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第一章[5]

 村はずれの丘に細く刻まれた道を登っていくと、妙なる笛の音が遥か頭上から響いてきた。
 物悲しい旋律は、すでに聞き慣れたもの。その心震わす音色に耳を傾けつつ、丘を登り切る。
 小高い丘の上には小さな建物と、それに寄り添うように聳える一本の大木。そのがっしりとした枝に腰掛けて、アイシャがこちらを見つめていた。
「遅かった」
 区切りのいいところで笛を唇から離し、枝に腰掛けたままで話しかけてくるアイシャ。
「ああ。村長の所に寄ってきたからな。……どうだ?」
 短い問いかけに、アイシャは黙って首を横に振った。その答えにさして落胆した様子もなく、ラウルはそうか、と答える。
「まあ、竜にも都合ってものがあるんだろうしな」
 竜笛は、その名の通り竜を呼ぶ笛だ。かつてこの笛の音に導かれ、炎の竜がこの地にやってきたのはまだ記憶に新しい。
 何かあったらすぐに呼べ。そう言っていた炎の竜キーシェ。そして、光の竜が予想外の姿で孵ったあの日から、毎日のようにアイシャは笛を吹いている。事の顛末を報告するため、そしてなぜルフィーリが子供の状態で孵ったのかを尋ねるために。
 どんなに遠く離れていても、笛の音は竜の耳に届くのだという。それなのに、三月ほど経った今日まで、あの気障ったらしい竜は姿を現していない。
「振られたのかもしれない」
 真顔でそんなことを言いながら、アイシャはひらり、と梢から飛び降りる。冗談ともつかないその台詞に苦笑しながら、ラウルは小屋へと向かった。

「らうっ! おかえりっ!」
 居間の扉を開けるなり飛びついてきた少女をとっさに抱きとめ、やけに静かな部屋の中をぐるりと見回す。
 誰もいない居間に、薪のはぜる音だけが静かに響いている。いつもならそこで書物を広げている人間がいないことに気づいて、ラウルは後ろからついてきたアイシャに尋ねた。
「カイトのヤツは?」
「調べ物」
 端的な答えに首を捻ると、台所からひょいと顔を覗かせたエスタスが、苦笑しながらアイシャの言葉を補ってくれた。
「なんだか急に、調べ物だって言って飛び出してったんですよ」
 相変わらず、思い込んだら一直線のカイトである。そうか、と答えて、ラウルは小脇に抱えていた袋を机の上に投げ出した。金属がぶつかるような音に、少女が首を傾げる。彼女にとっては馴染みのない音だが、エスタスにはその正体がすぐ分かって、怪訝そうに尋ねてきた。
「どうしたんですか、その金」
「村長に頭下げて借りてきた。こっから首都まで出向くには色々と入用だからな」

 ゲルクの家を出たその足で村長宅に向かったラウルに、事の次第を説明された村長は細い目を更に細めて喜びを現した。
「司祭様になられるとは、大出世ですね。これでわが村も安泰です」
 ゲルクと同じことを言ってくる村長に、げんなりとした顔で手を振るラウル。
「やめてくれ。俺はここで一生を過ごすつもりなんざ毛頭ないんだからな」
「それは失礼。ともあれ、昇進されるのは喜ばしいことです。きっと本神殿のお父様もお喜びでしょう」
 そんな言葉に、ラウルの表情が揺れた。どこか照れくさそうに頬を掻き、黙り込んでしまう彼を、村長は相変わらずの細い目で見つめる。
(あのくそじじいが……?)
