2 翳り
 エスト村は、かつてルーン遺跡探索にやってきた冒険者達が、探索の足場として興した村だ。ここから先は草木もろくに生えない荒野が広がり、その荒涼とした大地にひっそりと佇む遺跡には、今から千年以上前に滅びた魔法大国の遺産が数多く眠っている、らしい。
 らしい、というのは、ルーン遺跡の探索が盛んだったのは百年以上前の話で、その頃にめぼしいお宝は探し尽くされてしまっているからだ。『枯れた』遺跡は人々から見捨てられ、大勢逗留していた冒険者達も次々に去って、村に愛着を持つものだけがここに残った。
 それからは、時折訪れる物好きな冒険者が短期間逗留する程度で、村に一軒しかない宿屋兼酒場『見果てぬ希望亭』も、酒場として営業することの方が多くなっている。
 そんなところにやってきた久々の宿泊客は、逗留を決めた翌日から嬉々として遺跡に潜る日々を送っており、一度村を出ると三日は戻ってこない。
 そんな生活を一月ほど続けて、今日も今日とて昼過ぎの中途半端な時間に戻ってきたヒューは、疲れた体を引きずって『見果てぬ希望亭』へと辿り着いた。
 両開きの扉に手をかけた瞬間、中から響いてきた大音声に、ぎょっと目を瞬かせる。
「警備隊は何をやってるのよ!!」
 聞き慣れた声に苦笑を噛み殺し、そっと扉を押し開ければ、閑古鳥の鳴く店内にはカリーナと、そして宿の看板娘レオーナの二人しかいなかった。
「あら、ヒューさん。お帰りなさい」
 すぐにこちらに気づいて笑顔を向けてくるレオーナに、手を振って応えれば、机に鉄拳制裁を加えていたらしいカリーナが、ぱっと顔を赤くして拳を引っ込めると、怒りの矛先をこちらに向けてきた。
「ヒューったら! 出て行ったと思ったら何日も戻ってこないし、やっと帰ってきたかと思ったら何よ、その泥まみれの恰好! 子供達が野原で遊んだって、そこまで汚してこないわよ?」
「いやぁ、つい夢中になって奥まで分け入ったら、急に足元が崩れましてね。下の階まで落ちて、このざまですよ」
 これでも外で落としてきたんですが、と申し訳なさそうに隅の席に腰掛けたところに、一旦奥に引っ込んだレオーナが戻ってきて固く絞った布を手渡してくれた。
「はいヒューさん、とりあえず顔と手を拭いてね。父さんに言って早めにお風呂を用意してもらうから」
「いつもすみませんね、レオーナさん」
 ありがたく受け取って顔を拭いつつ、そっと問いかける。
「随分と荒れてましたが、何かありましたか?」
「それがね、さっき隣村の人が来て教えてくれたんだけど、少し離れたバダート村に例の野盗が現れたらしいのよ」
 形の良い眉をひそめて答えるレオーナは、カリーナより二つ年下の十五歳。緩やかに波打つ艶やかな小豆色の髪と整った顔立ちのせいか、実年齢よりも大人びて見える彼女は、その麗しい姿を一目見たさに通ってくる客もいるという、実に将来有望な看板娘だ。
「野盗の被害が出始めてから、もう三月にもなるのよ!? 警備隊の怠慢としか思えないわよ!」
 憤懣やる方ない様子のカリーナに、レオーナもお盆を手に肩をすくめてみせる。
「今まではもっと街道沿いの村が襲われていたから、警備隊もそっちにばかり目を光らせてたんじゃない?」
 隣国ライラへと続く街道に野盗が出没し始めたのは三月ほど前。最初は街道を旅する人間を襲っていただけだった彼らだったが、次第に近隣の村を襲うようになっていた。警備隊も動いてはいるが、まだ人死にが出ていないこともあってか、なかなか本腰を入れた捜査にならないらしい。
 エスト村においても、野盗騒ぎは噂話の域を脱していなかった。しかし、バダート村は歩いて半日弱の距離だ。一気に現実味を帯びてきた野盗騒ぎに、いよいよ呑気に構えてはいられなくなってきた訳だ。
「ヒューさんも気をつけた方がいいわよ。段々と見境がなくなってきたみたいだから」
