Present The first present given from the father...


「エバスト司祭!」
 息せき切って飛び込んできた神官の声に、図書室の机で調べ物をしていた彼は、またか、と小さく嘆息して顔を上げた。
「どうした」
 聞くまでもないことと思いつつ、一応尋ねてみる。駆け寄ってきた神官は、困り果てた顔で口を開いた。
「その、彼が、また……」
 歯切れの悪い神官の言葉を終いまで聞かず、分かった分かったと立ち上がる。
「逃げ出したか」
「はい。申し訳ありません。少し目を離した隙に……」
 脱走の知らせを持ってきたこの神官は、この時間、養い子に歴史を教えているはずの人間だった。確かこの前も同じ時間に逃げ出していなかったか。
(よほどなめられているな……ま、無理もないか)
 養い子の教育役として何人かの神官をつけているが、その中でもこの神官は年若く、そして少々気が弱い。恐らくはまた、息が詰まるから外を散歩したいとでも言われて、渋々承知してしまったというところか。養い子の常套手段である。いい加減同じ手に引っかかるなといいたいくらいだが、生真面目がとりえのこの神官にそれを言っても始まらないだろう。彼は彼なりに、一生懸命やってくれている。
「いかがしましょう……?」
 おずおずと尋ねてくる神官に、司祭は机の上に積まれた書物を指差して
「これを私の部屋まで運んでおいてくれ。私が連れ戻しに行く。昼の礼拝は事情で欠席させていただくと神殿長にお伝えしてくれ」
「承知しました。よろしくお願いします、司祭」
 ほっとした顔で、早速書物をまとめ出す神官を横目に、エバスト司祭はやれやれ、と口の中で呟きながら図書室を出て行った。
「ちょうどいい、あれを取りに行こうと思っていたことだしな」
 どうやって礼拝を抜け出そうかと思っていたところだ。いい口実が出来た。
 礼拝堂へ向かう人の波を逆行して、正面玄関へ向かう。途中何人もが彼に声をかけてきたが、急いでいるからと短いやり取りでかわしていった。その度に、すれ違った背後から「またか」とか「まったく、とんだ子供を引き取ったものだ」などという声が聞こえてきたが、勿論聞こえていない振りをして進んで行く。
「さて、あの小僧はどこへ行ったのやら……」
 どこか楽しそうな表情で街へと向かうエバスト司祭を、正門警備の兵士達は怪訝そうな顔で見つめていた。
「礼拝の時間だってのに、どちらへ行かれるんだ、司祭は」
「ははぁ……また逃げ出したんだな、あの小僧」
「なるほど……」
「しかし司祭も奇特な方だ。あんな手のかかるガキの面倒を、もう一年近く見てるんだろう?」
「一年、そうだな……。もうそんな経つか」
 全身を血に染めた少年が本神殿に担ぎこまれたのは、やはりこんな空の高い日だった。
 なんでも貧民街の抗争に巻き込まれたのだというが、かなりの重傷を負っていた少年を連れ帰った当人であるエバスト司祭は五日の間つきっきりで看護した。そしてなんとか一命を取りとめた少年に身寄りがないと知って、自分が保護者になると言い出したのだ。
 貧民街での救済活動で身寄りのない子供を連れてくる事は良くあることだったが、大抵は街の孤児院に預けられる。それを五十近い、しかも独身のエバスト司祭が「養子にする」と言った事から、様々な憶測が飛び交った。実は隠し子なのだという突飛な話まで飛び出したが、淡い金髪に琥珀色の瞳を持つ司祭と、黒髪黒目の少年とは、どこをどう見ても似ていない。さすがにこの噂はすぐに立ち消えたが、ともあれ、エバスト司祭は全ての噂を否定し、しかし理由を語ることもなく、ただ彼を養子にした。
 少年は神殿の下働きとして働く傍ら、読み書き算数から始まる基礎的な勉強を叩き込まれていたが、そんな神殿での暮らしにどうにも馴染まず、度々脱走を繰り返していた。その度に司祭自ら街中を探し回り連れ帰ってくるが、反省する様子もない。
「しかし、あいつも懲りない奴だな」
「いや……。追いかけてきて欲しくて、逃げてるんじゃないのかと思うね、俺は」
 そう言って、警備兵の一人は中央広場へと伸びる道の彼方、すでに豆粒ほどになったエバスト司祭の背中を見つめる。
 昼日中に、黒装束のユーク司祭は非常に目立って見えた。その後姿が街の雑踏に紛れ、見えなくなるのと同時に、広場から昼の二の刻を告げる鐘が鳴り響いてきた。

