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野薔薇に寄す

 雑然とした通りを、おぼつかない足取りで進む。
 石畳の続く細い通り。左右には白壁の家屋が並び、路地の向こうからは女達の笑い声が響く。
 ああ、何も変わっちゃいない。
 見慣れぬ建物も増えたし、道も幾分広くなった。通り過ぎる人々の中に見知った顔はなく、馴染みだった店の看板は別のものに変わっている。
 それでも、懐かしいと感じられる程度に、街は当時の面影を残していた。それが嬉しくもあり、同時に悲しくもある。
 時は容赦なく流れ、幾多の栄光もただの昔話と成り果てた。今の自分に残っているのは老いさらばえた体と魂のみ。
 そんな体に鞭打って、石畳を踏みしめる。あとちょっとだ、あの角を曲がれば――。


「ったく、なにやってんだあいつは」
 二杯目の麦酒をぐい、と飲み干して、ラウルは入り口を睨みつけた。宵の刻に入ったばかりとあって、店内は一日の疲れを吹き飛ばそうとやってきた常連客で賑わっている。このままでは満席になるのも時間の問題だろう。
「まあまあ。ジェットが遅れてくるのはいつものことじゃない」
 答えたのは、こちらはまだ一杯目と必死に格闘しているリゲル。半ばまで一気に飲み干したものの、後が続かずに酒盃を机に置いた彼は、苦笑を浮かべて約束の時間を守った試しのない友人の姿を思い浮かべた。
 神殿勤めのラウル、そして日雇いの仕事で糊口を凌いでいるリゲルとは違い、ジェットは賭博で日銭を稼いでいる。腕前はかなりのものらしいが、稼ぐ以上に彼女へ貢ぐものだから、懐具合は二人と大差ない。
 そう言えば十日ほど前に大通りでばったり出くわした時、彼は見慣れない女性と二人連れだった。うっかり声をかけたのが運の尽き、半刻近く新しい恋人の自慢話をされて心底げんなりしたのを覚えている。
「ジェットのやつ、新しい恋人が美人で器量よしで、ってそりゃもう浮かれてたからなあ、大方――」
 リゲルの言葉を遮るように、賑やかな鐘の音が店内に響く。そうして扉の隙間かららひょい、と現れた鮮やかな赤毛に、ラウルはやれやれと肩を竦めた。
「やっと来やがったな」
 燃え立つような髪に手をやりながら、店の看板娘をつかまえて何か訪ねているジェットに、リゲルが大きく手を上げてみせる。
「ここだよ、ここ!」
 声に気づき、手を振り返すジェット。込み合う店内を泳ぐようにして二人のもとにやってきた彼は、何やら疲れた顔をして空いた椅子を引き寄せた。
「おー、お待たせ」
 肩まで伸ばした髪を気障ったらしく掻き上げながら、後を追いかけてきた給仕の娘に酒とつまみを注文する。そして彼女が行ってしまうと、途端に深い溜め息をついてぼやいてみせた。
「あー、しんどかった。ったく、女の買い物ってのはどうしてああも時間がかかるかね?」
「知るか」
 きっぱりと言い放ち、残りの酒を喉の奥に流し込むラウル。そんな彼に、ジェットはぎろりと険しい目を向けた。
「大体なあ、もとはといえばお前のせいなんだぞ!」
「はぁ? なんだよそれ」
 突然そんなことを言われても、まるで身に覚えがない。何しろ、ラウルはジェットがいつ今の彼女と付き合い出したのかすら知らないのだ。
 謂れのない言葉に眉を潜めていると、ジェットは不機嫌極まりない顔で、
「これだ、これ!」
 と言うが早いか、ラウルの髪をぐいと引っ張った。
「ってぇな、何すんだよっ」
「お前、こないだ人の部屋に押しかけてきて、しかも俺の寝台使いやがったろ?」
「あ? ああ、そういやそんなこともあったな」
 五日ほど前、遊んでいるうちに門限を過ぎてしまい、面倒くさかったので近くにあるジェットの部屋に泊めてもらったのは確かだ。リゲルと二人で転がり込むことなどよくあることなのに何を今更と思ったら、ジェットの話にはまだ続きがあった。
「あの後、遊びに来たジェシカが床に落ちてた髪を見て「なによこの髪! 私に隠れて他の女とよろしくやってたわけ!?」って、そりゃもう鬼のような形相でなじられてよ。誤解を解くのにえらい骨が折れたんだぞ!」
 それを聞いて、思わず噴き出す二人。
 なるほど、ジェットが握り締めているラウルの髪は、肩を越えて背中の半分ほどまで到達している。そんな長さの髪が寝台近くに落ちていれば勘違いされても仕方あるまい。
「ばっかみてぇ! そんなの、部屋の掃除をしないお前が悪いんだろ。俺のせいにするなよなあ」
「ふざけんな! お前が余計なもん落としてかなきゃ、買い物に付き合わされて遅れることもなかったんだ! 大体、何だよこの髪は。鬱陶しいからとっとと切りやがれ!」
 自分のことは棚に上げ、そんな事を言ってくるジェット。うるせえ、とその手を振り払った拍子に、髪を結わえていた紐が解けて床に落ちた。
 ばさり、と空中に舞う艶やかな黒髪。きちんと梳いて整えればさぞ美しいだろう髪も、持ち主が面倒くさがりのラウルとあっては、まさに宝の持ち腐れである。
「あぁ、もう。結び直すの大変なんだぞ」
 気だるげに紐を拾い上げ、ジェットにぐい、と押し付ける。
「結べ」
「お前、それが人にものを頼む態度かよ……ったく仕方ねえなあ」
 渋々ながらも紐を受け取り、後ろ向けよ、と言いかけた、その瞬間――。