 彼の養父、現在は本神殿長を務める大司祭は、彼をこの辺境の地に追いやった張本人である。
 世界各地に散らばる分神殿の情報は逐次中央大陸の本神殿へと寄せられている。ラウルの昇格もほどなくして彼の耳に届くことだろう。
(素直に喜んでくれるようなタマじゃないしな。きっと「まだそんな器じゃない」なんて言うんだろうが……)
 それでも構わない。ここまで面倒を見てくれた分の恩返しにはなるだろう。そして、不良息子を持ったと陰口を叩かれることもきっと減ることだろう。
 そう思う傍らで、彼の脳裏には本神殿を去ったあの日の光景が蘇る。
 厄介払いができて清々している、といった神官達の顔を笑い飛ばし、神殿を出て行ったあの日。何気なく振り返った時に目に飛び込んできた神殿長の顔には、明らかに失望の色が浮かんでいた。強張った頬、厳しい瞳。初めて見るそんな養父の顔に、ラウルの心は打ちのめされた。
 それまでどんなヤンチャの限りを尽くしても、養父はそれを厳しく咎めるようなことをしなかった。それなのに今度ばかりはラウルを突き放したのだ。
「ラウルさん?」
 次第に厳しくなっていくラウルの表情に、村長が訝しむように声をかける。はっと我に返ったラウルは、何でもない、と呟いて本来の目的に話題を転じた。金を用立ててくれないかという彼の言葉に、村長は快く頷いてみせる。
「勿論、お安い御用ですよ。本当なら馬車もお貸ししたいところですが、最低二月もかかるとなると、それはちょっと……」
「ああ、構わないさ。ひとまずエルドナまで行って、そこからは乗合馬車を使うつもりだ」
「そうですね。それが一番早いでしょう」
 そう言った村長は、ああそうだ、と一通の手紙を机の上から取り上げた。
「ラウルさんは覚えてらっしゃいますかね、エンリカのアシュトさんという方からの手紙なんですが」
 その名前を聞いて、すぐにあの虹色に輝く尾びれが脳裏に過ぎった。
「氷結酒を造ってるあの海人だろ。それがどうしたんだ?」
「いえね、なんでもちょっと気になることがあって、もしラウルさんが暇ならこちらへ来てもらえるよう取り計らってくれないか、と言うんですが……」
 エンリカはローラ国最北端の町だ。エルドナから北上した位置にあり、首都への道すがら立ち寄るには少々遠すぎる。
「急ぎではないようですから、帰り道にでも寄ってあげてくれませんか?」
「ああ、分かった。でも、なんで俺を?」
「さあ、詳しいことは全く書いてないんですよ。まあ、切迫している訳ではないようですし、私から事情を伝える手紙を出しておきますから」
「ああ、分かった。頼む」
 理由はどうあれ、わざわざラウルを名指しで呼んでいるのだから何かあるのだろう。そう思って頷くラウルに、村長はいつもすみませんねぇ、と頭を下げながら、今度は机の引き出しをごそごそとやり始めた。
「? まだなんかあるのか?」
「いえ、餞別代わりに差し上げたいものが……ああ、ありました」
 大分ごちゃごちゃしている引き出しの中からようやく目当てのものを探り当てて、村長はそれをすっとラウルに差し出した。
「餞別といっても大したものではありませんが、これをどうぞ」
 差し出されたそれは、どうやら地図のようだった。小さく折りたたまれた厚手の紙を広げると、首都ローレングの詳細な地図がそこに描かれている。しかも、あちこちに手書きの文字で「この宿がおすすめ」「ここの料理は絶品」「←近道」などと書き込まれている。
「なんだこりゃ」
「首都の案内図ですよ。ローレングは結構広いし、入り組んでますからね。それにあの街は最近何かと物騒みたいですから、気をつけて行って来て下さい」
「ああ、そうするよ」
 地図と金貨の詰まった袋を懐にしまい、踵を返すラウル。その背中に、村長は何気ない言葉を投げかける。
「困った夜には、地図をよく見てみるといいですよ」
 何のことだ? と振り返った時には、すでに村長はラウルに背を向け、机の上の書類と格闘を始めていた。答える気はない、とその背中が如実に語っている。相変わらず、食えない人物だ。
 そんな村長に小さく肩をすくめ、ラウルはそのまま村長の家を後にした。

「いやー、それにしても随分と細かい地図だよなあ。こんな詳細なの、カイトでも作れないんじゃないか?」
 村長からもらったその地図を興味深そうに見つめているエスタスの横では、アイシャが少女とあや取りをして遊んでいる。窓の外に広がる空はすでに茜色。もうじき夕の三刻の鐘が鳴る頃だ。
「おい、カイトの奴は一体どこまで行ったんだ?」