* * * * *

 鐘の音と同時に、時計台の仕掛けが動き出す。色鮮やかな衣装を身に纏った音楽隊。手にはラッパや太鼓など様々な楽器を握って、滑稽な動きを繰り返す。
 毎日、この昼の二刻に動き出す仕掛けに、道行く人たちも足を止めて遥か頭上に見入っている。大掛かりなこの仕掛け時計を見ようと、わざわざ遠くから来る人間もいるくらいだ。仕掛けが動く五分間の間、人々の視線はからくり時計に釘付けである。それこそが、ゼフの狙い目だ。
 時計台広場の人込みをひょいひょいと掻き分けて、広場の隅にたどり着いた時には、その懐にはいくつかの財布が……
「あれ?」
 確かに懐に収めたはずの財布がない。慌てるゼフに、ひどく投げやりな声がかかる。
「掏りがスられてどうすんだ」
 はっと顔を上げると、そこに黒髪の少年の姿があった。それを見た途端にゼフは顔を強張らせる。
「ウル……」
 それは、ゼフにとって頼れる兄貴分であり、掏りやかっぱらいの師匠であり、信頼できる仲間、だった。
「警備隊がいる。やめておくん――」
 そんな忠告の言葉を遮って、ゼフは言い放つ。
「あ、あんたには、関係ないだろ。もう……あんたは、仲間じゃないんだから!」
 そうだ。一年前に、彼は仲間ではなくなった。貧民街を出て、ユーク本神殿に仕える司祭に引き取られてから、彼はもう、違う世界の人間になってしまったのだ。
 あの場所で、親のない子供達は身を寄せ合って生きていた。いくつかの集団に分かれた子供達は、掏りやかっぱらい、置き引きなど数々の方法で糊口を凌ぎ、なんとか生きていた。寒さと飢えに常に脅かされ、ならず者同士の抗争に怯え、それでもこの街にしか彼らの居場所はなかったから。
 そんな中で、一人群れることを嫌い、いつも集団から一歩離れた場所を歩いている者がいた。それが彼。『狼』の名で呼ばれた少年。
 それでも、彼を慕うものは多かった。誰にもこびず、自分の力で生きている黒髪の少年に、ゼフは憧れを抱いていた。だから彼の後をついて周り、色々な事を教わった。
 帰ってきて欲しかった。自分達のもとへ。それでも、そんな事を言ってはいけないのだと何度も自分に言い聞かせて、ゼフは繰り返す。
「あんたは、もうおれ達の仲間じゃない。だから、余計な事すんなよ」
 傷つけると分かって、それでもゼフはそう告げる。それが彼のためだと分かっていたから。
 戻ってきてはいけない。折角、日のあたる場所で生きる道を掴んだのだから。
 ウルと呼ばれた少年は、すっとゼフに視線を合わせてきた。研ぎ澄まされた刃のような冷めた瞳に、ゼフは思わず後ずさる。
 しかし。
「そうだな」
 ただそうとだけ答えて、少年はくるりと踵を返す。その手が懐に伸びて、そして掴んだ何かをばっと宙に放った。
 一瞬遅れて、石畳に落ちてくる財布の数々。どれも、先程ゼフが掏り取ったもの。そして、いつの間にか懐から消えうせていたものだ。
「ウル……」
 去って行くその背中を縋るような目で見つめるゼフ。しかし、すぐに彼は首を振り、足早にその場から立ち去った。こんなところを巡回の警備兵達に見られたりしたら、彼の気遣いがすべて無駄になると分かっていたから。
 いつもそうだった。人に興味などない振りをして、さり気なく気を配っている。仲間なんて鬱陶しいだけだと言いながら、その実仲間の危機にはちゃんと駆けつける、冷たいようで熱い心の持ち主。
 だから憧れた。あんな人になりたいと思った。それなのに、今もゼフは、全てにおいて彼には到底及ばない。摺りの腕前も、観察力も、そしてその心も。
 財布が落ちている、と騒ぎ始めた人々の声を背に、住処である薄汚れた街へと帰って行く。あの場所がゼフの居場所なのだ。いつかは抜け出そうと思っても、今はあそこしか帰る場所はない。
 そう。だから。
「ウル、あんたは居場所を手に入れたんだ。だから、戻ってきちゃいけない……」
 通り過ぎて行く少年のそんな呟きに、店先に吊るされた籠の小鳥が小首を傾げてみせた。

