、と片手を挙げてみせるジェットは女連れで、しかもこの間出来たはずの彼女ではない。
 やれやれ、やはり長くは続かなかったか。そう思いつつ、その話題には触れずに当たり障りのない話を振る。
「どうしたよ、こんな時間に」
「そいつはこっちの台詞だよ。……って、そうそう。ゼフが結婚したらしいぜ」
 久しぶりに聞いた昔の仲間の名前に、へぇ、と眉を動かすラウル。かつて貧民街でラウルにつきまとっていた少年は、今では銀細工師として工房で働く堅気の人間となっていた。噂ではその工房の娘といい仲だと聞いたが、とうとうくっついたという事か。
「親父さんにも気に入られてるらしいし、なんでも子供が出来たらしいぜ」
「それで、か。まあいいんじゃねえか」
 確かゼフはラウルよりも二つほど若かったはずだ。結婚するには些か早すぎるきらいもあるが、本人達がそれを望んだなら、回りが何だかんだ言う事ではない。
「お前も気をつけろよ。気づいたらあちこちに、なんて洒落にもならねえからな」
 などと言って連れの女性と笑い合ったジェットは、馬鹿言え、と鼻で笑ってみせるラウルに、ああ、とわざとらしい声を上げる。
「今のところその心配はないか」
 にぃ、と笑って、ぐいとラウルの耳元に口を寄せるジェット。
「随分と微笑ましいお付き合いしてるみたいじゃん?あの「彼女」とよ」
 途端に、ラウルはジェットの襟首をぐいと掴んで引き寄せた。横にいた女が驚きと抗議の声を上げるが、今ばかりは無視して低く問いかける。
「誰に聞いた」
「聞くも何も、昼日中から美人と腕組んで歩いてりゃ嫌でも目に付くっての。しかもあの「彼女」だろ?やっぱり綺麗なら何でもいいんじゃないか、ラウルちゃん?」
 にやにやと言ってのけるジェットに、ラウルの顔が歪む。
「!……なんで、お前がそれを……」
「リゲルに聞いた。お前が例の如く謹慎受けてた時、リゲルと会ったらしいじゃん?お前の事随分心配してたって聞いたぜ。いい女だなあ、おい」
「……てめぇ、余計な事周りに言いふらしてないだろうな。そんな事してみろ、二度と日の目が拝めないようにしてやるからな……!」
 かなり本気で凄んでくるラウルに、ジェットはへらへらと頷いてみせる。
「分かってるって。それじゃな、ラウルちゃん」
「その呼び方はやめろっ!!」
 ラウルの抗議などどこ吹く風、ひらひらと手を振り、女の肩をぐいと抱いて足早に去っていくジェット。その背中を一睨みしてから、ラウルもくるりと踵を返した。
 時間がない。待ち合わせに遅れては失礼というものだ。
 走り出すラウルの足に鼻っ面を掠められて、野良猫が迷惑そうに一声鳴いた。

 そよ風に花びらを揺らす可憐な青い花。黄色い花心と青い花びらの対比が目に焼きつく。
 フェリキア。彼女の瞳と同じ、どこか郷愁漂う青色をした花を小脇に抱えて、ラウルは猫足広場へと足を踏み入れた。
 少女が教えてくれた「穴場」はなかなか見つけにくくて、予想以上に時間を食ってしまった。それでも待ち合わせの時間には何とか間に合って、ほっと胸を撫で下ろす。
 広場は相変わらず人気もなく、ただ柔らかな午後の日差しに彩られていた。穏やかな、いつも通りの光景が目の前に広がっている。
 それなのに。
(なんだ……?)
 何かが違う。いや、そんなはずはない。張られた天幕も、止められた馬車も、石畳をつつく鳩達も、昨日となんら変わらない。それなのに。
 ―――なにか、おかしい―――
 違和感を感じ取ったラウルの足は自然と早くなった。興行用の天幕を迂回し、楽屋として使われている天幕の入り口をくぐる。そして。