 夕飯の準備を一通り済ませて居間に戻ってきたラウルの言葉に、エスタスはさあ、と首を傾げてみせた。
「何しろ、いきなり『そうか、あれかもしれないっ! すいませんエスタス、ちょっと調べに行ってきます!』だったんで」
 まあいつものことだけど、と肩をすくめるエスタスに、あいつは何を考えてるんだ、と頭を抱えるラウル。すると、少女から紐を受け取ったアイシャが何気なく、
「フェージャ」
 と呟いた。え? と彼女を見る二人に、アイシャはすんなりとした褐色の指である方向を指し示す。
「カイトが走っていったのは、あっち」
 フェージャはエストにほど近い小さな村だ。カイトが勉強を教えている子供達の中には、このフェージャから通ってくる子供も少なくない。しかし、何の変哲もない田舎の村そのもののフェージャに、一体何をしにいったのやら。
「幼馴染とはいえ、あいつの考えてることはホントに分からないからなあ……」
 首を傾げたエスタスは、ふと耳を澄ました。小屋の外から聞こえてくるかすかな足音。あの聞き慣れた響きは間違いない。
「噂をすれば」
 そう呟くと同時に勢いよく扉が開く音がして、続いて居間にカイトが飛び込んで来た。
「分かりました〜!! やっぱり僕の記憶は確かでしたよっ!」
 額に汗を浮かばせ、長衣の裾は土埃にまみれている。汗でずり落ちた眼鏡をぐい、と引き上げてから、カイトは満面の笑顔で言ってのけた。
「ゲルク=ズースンは、四百年ほど前に傘を発明した山人なんですよっ!」
「……はぁ?」
 何を言い出すかと思えば、調べ物というのはゲルク=ズースンという名についてだったようだ。
 呆気に取られたラウル達を前に、カイトはつらつらと説明を始める。
「ええとですね、現在では傘というのは結構一般庶民にも普及してきたものと言えるでしょうが、その歴史と言うのは意外にも知られていないんですよね。というのも、傘自体が少し前までは高級品でして、貴族や王族、はたまた一部の聖職につく者しか……」
「要点を言え、要点を!」
 ラウルの怒声にカイトは一瞬むっとした表情を浮かべたが、すぐに再び口を開く。
「その傘を発明した人が、ゲルク=ズースンという方なんですよ。もとは鍛冶屋だったんですが、とある雨の折、ご婦人が馬車から降りるのに服や髪を濡らして難儀しているのを見かねて、雨を凌ぐ道具として傘を発明したんだそうです。その画期的な発明に彼は「貴婦人の憂いを断った偉大なる山人」として後世まで名を轟かせています」
「ほー」
「それはそれは」
 さほど感銘を受けていないらしい彼らの口振りに、カイトが頬を膨らませる。
「もう、折角調べてきたのに……!」
「調べろなんて言ってないだろうが!」
「だって気になりません? 僕、前から、ゲルク様の名前をどこかで見た気がしてて、ずーっと気になってたんですよ。これでようやくすっきりしました」
 その言葉の通りすっきりした顔をしているカイト。確かに、喉元まで出かかった言葉や記憶と言うのはもどかしいものだが、だからと言ってわざわざ隣村まで調べに行かなくてもいいものを。
「ん? それを調べるのに、なんでフェージャまで行ってきたんだ?」
「あそこの村には、数年前まで鍛冶屋をやってた山人のご隠居さんがいらっしゃるんです。その方に聞いてきたんですよ」
 山人の間では、その「ゲルク=ズースン」は変わり者の発明家として知られているという。傘の他にも衣服の皺を伸ばす熱鏝やバネ式の髪留めなどを開発した人物らしい。それにしても、実用品とはいえご婦人方に受けそうなものばかり発明しているのは、何か理由があるのだろうか。
「……入れ込んでる女でもいたのか、そのおっさんは」
 ラウルの言葉に、カイトが勢いよく頷いてみせる。
「そうなんです! なんでも、とある人間のご婦人に好意を寄せていたようで、種族を越えた愛っていうんですか、なんかもう、感動ですよね」
「……そうか?」
 山人の鍛冶屋といえば小太り・髭面・頑固者と相場が決まっている。好意を寄せられたご婦人の方はさぞ迷惑だっただろうな、などと思いつつ、ラウルはふと、ゲルクがなぜ、そんな四百年も前の山人の名を通り名として使ったのだろうと考えを巡らせた。その横では呆れ顔のエスタスがカイトを怒鳴りつけている。
「お前さあ、そんなくだらないこと調べてる暇があったら、さっさと荷造りしろって! 一番時間がかかるのお前なんだぞ、分かってるのか?!」
「わわ、分かってますってぇ。それじゃ僕は先に宿に帰ってます! ラウルさん、チビちゃん、また明日!」
