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「――妹が来る」
 腹の底から絞り出すような声に、オーロはおや、と掃除の手を止めて振り返った。
 声の主はこの執務室の主にしてオーロの上司でもあるダリス=エバスト高司祭。その手に握りしめられているのは、つい先ほど届けられた一通の書簡だ。
 ここユーク本神殿には実に百人近くの人間が生活しており、業務上の書簡から個人宛ての小包まで、毎日のように様々なものが届く。故に手紙が届くこと自体はそう珍しいことでもない。問題は、その差出人と手紙の内容だった。
 門番から手紙を受け取り、ここまで運んできた張本人であるオーロは、悲壮感漂う上司の呻き声などどこ吹く風で、さらりと感想を述べる。
「いよいよ年貢の納め時ですね」
 ぐしゃりと便箋を握り潰し、ぐぬぬと頭を抱えるダリス。
「しかも今日の午後だと」
「午後は書類整理だけですから問題ありませんよ。そして夜は礼拝の説法当番、明日は非番ですが明後日からの出張に備えての準備、と。逃げ道はありませんね。腹を括ったらいかがですか」
 どこか楽しげなオーロに、ダリスはさては、と琥珀色の瞳を細めた。
「黒幕はお前だな?」
「人聞きの悪いこと言わんでください。いつもロクに読みもせず捨てられる手紙が不憫で、僭越ながら『エバスト高司祭はこれこれこういう具合で多忙故、何卒ご容赦ください』と詫び状を送っただけです」
 しれっと答える秘書に、裏切り者め、と唸りながら執務机へと突っ伏すダリス。いつも飄々と――のらりくらりと、と訂正されることは間違いない――世間の荒波を渡りゆく彼が、妹からの手紙一枚でここまで追い詰められるとは、彼を目の敵にしている副神殿長あたりが見たら、顎を床まで落としかねない。
 ――と。
 扉の向こうから響いてきたけたたましい足音に、机から頭を上げるダリス。それとほぼ時を同じくして、執務室の重厚な扉がバンッ! と勢いよく開け放たれ――。
「おい、くそじじい!」
 息せき切って現れたのは、神学生の制服に身を包んだ一人の少年。どこから走ってきたのか、すっかり乱れた髪は夜空を切り取ったかのような黒。黒曜石の如き双眸は、なぜか怒りに満ち満ちている。
「ラウル、入る前に扉を叩いてから――」
 これまで幾度となく繰り返した小言は、予想外の言葉に遮られた。

「さっさと結婚しろ!」

 ぽかん、と口を開け、呆然とする二人。思わず顔を見合わせてから、視線だけで先を譲り合う。
(お前から聞いてくれ)
(御免被ります!)
 秘書の視線に押し負けたダリスは、神妙な面持ちで両手を組み、しかと相手の目を見据えて口を開く。
「……すまんがもう一度言ってくれ」
「何度でも言ってやる! さっさと結婚しろってんだよ! このくそじじい!」
 本日二度目の衝撃に、すっかり飽和状態になった頭が下した判断は、『真顔で吹き出す』という実に器用な行動だった。
 そこからはもう、爆笑の渦だ。人間、理解を超えたことに遭遇すると何故か笑ってしまうという通説は正しかったのだなと、そこだけは冷静に考えながら、呼吸すらままならない『笑いの発作』と戦いつつ言葉を発す。
「お、お前……! いきなり飛び込んできて何を言うかと思ったら……! 『結婚しろ』!? 一瞬、求婚されたのかと思ったぞ!」
「い、いけませんよラウル……! いくらなんでもユーク様がお許しになり――いたっ! 痛いじゃないですか!」
 同じく笑い転げるオーロの脛を思いっきり蹴りつけて、ラウルはふざけんなよ、と声を荒げた。
「誰が野郎に求婚なんてするか! いいか、さっさといい女を見つけて結婚しちまえ! 分かったな!」
 そう怒鳴りつけて、来た時と同じく猛然と去っていく黒髪の少年。その小さな背中が廊下の彼方に消えるまでを呆然と見送ってから、執務室の二人は再び顔を見合わせた。
「一体、どういう風の吹き回しだ?」
 五年前、ダリスが養子として引き取った黒髪の少年、ラウル=エバスト。もうじき十三歳になる彼は、口も素行も悪いが根は優しい子だ。冗談半分に「独身のくせに子供を引き取るなんて何を考えてるんだか」とは言うものの、これまで養父の結婚観について口を挟むようなことはしてこなかった。
「最近、また『お稚児説』が浮上しているものですから、いきり立っているのでしょう」
「そういう話をどこから聞きこんでくる?」
 目を剥くダリスに、オーロはしれっとした顔で答えた。
「神殿内の会話に耳を傾けていれば、自然と入ってくるものですよ。大体、そういう話が上がってくるのは、どこかの誰かさんが独身主義を貫いていらっしゃるからじゃありませんか?」
 的確過ぎる指摘にぐうの音も出ないダリス。しかし、これまで散々見合いの話を持ち込まれても、名だたる女優や貴族の未亡人に露骨な秋波を送られても、頑として独身を貫いてきた男が、秘書に皮肉を言われた程度で主義を曲げるはずもない。
「私ももう五十過ぎだ。今更結婚なんて考えられんよ」
「その台詞、ウェストーク卿の御前で仰る度胸はおありですか」
 妻と死別して数十年、ダリスと同じく独り身を貫いてきた古い友人が、お忍びで出かけて行った市場で『運命の出会い』を果たし、結婚式を挙げたのはつい一月前の話だ。
 その挙式の際に「お前も早く嫁さんをもらえ!」と豪快に背中を叩かれたことを思い出し、やれやれと苦笑するダリス。
「げに儚きは男の友情というやつだね」
「麗しき、の間違いじゃありませんか」
 もっとも、ウェストーク卿が再婚なのに対し、ダリスの方は結婚歴がないのだから、これまた事情が変わってくる。
「先日もご実家から釣書が送られてきたじゃありませんか。あれはどうしたんですか?」
「どうしたも何も、結婚する気がないのに目を通すのもかえって失礼だろうよ」
「……前から不思議に思っていたんですが、どうしてそこまで頑なに独身を貫こうとされているのですか?」
 さも心外だというように目を見開き、にやりと笑うダリス。
「さすが、婚約すると考え方も改まるようだな、オーロ。少し前までは『結婚なんて考えられない、何よりも仕事が一番だ』と言っていたのはどこの誰だ?」
 手痛い反撃に、そばかすの残る顔をわずかに紅潮させて、オーロはわざとらしくゴホンと咳払いをした。
「私のことはともかく! 秘密主義も結構ですが、ラウルにはきちんと納得のいく説明をしてあげないとかわいそうですよ」
「そう、だな」
 窓の向こうに広がる空をぐいと見上げるその瞳は、まるで太陽を手にしたいと駄々をこねる子供のような、もどかしさと憧憬をないまぜにしたような不思議な色を帯びている。
「――やれ男色だ、小児性愛者だと噂されるのも心外だしな。何か手を打つか」
「手を打つのも結構ですが、妹さんを出迎えるのが先ですよ」
「……思い出させてくれるなよ」
 有能な秘書にぴしゃりとやられ、今度こそがっくりと頭を垂れるダリスであった。