1 最果ての村
 遥かに続く草原を、爽やかな風が渡っていく。
 今にも消えそうな道を辿れば、やがて現れる小さな村。 『最果ての村』エスト。かつてはルーン遺跡へ向かう冒険者達で賑わっていたが、今や訪れる者もほとんどない、寂れた農村だ。
 そんな辺境の村へと続く唯一の道を辿る人影に、鳥達が軽やかな声を投げかける。
 晴れ渡る空を見上げて目を細めた旅人は、一息入れるために足を止めた。
「やれやれ。こんなに遠いとは……墓参りも楽じゃありませんね」
 背負っていた荷物を降ろし、草に埋もれかけた道の先へと目を凝らす。
 辛うじて見えるのは鐘つき堂の尖塔と、重厚な神殿の屋根。それ以上高い建物は恐らく存在しないのだろう。聞きしに勝る片田舎だ。
「こんなところまで連中が出張ってくるとも思えませんが……ま、仕事ですからね」
 自嘲めいた呟きを掻き消すように、高らかに響き渡る鐘の音。昼飯時を知らせるその音に頬を緩ませて、旅人は再び歩き出した。


 見張りさえ置かれていない粗末な木の門を潜り抜け、広場へと続く道をとぼとぼと歩く。
 まずは泊まるところを探さなければならない。幸い、エストはかつて冒険者で賑わっていただけあって、宿屋や雑貨屋、鍛冶屋などの店が揃っていると聞かされている。
 門から広場までの道はまっすぐだったから、ほどなくして広場の様子が見えてきた。ちょうど昼時だからだろうか、やけに人が集まっている。
 しかし近づくにつれて、何か事件が起こっていることに気づいた。人々は広場の端にそびえる大きな木を取り囲んで、口々に叫んでいる。
「カリーナ! 危ないから降りてきなさい!」
「誰か、早く梯子を持ってこい!」
「無理だ! あんな高いところまで届く梯子なんてねえよ」
 子供が登って降りられなくなったのかと思いきや、青々と茂った梢から飛んできたのは若い娘の声だ。
「テオ! ほら、こっちにいらっしゃい!」
「無理だよ、できないよぉ」
 涙混じりの声は、まだ幼い少年のものだ。かなり上の方から聞こえてくるところを見ると、調子に乗って高く登り過ぎてしまい、降りられなくなったのだろう。
 注意深く目を凝らすと、かなり上の細枝にしがみついて泣きべそをかいている少年と、その少し下の枝から檄を飛ばす娘の姿が見えた。長い裾を絡げ、すんなりとした脛を剥き出しにして、不安定な足場を物ともせずに手を伸ばすその姿は、まるで戦女神のような勇ましさだ。
「ほら、早く掴まって!」
「やだ、怖いよ! 落ちちゃうよ!」
 泣きじゃくる少年に、娘は手を伸ばしたまま声を張る。
「やる前から諦めたら何も始まらないのよ! 無理なんて思わないで、ほんのちょっとだけ勇気を出しなさい!」
「だってぇ……」
「だってじゃない! 怪我する時は私も一緒よ! それならいいでしょう?」
 いいやよくない、と周囲の誰もが内心で突っ込む中、娘の足元から響く不穏な音に気づいてしまったから、動かざるをえなかった。
「お、おい、あんた!?」
「すみません、通してください」
  人垣を強引に割って前へと飛び出ると、荷物を振り落とし、ついでに外套もその場に脱ぎ捨てて、するすると幹を登っていく。大きく枝を張った木だったから、娘のそばまで辿り着くのは容易かった。
「ほら、テオ! 手を伸ばして!」
「う、うんっ……ううう、やっぱり無理だよおおお!」
「そこで挫けない! ほら、もうちょっと――」
「あの、お取込み中のところ恐れ入りますが」
「何よ、あなた!?」
 突然現れた見知らぬ旅人の姿にぎょっとする、その足元で更なる音が響く。やっとそのことに気づいて青ざめる娘を小脇に抱えて隣の枝に移ると、ひとまず娘をその枝に座らせた。
