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第二章[1]

 首都ローレングは王城を中心に円形に広がった大都市だ。人口は約二万人、この北大陸では二番目に大きな都市ということになる。文化や経済の中心地であり、また東には港を構え東大陸との貿易が盛んに行われている。
 町の中心に聳え立つ白亜の王城ファトゥールは、街のどこからでもその優美な姿を拝むことが出来る。そしてその王城の比較的近くに、ラウルが目指すユーク分神殿はあった。城を目印にすれば迷うことはないと宿屋の主人は言っていたのだが……。
「なんだよ、この入り組んだ街は……」
 坂道を登りながら、思わず愚痴が口をつく。さっきからもう半刻以上歩いているというのに、一向に目的地に到着しない。それどころか、どんどん違う方向へ進んでいる気がする。
「参ったな……」
 途方に暮れるラウル。誰かに道を尋ねようにも、さっきから人っ子一人通らない。
(とっとと挨拶を済ませて戻ろうと思ってたのによぉ……。こんなことなら昼飯食ってくればよかった……)
 首都ローレングにラウル達が足を踏み入れたのは、昼も間近のことだった。もっと前に到着はしていたものの、正門で行われていた出入り者の確認に長蛇の列が出来ており、ようやく順番が回ってきたのは到着して半刻も経ってから。確認自体はすんなり終わり、門をくぐった彼らが最初に向かったのは、村長お勧めの宿屋『幻獣の尻尾』亭だった。
 宿の前で三人と、そしてエスタスの背中で熟睡している少女と別れ、一人ユーク分神殿へ向かったラウル。取り急ぎ到着した旨を伝えようと、せめて昼ご飯を食べてから行けば、という言葉を振り切って出てきたのだが、ものの十分もしないうちに見事な迷子になってしまった。
 ローレングは高低差が激しいことでも有名な場所だ。もともとが台地に築かれた都市だけに、あちこちに坂がある。それだけでなく、三百年の歴史の中で幾度か市街地の拡張工事が行われており、結果、旧市街と新市街とが複雑に入り混じって、まるで迷路の様相を呈している。
 地図があるなら大丈夫だろうと考えていたのが甘かった。ともあれ、もう一度地図を確認しようと立ち止まったその時。
「お兄さん、何かお困り?」
 甘ったるい声にハッと振り返る。と、そこに一人の女性が佇んでいた。
 白粉の匂いと安っぽい香水の香り。淡い色の服は胸元が大きく開いていて、白い肌が覗いている。昼だというのにとろんと眠そうな目をしてこちらを見上げているその女性は、ラウルの手の中にある地図を無遠慮に覗きこんで、楽しそうに笑ってみせた。
「あらやだお兄さん、うちの店にご用?」
「うちの店?」
 首を傾げるラウルに、女性はほら、と地図の一点を指差してみせる。そこには村長の文字で「お勧め」と書かれた一軒の店があった。大きく丸までつけられたそこは、他の「お勧め」とは違って店の名前も、その種類も書かれていない。
「ほらぁ、ここでしょ?」
 そう言って地図を差した指をぐい、と背後の建物に向ける女性。古びた二階建ての建物。まだ準備中なのか扉はぴたりと閉じていたが、その上に掲げられた看板を見てラウルはやれやれ、と呟いた。
(どういうつもりで「お勧め」なんて書きやがったんだ……)
 古ぼけた、けばけばしい装飾の看板。そこには凝りに凝った飾りつきの文字で『鈍色の夢亭』と書かれている。看板の縁取りはどぎつい赤紫。刹那の快楽を意味する夕暮れと夜明けの色は、全国共通の目印。
 そう、それは紛れもなく『娼館』だった。村長が気を利かせたのか、それとも本当に彼の「お勧め」なのかは定かではないが、全く人の悪い。
(何考えてるんだ、あいつは……!!)