 エスタスの剣幕に、わたわたと飛び出していくカイト。賑やかな彼がいなくなって、一気に居間は静まり返った。
 すでに外は夕闇が迫っている。カイトがいい加減に閉めていった扉をきちんと閉じて、ラウルはふと暖炉の前で寝転がっているルフィーリを見た。
 いつの間にあや取りをやめたのか、すでに半分ほど瞼を閉じて眠る体勢に入っている彼女に苦笑しつつ、その隣でやはり寝転がっているアイシャに尋ねる。
「チビには旅のこと、話したか?」
「話してない」
 あっさりと返ってきた答えに、ラウルはそうか、と呟いてルフィーリをひょい、と引き起こす。
「……らう?」
 寝ぼけたような声で呟く彼女の前にしゃがみこみ、しっかりとその目を見据えて、ラウルは口を開いた。
「いいかチビ。明日から、ちょっと長い旅に出る」
「るふぃーり、いっしょ!」
 間髪入れずに叫ぶ少女。さっきまでの眠そうな様子はどこへやら、目をぱっちりと見開き、食い入るようにラウルを見上げてくる。置いて行かれるとでも思ったのか、その必死なまでの表情に、ラウルは苦笑して頷いた。
「分かってる。お前も一緒だ。その代わり!」
 びし、と少女のおでこに人差し指を突きつけるラウル。
「一つ。竜であることを絶対に口にしない!」
「らう」
「二つ。竜としての力を一切使わない!」
「あぅ〜」
「三つ。俺と、一緒に行くエスタス達三人の言うことをちゃんと聞く!」
「うぅ」
「いいな、この三つを必ず守ると約束しろ。でなきゃ置いてく」
 厳しい顔のラウルに、少女はこっくりと元気よく頷いてみせる。
「るふぃーり、やくそく、するっ!」
「よし、言ったな。言ったからにはちゃんと約束を守るんだぞ」
「らぅっ!! おでかけっ! いっしょ、おでかけっ」
 飛び跳ねんばかりに喜ぶ少女。余りに嬉しかったのか、ついさっき言われたことも忘れてぽぉんっ、と宙に浮かび上がり、エスタスやアイシャの頭の上を飛び回っている。
「飛ぶなっ! 力を使うなつったろうが!」
「あした、から!」
 ちゃっかりとそんなことを言って尚も飛び回る少女。その調子の良さにため息をつきつつ、無邪気に喜ぶ彼女の顔を見ると、こんなに喜ぶならもっと早く外に連れ出してやれば良かったか、と思う。
 卵より孵って三ヶ月、雪に閉ざされていたとはいえ、この小さな村の中に閉じこもりっきりではさぞつまらなかったことだろう。今回の召喚状は、彼女を外の世界に慣らすきっかけをくれたようなものだ。
(これから先、ずっと人間社会に生きるつもりなら……覚えておかなきゃならないことはたくさんある)
 彼女がいつまでラウルのそばにいるのか、それは分からない。しかし、今日や明日でどこかに行ってしまう訳ではないのだから、それならば同居人として、ラウルが困らない程度には常識を身につけてもらいたい。それにはまず、竜としての正体をひた隠しにし、ごく普通の少女として振舞う術を身につけさせなければ。これはラウルのためだけではない、むしろ彼女のためだ。
 彼女が竜であることが知れ渡れば、また心無い人間達がそれを求めて押しかけるだろう。もしくは、どこかの竜が彼女を連れ戻しに来るかもしれない。
(……そんなことになって、鳴き叫ばれちゃかなわないからな)
――らう?――
 不思議そうな声が脳裏に響いてきて、ラウルは小さく首を振った。
 そう、ルフィーリの「声」は今も尚ラウルの心に直接響く。喜びも悲しみも、全てありのままに。以前よりその繋がりは希薄になったものの、どんなに離れていても彼女の声はラウルの魂に伝わってくる、逆もまた然り、だ。
 だからこそ。
「約束だぞ」
 力のこもった言葉に、少女が振り返る。そこには、珍しく真剣な顔つきをしたラウルの顔があった。黒い瞳で少女をひたりと見据え、ラウルは繰り返す。
「約束だ、ルフィーリ。いいな」
 滅多に呼ばない名前を呼ばれ、少女は弾かれたように動いた。ラウルの目の前に着地し、その右手を引き寄せて小さな小指を絡める。
「らう! やくそくっ」
 それは子供達の間で用いられる約束の証。絡められた小指に、ぎゅっと力が込められる。
「よし」
 真剣な顔の少女に、ラウルもまたいたく真面目な顔で指切りをして、そして立ち上がった。
「さて、早いとこ飯を食って、荷造りに取り掛からないとな」
「るふぃーり、てつだうっ!」
 いつも以上にはしゃぐ彼女に苦笑しつつ、ラウルはしがみ付いてくる少女が落っこちないように支えてやりながら、台所へと向かって歩き出した。

 
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