「そこで待っていてくださいね」
 返事も聞かずに更なる上の枝へと飛び移り、泣き叫ぶ少年にひょいと手を伸ばして、その小さな体を枝から引き剥がす。
「わあっ!?」
「もう大丈夫だから、ちゃんと掴まっていてくださいよ」
 そうしてひょいひょいと枝を渡り、途中で放心している娘もついでに回収して、ひらりと地上へ降り立てば、割れるような拍手と歓声が沸き上がった。
「テオ! ああ、テオ!」
 飛び出してきたのは、少年の母親だろう。泣きじゃくる少年を抱きしめて、馬鹿だねこの子は、と叱りながらも、その顔は泣き笑いの相を呈している。
「ありがとうございます、旅の方!」
 涙ながらに頭を下げられて、いやあ大したことは、と頭を掻いていると、取り囲んでいた村人達が興奮冷めやらぬ様子で我先にと話しかけてきた。
「あんた、すごいな!」
「まるで軽業師ね! 見惚れちゃったわ」
「見ない顔だが、エストは初めてかい? ゆっくりしておいきよ」
 はあ、どうも、と愛想よく答えつつ、ふと横を見れば、先程の娘が同じように村人達に取り囲まれ、こちらは懇々と説教をされている。
「カリーナ! まったく、無茶をするんじゃない!」
「お前まで落ちたらどうするんだ」
「村長が見たら卒倒するぞ!?」
「……ごめんなさい」
 しおらしく聞いているように見えて、その顔には不本意だとはっきり書かれているようで、何ともおかしかった。
 しばらくして、ようやく泣き止んだテオと母親が何度も頭を下げながら去っていき、それが潮時とばかりに、あれだけ集まっていた村人も三々五々と散っていった。
 閑散とした広場に取り残されたのは、たった二人。
「あの……余計なことをしてしまいましたか?」
 恐る恐る窺えば、黙ってこちらを睨みつけていた娘はつかつかと目の前までやって来て――頭を下げた。
「ごめんなさい。ありがとう。私一人じゃ、きっと助けられなかった」
 意外な言葉に目を瞬かせる。そして顔を上げた娘の、その小さな拳がわずかに震えていることに、遅ればせながら気づいた。
 彼女も怖かったのだ。それでも、それを表に出せば少年を更に竦ませてしまうと分かっていたから、精一杯虚勢を張っていたのだろう。
「どういたしまして。怪我がなくて何よりです」
 そうとだけ答えると、彼女はほっとした様子で、少しだけ表情を緩めた。
「私はカリーナ。カリーナ=エバンスよ。村長の娘なの。あなたは見たところ旅の人みたいだけど、こんな辺境の村にどんなご用?」
 警戒されたかと思ったが、その明るい口調から単に不思議がっているのだと判断して、いやあと頭を掻く。
「冒険者の端くれとして、一度はあのルーン遺跡を拝んでみたいと思いまして、遥々やってきたんですよ」
 ふぅん、と物珍しそうな顔になるカリーナ。無理もない、ここが遺跡探索の冒険者で賑わっていたのは彼女が生まれる遥か昔のことだ。
「それと、知人が以前お世話になった方の墓がこの村にあるそうで、近くに行くようなら代わりに墓参りを、と頼まれまして」
 こちらの方が興味を惹いたらしく、カリーナは私が案内するわ、と俄然張り切った。
「ついて来て、えっと……ごめんなさい、お名前を聞いていなかったわね」
「ああ、これは失礼。――ヒューと呼んでください」
 咄嗟に名乗った名前に意味はない。それでも、カリーナは琥珀色の瞳を輝かせて、楽しそうに繰り返す。
「ヒューって言うんだ。素敵な名前ね!」
 その瞬間、仮初めの名前に初めて命が吹き込まれた、そんな気がした。
 そしてその時から、彼は『ヒュー』になった。