「ローザ!!」

「だっ、ぅわっ! 離せよ、こらっ!」
 背後から抱きついてきた武骨な手。節くれだったその手を引き剥がそうと、ラウルは必死にもがいていた。
(なんだってんだ、おいっ!?)
 唐突に背後から上がった声。誰何する間もなく背後から縋りつかれたと思ったら、相手はなんとよれよれの中年男。しかも、おいおいと涙を流しながら、
「ローザ、やっぱりお前は待っていてくれたんだなあ。ああ、相変わらずきれいな髪だ」
 と髪を撫でてくる始末。これには流石のラウルも背筋を凍りつかせて、悲鳴じみた声を上げた。
「だああ、離せっつーの! って、お前らも見てないで何とかしろー!」
 切羽詰った叫び声に、硬直していた二人が弾かれたように動き出す。
「ご、ごめん」
「めんどくせーなー、おい。リゲル、あっちな」
 左右からラウルの背後に回りこみ、男の肩に手をかける。とはいえ、相手は随分とやつれた様子の中年男だからして、あまり手荒なことも出来ない。
「おいおいおっさん、とりあえず止めとけって。な?」
「いたた、暴れないでっ……ああもう」
「ああ、ローザ! もう離さないぞ、離してたまるもんか」
「だから俺はローザじゃねえっ!」
 怒声と共に、渾身の力を込めて男の腕を振りほどく。それに合わせて二人が男の体を引っ張って、ようやくラウルは自由を取り戻した。
「ったく、何なんだ……」
 溜め息をつきながら、乱れた襟元を整えるラウル。一方の男はといえば、先程までの元気はどこへやら、リゲルとジェットに支えられてようやっと立っているといった有様で、その体からは熟した柿のような匂いがぷんぷんと漂っていた。
「くっせぇ……このおっさん、相当酔ってるな」
「じゃなきゃ、いきなり人に抱きついたりしないだろ。……ああ、ちょっと! ちゃんと座って!」
「ったく、こんなになるまで飲むじゃねえよ」
 二人がかりでようやっと椅子に座らせたものの、男は途端に机に突っ伏して高いびきを掻き出してしまった。揺すってもつついても、起きるどころかいびきが大きくなるだけで、まったく始末に負えない。
「……どうする?」
 困ったように呟いたリゲルに、ラウルはどうしようもない、と言わんばかりに肩をすくめてみせた。
「知るかよ。勝手に絡んできて、勝手に寝こけちまったんだから」
 そう答えながら、改めて突然抱きついていた謎の男へと目を向ける。
 年の頃は四十を過ぎたくらいだろうか、薄汚れた衣服はよく目を凝らしてみてようやく旅装束だと分かるほどにくたびれており、上着の合わせ目から覗く剣帯には短剣の一本も刺さっていない。代わりといってはなんだが、平べったい酒瓶が挟み込まれていて、申し訳程度に残った琥珀色の液体が瓶の中で揺れていた。
(ただの酔っ払いってわけでもないらしいな。旅人か……傭兵崩れか?)
 それにしては武器の一本も持たないのは不自然だ。そう思いながら何気なく目をやった男の右手には、薄汚れた包帯が巻かれていた。
「なんだ、このおっさん怪我してんのか?」
 同じく包帯に気づいたジェットが、酒の匂いに閉口しつつ顔を近づける。その頃になって、騒ぎを聞きつけた店主が押っ取り刀でやってきた。
「お前ら、一体何をしでかしたんだ?」
「オレらじゃないよ、この人が……」
「いきなり後ろから抱きついてきたんだ。言っとくがこんな男、知り合いでもなんでもないぞ」
 憮然として言い返すラウルに、そうだったのかいと頬を掻く店主。
「そいつは災難だったな」
「災難どころの騒ぎじゃねえよ。ったく気持ちわりぃ……」
 撫でられた感触が残っているのか、下ろした髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜるラウル。そんな彼を横目に、店主は机に突っ伏したままの男の顔をどれどれ、と覗き込み、
「スウェン? あんた、スウェンじゃないか!?」
 目を見張る店主に、三人はそれぞれ驚いた顔をして、改めて机に突っ伏した男をまじまじと見つめた。合計四人分の視線を一身に浴びて、しかし男は気づく様子もなく騒音を撒き散らしている。