「そうよ。いくら見るからにお金を持ってなさそうでも、身包みを剥げば多少の金にはなるんだもの」
「はあ……確かに、野郎に身包み剥がれるのは嫌ですねえ」
 若干ずれた感想にむっとするカリーナを横目に、レオーナがそうそう、と話を変える。
「ヒューさん、お腹空いてるんじゃないの? 何か残ってないか見てくるわね」
 すでに昼は過ぎており、厨房ではそろそろ夜の仕込みが始まる頃だ。
「あ、いや大丈夫です。帰りにそのバダートで昼飯を仕入れて、途中で済ませてきました」
 爆弾と知りつつ投げてみると、娘達はあっさりと食いついてきた。
「バダートに行ったの!? じゃあ、野盗騒ぎについて詳しいことを聞いてる?」
 鼻息も荒く迫ってくるカリーナに慄きつつ、ええまあ、と話し始める。
「連中が現れたのは一昨日だったそうですが、実はそれ以前からすでに被害が出ていたそうなんですよ」
 半月ほど前から家畜を盗まれる被害が出ていたが、これまでもそういうことは度々あったから、ただの家畜泥棒だろうと高を括っていた。すると今度は見回りの村人が襲われ、そして日を追うごとに手口が大胆になっていって、とうとう昼日中から堂々と村に現れたというのだ。
「酒場の娘に卑猥な言葉を浴びせかけたり、強引に酌をさせたりした挙句、嫌がる娘を連れていこうとして大騒動になったそうで」
 実はその場に居合わせているのだが、それはここで言う必要のないことだ。物陰から野盗達の行動を逐一観察した後、連中の後をつけて根城を突き止めようとしていたなどと、彼女達に言えるはずもない。
 そう、これこそが彼の目的。辺境地域で発生している野盗被害について調査・報告し、可能ならばそれを駆逐すること。それが――盗賊ギルド構成員『眠り猫』に課せられた、今回の任務だった。
「その場はバダートの村長がどうにか穏便に治めたらしいのですが……」
 その言葉を聞いた途端、カリーナの顔が怒りに染まる。
「何よそれ! 穏便にって、要するにお金で解決したってことでしょう!?」
「まあ、有体に言えばそうですねえ」
「それじゃ野盗に屈したも同然じゃないの! なんでやっつけようとしないのよ!」
 怒りに任せて机を殴りつけるカリーナの背後で、再び扉が開く音がして、げんなりした顔の村長がやってきた。
「カリーナ。お前の怒鳴り声が外まで筒抜けだぞ」
「父さん! いいところに来たわ! ヒュー、今の話をしてあげて!」
「は、はあ……」
 父の腕を引っ張って無理やりヒューの隣に座らせ、さあどうぞと促すカリーナ。憤りを隠そうともしない娘の様子に目を白黒させている村長に、先程の話を繰り返す。
「実はですね……」
 淡々と語られる話を聞くうちに、どんどんと表情が険しくなっていき、最後には娘と同じようにがんっ、と机に拳を打ちつけた村長に、お茶を運んできたレオーナが眉をひそめた。
「親子揃ってうちの机を壊そうとするの、やめてもらえないかしら」
「む……すまん」
 ばつが悪そうに拳を引っ込めた村長は、手際よくお茶を配るレオーナ、そして怒り心頭のカリーナに目をやると、真剣な表情で告げる。
「うちも警戒態勢を強めることになるが、お前達も用心するんだぞ。当面は一人で行動しないようにな」
 現在、エストに暮らす成人女性の中で、未婚なのはこの二人を含めて四人だけ。十代前半の少女も数人いるが、狙われるとしたらやはり妙齢の彼女達だろう。
「うちの父も、危ないから店に出るなっていうのよ。でもずっと奥にこもっている訳にもいかないし……」
 困り顔のレオーナとは対照的に、カリーナは目を吊り上げている。
「そんなやつが来たら急所を蹴り上げてやるわ!」
 息巻く娘に、やれやれと頭を抱える村長。
「そんな生易しい連中じゃないんだぞ。ヒュー、君からも何か言ってやってくれ」
 急に話を振られて、はあと頬を掻く。こういう場合は何と言って注意したものだろうか。