 仕掛け時計に見とれているうち、いつの間にか財布を失くしていた不幸な人々は、広場の片隅でなぜかまとめて地面に落ちていた財布に首を傾げたが、中身がそのままだったために、これはきっと精霊の悪戯なのだと自らに言い聞かせた。

* * * * *

「はいよ、ご注文の品、確かに」
 差し出された小さな箱の中身を満足げに見つめて、司祭は小さく頷いた。
「いい出来だ。流石は王家御用達だな」
「そう思ってるなら、もっといいもんを買ってくれよな。ダリス」
 笑いながら言って来る店主は、もう十年以上の付き合いになる飲み仲間だ。だから、こんな儲けにならない仕事を引き受けてくれた。首都の一等地に店を構えるこの王家御用達の宝飾店は、貴族や金持ちだけでなく、庶民にも充分手の届く品揃えが評判を呼ぶ、大陸でも名の知れた店である。そんな店の店主もまた、御用達の看板や地位を笠に着ることのないさっぱりとした人物で、だからこそ司祭も気兼ねなく付き合いを続けていた。
「女への贈り物一つ買っていったことのないあんたが、まさかうちに買い物に来るとは、雪でも降るかと思ったが……」
「馬鹿を言え、これでも神に一生を捧げた身だ、軽々しく女性に贈り物など出来るか」
 その友人の軽口にそう切り返し、代金を支払う。儲けにならないというものの、決して安くない買い物だ。
「神官が結婚しちゃいけないなんて話はとんと聞いた事がないがね。はいよ、ちょうどだな」
 差し出された貨幣をきちんと数えてしまい込むと、店主は小箱の蓋を丁寧に閉め、そして取り出した飾り紐を手際よく結び始めた。それに慌てて司祭が制止の声をかける。
「おいおい、女の子にやるわけじゃないんだ、そんなもの必要ない」
「なに、相手がむさ苦しい髭親父だろうと、生まれたばかりの赤子だろうと、贈り物は贈り物だ。ちゃんと飾ってやらなきゃかわいそうってもんだろ。ほら、出来た。さっさと渡してやんな」
 ぽん、と放られた小箱を両手で受け止める。深い青の飾り紐が巻かれた小箱は、まるで意中の女性に贈る指輪でも入っていそうな雰囲気だった。これは恥ずかしい。
「その贈り物の相手によろしくな。一度連れて来いよ」
「ああ、そのうちな」
 小箱を懐にしまいこみ、気恥ずかしそうに店を出て行く司祭。黒尽くめの姿は、このきらびやかな宝飾店にはかなり場違いな存在だった。いつもの彼なら決して店には入らず、家の方に直接訪ねてくる。そんな彼がわざわざ店に出向き、贈り物を注文して行った時には、それこそ雪でも降るかと思ったが。
「ま、贈り物ってのはいいもんだ。贈った方も贈られた方も幸せな気分になれる」