 ただならぬ雰囲気に、彼は目を見開いた。
 天幕の中央、何かを取り囲むように揃った一座の面々。
「お兄ちゃん!」
「おにいちゃん!」
 入ってきたラウルに一番最初に反応したのは、レネーとユノーの双子だった。ラウルに飛びついてきた二人の顔が強張っていて、只事ではないと悟る。
「何があった」
 固い口調で尋ねるラウルに、双子が答えるより早くマレインの声が響いた。
「ラウルか?ちょっとこっちに来てくれ」
 いつもは豪快な彼の声も、今ばかりは弱々しい。言われるままに彼らに近づいていくと、数人が身を寄せてラウルを通してくれた。
 そこでラウルが見たもの。それは―――。
「……何があったんだ……?」
 地面に敷かれた絨毯の上に、彼女は寝かされていた。
 その頭には包帯が巻かれており、赤く滲んだ血が痛々しく映る。
 困惑した表情で周りを見るラウルに、マレインが口を開いた。
「稽古の最中、装置から落ちたんだ」
 彼女が主演を務める小芝居に、高い塔の窓辺から身を乗り出して恋人の行く末を見届ける場面がある。実際には塔など作れないから、窓辺の装置を人の身長ほどの高さに組んで演じているのだが、演技に夢中になるあまり、そこから足を滑らせてしまったのだという。
「怪我は大したことなかったんだけど」
「めをさまさないの」
 心配そうな双子の声。他の団員達も一様に、彼女を見つめている。
 絨毯へと膝をつき、そっと彼女を伺う。呼吸もしっかりしているし、その表情も穏やかだ。額の包帯さえなければ、ただ眠っているようにしか見えないだろう。
「医者は?」
「ああ、すぐに見てもらったさ。気を失っているだけだから、すぐに目を覚ますと言われたんだがな」
 それからすでに二刻も経過している。大丈夫だという医者の言葉を信じないわけでもないが、何しろ頭を打っている。打ち所が悪ければ命を落とす事すらある箇所なだけに、不安は尽きない。
 ―――と。
 不意に、瞼が震えた。眩しそうに何度も目を瞬かせて、澄んだ青い瞳がすぅ、と見開かれる。
 その瞳に言いようのない違和感を感じて、ラウルは無意識のうちに一歩後ずさった。
 そして。
「……ここは……どこですか?私は……」
 紡がれた言葉は、見知らぬ人間のものだった。

 「彼」はアステルと名乗った。アステル=エルヴェイン。西大陸にあるベルファール王国の貴族である彼は、親戚の結婚式に父の名代として出席し、その帰りに事故にあったまでを、しっかりとした口調で語った。
「そうですか、半年も……」
 戸惑いがちに目を伏せるその仕草。呟いた言葉。顔にかかる髪を払いのける手つき。その全てが、「彼」が「彼女」でない事を雄弁に語っている。
 生まれてから事故に合うまでの記憶をすっかり取り戻したアステルは、その代償であるかのように、ここ半年間の記憶を全て失くしていた。
「何も覚えていないのですが、私は皆さんにご迷惑をかけてはいなかったでしょうか。何分、世間知らずなものですから」
 貴族の身でありながら、明らかに身分の違う者達に対して丁寧な言葉を投げかけるアステル。それが彼の性格なのだろう。穏やかな喋り方は、それでもやはり、彼女のものとは違う。
 動揺を隠せない一座の面々を不思議そうに見回していた彼は、ふとラウルに目を止める。
「あなたは?こちらの一座の方ではないようですが」
 不意に話しかけられて、ラウルは慌てて冷静さを取り繕った。
「ああ、俺は……そうだな」
 何と言えばいいのだろう。少し考えてようやく出てきた言葉は、
「ちょっとした、知り合いさ」
 誰の、とも、どんな、とも言えなかった。苦しい言葉に、アステルはそうですか、とだけ答える。そしてその手に握られた青い花を見て、ふと目を細めた。
「フェリキアですか。きれいな花ですね」

 あまりにも残酷なその一言に、誰も、何も言えなかった。
 それが、ついさっきまで自分を示す名前だった事を知る由もなく、彼は突然凍りついた周囲に怪訝な顔をする。
 沈黙が天幕を支配した。誰もが、まるで言葉を忘れてしまったかのように、口を開きかけ、それを閉じる事を繰り返す。
 痛いまでの静寂。それを破ったのは、ラウルだった。
「そう、だな。きれいな、花だ。……欲しいならやるぜ」
「いえ……どなたかに贈られる花なのでしょう?どうぞその方に」
 悪気がないのは分かっていても、その言葉はラウルの胸に突き刺さる。それでも、どうにか平静を取り繕って、ラウルは笑ってみせた。そして、やっとの事で最後の一言を吐き出す。
「そうも行かないんだ。もう……いなくなっちまったから」
 可憐な青い花。そんな名を冠した一座の看板女優は、もういない。
 明るく朗らかで、誰からも好かれた彼女。ちょっとドジで、涙もろくて、それでいて芯の強い、純真な心を持つ彼女。
 フェリキア。舞台に咲いた一輪の花。ラウルの心を魅了した、青い花。
 彼女は、もうどこにもいない。
 別れの言葉を交わす間もなく。鮮烈な印象だけを残して。
 彼女は行ってしまったのだ。
 遥か遠く。手の及ばない彼方へ。