「ええと、その、カリーナさん。相手は徒党を組んでいるんですから、下手に刺激したら危ないですよ。そういう時は自分だけで何とかしようとしないで、大声で助けを呼んでくださいね」
 思わぬ方向から正論を突きつけられて、何よ、とむくれた声を出すカリーナ。
「呼んだらあなたが助けに来てくれるっていうの?」
「はあ、出来る限りは」
 何とも頼りない返事に、カリーナは鼻を鳴らして答えた。
「あなたが駆けつけたくらいでどうにかなるような連中なら、私一人でやっつけてやるわよ!」
 そう言って、足音も高く宿屋を後にするカリーナに、ますます項垂れる村長。レオーナも慌てて追いかけようとしたが、その鼻先でばんっ、と閉まった扉に気勢を削がれ、肩をすくめた。
「もう、カリーナったら。ヒューさん、ごめんなさいね」
「いえいえ。気にしてませんから。でも、本当に用心してくださいよ。なるべく一人で出歩かないようにして、見慣れない連中がいたらすぐに知らせてください。いいですね」
 連中がエストまで遠征してくる可能性は低いが、万が一ということもある。
「ええ。カリーナも、あんなこと言ってるけど、ちゃんと分かってると思うから」
 心配してくれてありがとう、と嬉しそうに笑って、厨房へと消えていくレオーナ。厨房の扉が閉まるのを見届けてから、ふと村長を振り返ると、彼は机の上で腕を組み、困り果てた顔でこちらを見上げてきた。
「……やはり、父親だけでは細かなところまで目が行き届かないものでね。どうにもがさつに育ってしまって、困ったものだよ」
 村長夫人は十年ほど前に病で他界したと聞く。以降、後添えの話も断って男手ひとつでカリーナを育ててきた村長は、気立てはよいものの負けん気が強い娘をどう扱っていいか悩んでいるのだろう。
「いえ。カリーナさんはとても優しい方ですよ。被害にあった娘さんのことを心配して、ああして怒っているんですから」
 これには少し驚いた顔をして、弱々しく笑う村長。
「やれやれ、どうやら君の方がよく娘のことを分かっているようだな」
「いえ、そんな……」
 慌てて謙遜したが、これは単に、父親としての弱音がわずかに零れただけだろう。すぐに表情を引き締めた村長は、静かに椅子を引いて立ち上がる。
「当面は村の見回りを強化することになるだろうが、君も村にいる間は当番に入ってもらえないだろうか?」
 その提案は願ったり叶ったりだったから、もちろんです、と頷いた。
「私のような軟弱者でも、枯れ木の賑わいにはなるでしょうからね」
「なに、謙遜するな。トニーのやつが言っていたよ。君は見た目よりも遥かに強い。叶うことなら一度手合わせ願いたいくらいだ、とね」
 この一月ですっかり意気投合し、酒飲み仲間となった男の言葉に、思わず目を瞬かせる。面と向かってそんなことを言われたことがなかったので油断していたが、トニーも廃業したとはいえ歴戦の冒険者、相手の力量を見抜く目は曇っていないらしい。
「買い被りですよ。私はそれこそ、身軽さだけが売りのへなちょこ探索者ですからね」
 そう答えておいたが、どこまで信じてもらえたかどうか。
「後程、ここに村の者を集めて当番を決めるから、それまではゆっくり休んでいてくれ」
 そう言って、すっかり冷めてしまった茶を飲み干し、戻ってきたレオーナにご馳走様と手を挙げて、足早に去っていく村長。その後ろ姿は先程のカリーナそっくりで、思わず笑いが込み上げる。
「なんだかんだ言って、似た者同士なのよ、あの二人」
 同じことを思ったのだろう。レオーナもまた、くすくすと笑いながら、乾いた布を差し出してきた。
「はい。お風呂の準備が出来たから、いつでもどうぞ」
 それを伝えにわざわざ来てくれたらしいレオーナに礼を言って、土埃を立てないよう慎重に席を立ったヒューは、まずは着替えを取りに二階へと上がっていった。