* * * * *

 目の前が急にふっと翳ったかと思うと、聞き慣れた声が降りそそいできた。
「ここにいたか」
 気だるそうに見上げると、そこに苦笑いを浮かべた男の顔がある。ふん、と鼻を鳴らして、黒髪の少年はそっぽを向いた。
 そんな様子に肩をすくめ、エバスト司祭は少年の隣に腰を下ろす。
 街外れにひっそりと佇む神殿。かつては空間神トゥーランの分神殿だったが、いつからか信者が減り、やがて廃れていったという。今ではその存在すら忘れられた神殿。建物が老朽化して危ない事から、人が入らぬように正門は閉ざされているが、通用口は鍵が壊れたまま放置されており、よく近所の子供達が忍び込んでは遊んでいる。
 雑草の生い茂る前庭の枯れた噴水に腰掛けて、少年は片膝を抱えたまま黙りこくっていた。丸められた背中がまるで全てを拒絶しているようで、司祭もただ、静かに彼の言葉を待つ。
「……なんで、分かった」
 昼前に神殿を抜け出して、広場でかつての仲間と遭遇した後、何とはなしにここに来ていた。
 前にも何度か来たことがある。ここは、一人になるにはちょうど良かった。
「街中探し回って、どこにもいなかったからな。あとはここ位かと思って来てみたら、当たっていたわけだ」
 そう答えて、司祭はふと立ち上がる。そして、少年の正面に回ると、穏やかに問いかけた。
「歴史の勉強は嫌いか?」
「……そんなんじゃない」
 朝から続く授業の合間、ここにいては息が詰まると言って外に出してもらった。それは嘘ではない。
 あの神殿にいると、あまりの静かさに、清潔さに、厳格さに、息が出来なくなる。
 無性に息苦しくなって、逃げ出したくなる時がある。
 帰る場所など、どこにもないのに。
「すっかり日が暮れてしまったな」
 咎める風でなく、そう言ってくる司祭。
 少年が逃げ出す度に、連れ戻しに来るこの司祭の事を、彼は嫌いではない。命の恩人であることが一番の理由だが、余計な詮索をすることもなく、過度に干渉してくることもなく、適度な距離感を持って接してくれる彼のことを、多分結構気に入っているのだと思う。
 彼、ダリス=エバスト司祭は養い親ということになっている。怪我が治ったら放り出されるか、よくて孤児院へ送られるのだろうと思っていた少年に、彼は「自分の子供としてここで暮さないか」と言ってきた。なにを馬鹿なことを言い出すのだろうと思ったが、その瞳は真剣で、そしてとても穏やかで。
 なぜかその時、頷いてしまったのだ。
 しまった、と思った時にはもう遅く、彼はさっさと手続きを済ませると、自室に彼の分の寝台を用意させた。それから今日まで、寝起きを共にする生活が続いている。
 変な奴だ、と今でも思っている。自分を養子にして得することなど、何一つないはずなのに。
(何を考えてるんだか、ほんと……)
 そっと司祭を伺う。夕日に照らされたその顔は、まっすぐにこちらを見つめていた。
「なんだよ」
 ぶっきらぼうに言う少年に、司祭は懐をごそごそやると、何かを取り出してひょい、と放ってきた。
 慌ててそれを受け止める。手の平を開くと、そこに飾り紐の結ばれた小さな箱があった。
「……なんだ、これ」
「見て分からんか。誕生日の贈り物だ」
 目を真ん丸くする少年。司祭の言葉には、なにか、聞きなれない単語が混じっていた。それは、彼にとって無縁であるはずのもので、だから言われても一瞬、理解が出来なかった。
「たんじょう、び? そんなもん……」
 ようやく口を開いて抗議しようとした少年を、司祭は穏やかな声で遮る。
「今日はお前が私の息子になった日だ。忘れたか?」
 はっと司祭を見る。その瞬間、西の空に沈み行く、まるで血のように赤い夕日が目に入って、少年はようやく思い出した。

 ちょうど一年前。
 死に掛けていた少年を救ったのは、彼だった。
 そしてその出会いが、少年の未来を大きく変えた。

 あの時、あの場所で。
 少年の人生は、新たに始まったのだ。

「開けてみろ」
 言われるがままに紐を解き、蓋を開ける。そこには、見慣れた形の首飾りが収まっていた。
「これ……」
「ユークの聖印だ」
 少々バツの悪い顔をして、頬を掻く司祭。
「その、こういう時に何を贈ればいいのか、正直分からなくてな。これくらいしか思いつかなかった」
 なるほど、まさに、ユーク一筋なエバスト司祭らしい贈り物だ。
「……信者でもないのに、こんなの持っていいのかよ」
「なに、構うものか。首飾りかなにかだと思って使えばいい」
 司祭の言葉とも思えないいい加減な発言に、呆れるのを通り越して思わず笑ってしまう少年。その笑顔を見て、司祭も微笑みを浮かべる。そして、
「さあ、帰るぞ。昼の礼拝を抜けてきたからな。夕刻の礼拝には顔を出さんと、神殿長の雷が落ちる」
 ごく当たり前のことのように、帰る、と彼は言った。そして、まるで小さな子供に対するように、優しく手を差し伸べてくる。
 例え息苦しくても、窮屈でも。
 今は、あの神殿こそが、彼の帰るべき場所なのだ。
 かつて暮らした薄暗い街にはもう戻れない。あの場所に、彼の帰りを待つものはいない。
 神殿も似たようなものだが、一つだけ違う。
 この変わり者の司祭が、そこにいる。名前をくれた彼が。手を伸べてくれる彼が、そこにいるから。
「分かったよ。帰ればいいんだろ」
 照れくさくて、差し出された手をとる事はしなかった。
 その代わり、箱から聖印を取り出し、首にかける。そして、すっくと立ち上がると足早に歩き出した。その後を、慌てる風でもなく司祭が追いかける。
 すぐに少年に追いついた司祭は、気づかれないようにそっと少年の顔を盗み見た。
 いつも通りの、どこか斜に構えた表情。しかし、夕日の加減だろうか、今はどこか、嬉しそうにも見えた。