 逃げ出すように天幕を出て、闇雲に走った。
 息が続かなくなるまで走って、走って。辿り着いたのは、石畳の広がる路地。
 奇しくもそこは、彼女と出会った場所だった。
 まだ日の高いこの時間、常夜通りも穏やかな日差しに照らされて、夜とは全く違った顔を見せている。
 人通りもまばらなその場所で、ラウルはふと、手にしたままの青い花を見つめた。
 渡せなかった花。伝えられなかった想い。
「……ずるいぜ、こんなの……」
 通りの向こうから吹き抜ける風に、ラウルはそっと花を手放した。
 手のひらからこぼれた青い花びらが風に舞う。石畳に散る青い花。それはまるで、出会った時の彼女に見えた。
「……なあ、フェリキア……俺は、あんたの事……」
 青い花びらとラウルの呟きとを乗せて、風が空へと吹き抜けていく。
 ―――大好きよ、ラウルちゃん!―――
 そんな声が聞こえた気がして、空を見上げる。
 夏の青空はどこまでも高く、悲しいほどに高く、広がっていた。



「……それから、どうなったんですか?」
 少年の言葉に、長い話を終えたラウルはふぅ、と短くため息をついて答える。
「どうもこうもないさ。アステルは故郷へ戻り、一座は街を去った。それでお終いだ」
 看板女優を失った一座の話、そしてその看板女優と一時期付き合っていたらしいラウルの話は、それからしばらくあちこちで囁かれていたが、やがてそれらは新たな話題へと移り変わっていき、そして彼らを思い出すものは誰もいなくなった。
 あれは、夏の幻だったんだ。事情を知りたがるリゲルとジェットに、ラウルはただそうとだけ告げて、あとは何も話そうとしなかった。
 そう、あれは夏の見せた幻。儚くも美しい、青い花の幻。
 自分にそう言い聞かせ、あの出会いも、あの日々も、幻だと思い込もうとした。月日が流れ、全て忘れたと思っていた。それでも。
 ―――ラウルちゃん!―――
 記憶の彼方から響く声。脳裏に映し出される華やかな笑顔。
 永遠に失われてしまったはずの彼女は、彼の心の中で生き続けていた。そして今、青い花に呼び覚まされて、こんなにも艶やかに蘇る。
 黙り込むラウルをマリオは不思議そうに見つめていたが、ふとこんな事を言ってきた。
「そうだラウルさん。この花の花言葉って知ってます?」
「花言葉?」
 首を傾げるラウルに、マリオは小さく笑って言った。
「純粋。それがフェリキア……この青いヒナギクの花言葉だそうですよ」
 恐らくはエリナに教えられたのだろう花言葉。それはまさに、彼女にふさわしい花言葉だった。
 限りなく純粋に、心の赴くままに咲き誇り、そして艶やかに散った青い花。
「素敵な人だったんでしょうね」
 そう呟くマリオに、ラウルはああ、と頷いた。
「とびきりの、いい女だったよ」

 大分後になって、風の噂にアステルの死を知った。
 彼が身罷ったその日。北大陸の辺境の地で、あの花はひっそりと咲いた。
 季節外れの青い花。フェリキアという名の、可憐な花。
 あの時言えなかった別れの言葉を告げに来たのか。それとも、ただの偶然に過ぎないのか。
 真実を知るものは、誰もいない。

 記憶の中、鮮やかに咲き続ける青い花。
 フェリキア。それは、追憶の《青》―――

FIN


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その花の名前は

長編

  追憶の《青》

 seeds

番外編紹介:

 季節外れの花が呼び覚ました、五年前の記憶。青い花の名を冠した女性を助けたことから、幻のような日々が幕を開ける。卵神官ラウルの過去を語る、長編FT番外編。

注意事項:

注意事項なし

(本編完結済)

(本編注意事項なし)

◇ ◇ ◇

本編:

未来の卵

サイト名:

星明かり亭

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