「おやっさん、知り合いか?」
「ああ、随分老け込んじまったが間違いない。お前らは知らないだろうが、昔の常連客さ。……そうか、戻ってきたのか」
 感慨深げに答えながら、店主は店の奥を振り返った。
 賑わう店内にあって、唯一閑散とした空間。周囲から一段高くなったそこは、かつて専属の歌姫が自慢の喉を披露していたという粗末な舞台だった。今は物置と化し、誰からも省みられなくなったそこに何を見ているのか、もとから細い目を更に細めて、店主はこう続ける。
「スウェンはね、うちの歌姫といい仲だった男なんだ。ところが十年位前だったか、戦争に駆り出されちまって、それっきり……。てっきり死んだんだとばかり思っていたが、そうか生きてたんだなあ」
「じゃあ、ローザって――」
「ああ、その歌姫の名前さ。五年前に体を壊してからは歌をやめちまって、つい先月亡くなってね……。スウェンも、もうちょっと早く帰ってくればなあ」
 心底残念そうに首を振る店主に、ラウルが思い出したように呟いた。
「ああ……そういやこないだ、そんな葬式あったっけな」
「ラウル、出たの?」
 意外だとばかりに目を丸くするリゲルを睨みつけ、憤然とやり返す。
「あのなあ、俺だって一応ユークの神官なんだぞ! ……あん時は人手が足りなくて、くそじじいに無理やり引っ張ってかれたからよく覚えてる」
 あの日は非番だったから、そのつもりで朝帰りをして自室で惰眠を貪っていた。ところがそういう日に限って葬儀やら行事やらが二つも三つも重なったりするのだから、たまったものではない。
 そうして駆り出された葬儀は、それはもう質素なものだった。天涯孤独の身、参列者も数えるほど。数年前から心臓を患っていたというその女性は、参列者が手向けた薔薇の花に囲まれて静かに微笑んでいた。幾人もの男達を虜にしたのだろう美貌は、年月を経てなお色褪せることなく、是非とも生きているうちにお目にかかりたかった、としみじみ呟いて、養父に小突かれたことを覚えている。その緩やかにうねる黒髪が、若い娘と見まごうほど艶やかだったことも。
(これも縁ってやつかな……)
 などと考えていたラウルは、横から伸びてきたジェットの手に気づかなかった。
「なあ、おやっさん」
「いてっ、なにすんだてめえっ」
「その歌姫ってこいつに似てる?」
 抗議を無視して、ラウルの顔をぐい、と店主に向けるジェット。店主は騒がしく喚き散らすそれをまじまじと眺めて、ううむと唸る。
「そうだな……顔つきはまるで違うが、同じ黒髪だし、あの子もすらりと背が高くて……雰囲気が似てたのかもしれないな。あの子は気が強くてね、気に入らない客に喧嘩を売ってばかりだった」
「はは、そっくりだな」
「やかましいっ」
 ようやくジェットの手を引き剥がし、二人を睨みつけるラウル。そんな彼らを横目に、男を心配そうに見つめていたリゲルがぽつりと呟いた。
「この人、随分長いこと旅をしてたみたいだね」
「そうだな。アストアナの反乱から十年、きっと戦から戦へ渡り歩いてたんだろう。ひとまずこいつはうちで面倒を見よう。世話をかけたな、坊主ども」
「頼むぜ、親父さん」
 机に小銭を置き、ラウルはくるりと踵を返した。その背中に、リゲルが慌てて問いかける。
「もう帰るの?」
「そうだ、俺なんかまだ一杯も飲んじゃいないんだぜ?」
 文句たらたらのジェットに、ラウルは振り返らずに肩をすくめてみせた。
「また抱きつかれちゃかなわないからな」
 じゃあな、と手を振って去っていくラウル。止めても無駄だと、リゲルは苦笑を漏らして席に着いた。
「仕方ない、二人で飲もう」
「ったく、自分勝手だよなあ!」
 舌打ちをして椅子に腰を降ろすジェット。その拍子に机ががたん、と揺れて、男の瞳がうっすらと開かれる。
 濁った瞳に映るのは、弾むような足取りに合わせて揺れる黒い髪。
 男は遠ざかっていくラウルの後姿をじっと見つめていたが、やがて瞼を閉じ、再び高らかないびきをかき始めた。

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