 歩くたびに、胸の聖印が弾む。慣れない感触がくすぐったくて、なぜか頬が緩む。
 それをごまかすように、少年は喋り続けた。
「昼の礼拝を抜けて探してた割には、遅かったじゃないか」
「なに、それを取りに行っていたら思いがけず時間がかかってな」
「……それだけじゃないだろ。食べもんの匂いがぷんぷんするぜ」
「ばれたか。なに、神殿の食事はまずいとは言わないが、いまいち味付けが薄くていけない」
「……人を口実に遊んでやがったな、このくそじじぃ」
「何を言うか、街中を歩き回ったのだぞ、腹が減ってもおかしくないだろう」
「よく言うぜ……」
 まったく、と肩をすくめる少年の目が、ふと胸の上で踊る聖印に止まる。
 銀で出来た首飾り。表にはユーク神を象徴する複雑な意匠が彫られている。何気なくひょい、と裏返したそこに、目を凝らさなければ読み取れないほどの小さな文字の連なりが刻み込まれていた。
 目線まで持ち上げて、刻まれた文字を読む。
「黒髪の我がいとし子ラウル=エバストに、ユークの加護があらんことを」
 飾り気のない文章。それでも、そこに刻まれているのは、心からの言葉。
(我が、いとし子……)
 成り行きで結んだ親子関係。そんなの、どうせ形だけのもの、口先だけのものだと、自分に言い聞かせていた。
 信じてはいけない、裏切られた時に辛いから。どうせ、すぐに飽きるか嫌われるかして、捨てられてしまうのだ。心を開いたりしたら、自分が傷付くだけ。
 それはあの薄闇の街で覚えた、彼の処世術。
 それなのに、こんなの反則だ。
 こんなものを、こんな言葉をくれたら。
 信じたくなるじゃないか。甘えたくなるじゃないか。
 そんな思いが胸の奥から込み上げてきて、自分でもどうしていいか分からなくなる。喉元まで思いが込み上げてきて、口が滑りそうになるのを、ぐっとこらえた。うっかり口を開けたら、何を言ってしまうか分からなかったから。
 そうして、行き場を失った熱さは、とうとう両目から溢れて、地面に零れ落ちた。
 「どうした? 目にゴミでも入ったか」
 不意に目をこすった少年に、意地悪くそう尋ねる司祭。少年はふん、と鼻を鳴らし、何か言おうと口を開きかけたが、その瞬間、まるで図ったかのように腹の虫が鳴って、思わず顔を見合わせる。
 先に吹き出したのは、司祭の方だった。
「そうか、そういえば、昼飯の前に逃げ出したのだったな」
 そう言って、まるで悪戯小僧のように目を輝かせ、司祭は少年の腕を取った。
「よし、大通りにいい店を知ってる。腹ごしらえをしてから戻るとしよう」
「お、おい? 夕刻の礼拝はどうすんだよ?」
「なに、ユーク様はそんな、一回くらいお祈りを抜かしたくらいで目くじら立てて怒るお方じゃない。さあ、行くぞ小僧」
「って、おい、ひっぱんなよ!」
 抗議の声をものともせず、少年を引っ張って賑やかな界隈へと向かう司祭。その楽しげな様子に、最初は呆れ顔だった少年も、苦笑を浮かべて、手をひかれるままに歩き出す。
「……ったく、こんなんで司祭を務められるんだから、俺だって神官くらいにはなれるかもな」
「ああ、お前ならいい神官になるだろうよ」
 冗談めかした少年の言葉に、司祭の返答はかなり本気の声色だった。
「なるわけないだろ。そんなしみったれた仕事、願い下げだ」
「そうか?まあ、こればかりは神のご意思によるものだからな。しかし、案外ユーク様はお前を気に入るのじゃないかと思うんだが」
「やめろよ、縁起でもない」
 そんな会話をしながら、街を行く二人。壮年の司祭と生意気そうな少年という変わった組み合わせに、道行く人が振り返るが、気にも留めずに歩いて行く。
 夕闇が、そんな彼らを追い越して、街を一気に染めていった。