「まだ開店時間には早いけど、お兄さんみたいな色男なら大歓迎よぉ」
 妖艶な笑いを浮かべ、するりと腕を絡めてくるその女性をやんわりと制して、ラウルは尋ねる。
「魅力的なお誘いだが、急いでるんだ。悪いがユーク分神殿への行き方を教えてくれないか?」
 途端に女性は顔をしかめてみせる。
「あんな辛気臭いところに用があるわけ?」
 酷い言われ様だが、これが世間一般の「ユーク神殿」に対する認識である。まあ、墓場を併設しているのだから致し方あるまい。
「仕事でね。ただ、首都は初めてなんで、迷っちまったのさ」
 その言葉に、そりゃそうでしょう、と頷く彼女。その拍子に、適当に結わえただけの亜麻色の髪がはらり、と一房滑り落ちてきたのを、すいと掻き上げる。そんな細かな仕草までがいちいち色っぽい。
「特にこの辺りは、住人ですら迷子になるような場所だものねえ」
 そう言って、彼女はラウルに地図を広げさせ、現在位置からユーク分神殿までの最短行程を指でなぞってみせた。複雑な道のりに眉をひそめるラウルを見て、二度、三度と同じ道を示してくれる。
「パリーの分神殿、噴水広場、王立研究院と辿って行けば着くわよ。でも、今の時間は入れないと思うけどなぁ」
「入れない? どういうことだ」
「今月のニ十日が、三年前に亡くなった第二王妃の命日にあたるもんだから、今月中は昼の二刻から四刻まで長ーい礼拝をやってるんだって。だから、その間は誰も入れないらしいわよ」
「へぇ……」
 なるほど、首都のユーク分神殿は往々にして王家の菩提を弔う役目を担うことから、その結びつきも強固なものとなる。それが故の大それた礼拝なのだろう。二刻もかかる礼拝など、形式を重んじる王家や貴族相手でなければ到底行わないものだ。
 ユークの祈りは死者だけでなく、残された者達への祈りでもある。恐らくは、王妃を亡くした国王の悲しみが未だ癒されていないのだろう。第二王妃が亡くなってからまだ三年、悲しみが尽きるにはまだ早いか。
 しかし、とんだ時に来てしまったものだ。何しろ、ついさっき昼の二刻を回ったばかりである。今から宿屋に戻るのも面倒だし、だからといって時間を潰すにはこの街を知らな過ぎる。下手にうろつけばまた迷子になりかねない。
 と、そんな彼の心中を汲み取ったのか、
「だからさ、あたしと時間を潰そうよ、ねえ?」
 再びすり寄ってくる女性。「どう」時間を潰すんだ、などと野暮なことは聞かずに、ラウルは少しだけ迷ったふりをする。
「そうは言っても、白粉の匂いをさせて神殿に行くわけにも行かないだろ?」
「あら、旅の埃にまみれた体で行くよりましってもんじゃない」
 そう言われて苦笑を漏らすラウル。彼女の言葉にも一理ある。取り急ぎと思って荷物も解かないまま来てしまったが、旅装束もいい加減薄汚れているし、何より文字通り土埃にまみれているときた。
「うちならお湯も使わせてあげられるわよ? だから、ね?」
 上目遣いで見上げてくる彼女に、ラウルは降参だ、とばかりに肩をすくめてみせた。
「それじゃ、お言葉に甘えるとするか。お手柔らかに頼むぜ、姐さん」
 その言葉に、彼女はわざとらしい歓声を上げてラウルの腕に絡みつくと、さあどうぞ、と建物の中へ彼を誘った。


「……後継者争い?」
 上着に袖を通しながら、彼女の口から飛び出た言葉に首を傾げる。素肌に上掛けを羽織っただけの姿で寝台に腰を降ろしていた彼女は、ラウルの言葉にそうよ、と相槌を打つ。
 首都に来るのは初めてだという彼に色々と話してやっているうちに、話題はどんどんと街で囁かれる噂話へと移っていた。最近のローレングは何かと騒がしく、噂話には事欠かない。中でも市民の間で持ちきりなのが、この後継者争いの話題だ。
「ここしばらく、王様のお加減があまりよくないんですって。もういいお年だしね。で、王位継承権を巡って王宮内が二つに分かれてるらしいって、噂よ。うわさ」
 王には子供が二人いる。今年十八になる王子ロジオンと、今年十五になる王女ローラ。通常ならば年上の王子が王位を継ぐのだが、この王子は生まれつき病弱で、一年の半分ほどを床で過ごしている。それ故に、この国の祖が女王であったこと、そして代々の第一王女はその名を冠し、国の象徴と称えられることから、ローラ王女こそ次代の王に相応しいと考える者も多い。
 かくして、王子派と王女派に分かれて繰り広げられる後継者争いは日に日に激化し、どちらが後継者になるかという話は市民の間でも持ちきりだ。
 しかし肝心の当事者二人といえば、片や病弱、片や王が溺愛しているために滅多に国民の前に姿を現すことがない。噂では二人の仲は悪く、王宮内でも滅多に顔を合わせないのだというが、真相のほどは定かではない。
「どこでもそんな噂は流れるもんだな」
 かつて、彼が暮らしていた王都でもそんな噂が日常的に囁かれていた。中央大陸全土を支配する大国だけに、その後継者選びには様々な思惑が絡んでくる。まして現在の国王は王妃の他に何人もの妾を抱えており、その子供の数も半端ではない。
 それに比べれば、この国の王は王妃が二人、子供が二人と極めてつつましい。それでも後継者争いが起こるというのだから、王家というのはつくづく、大変なところである。
「ま、あたしらに言わせれば、ここで商売させてもらえるなら誰が次の王様になろうが構わないんだけど」
 そう答えて、彼女はこの話はもうおしまい、とはかりに髪をいじり出す。
「ま、そりゃそうだな」
 そう呟きながら、ラウルはようやっと上着の合わせ目を全て結び終えて一息つく。その神官服の胸に揺れる聖印を見て、彼女は思い出したように小さく笑った。
 闇と死の神ユークの意匠が彫りこまれた聖印。どんな時も彼はこれを体から離さない。とはいえ、素人目には聖印であることは分かっても、それがどの神のものかは判別がつかない。そう言って尋ねてきた彼女に「ユークだ」と答えて、大層驚かれたものだ。
「それにしても、いいのぉ? 神官さんが昼日中からこんな所で遊んでて」
「誘ったのはどっちだよ」
 苦笑するラウルに、彼女もまた笑ってみせる。
「そりゃそうだけど。まさかこんな男前が神官さんだなんて思わないじゃない? しかもユークだなんてさ。あそこの神官ときたら、辛気臭いわ厳しいわ陰険だわ、もうほんと、お近づきにはなりたくないって感じなんだから」
 救済活動でこの辺りに来ることも多いというユーク神殿の神官達に、彼女はいい印象を持っていないようだった。思い出すのも嫌、とばかりに顔をしかめて、言葉を続ける。
「特にあの副神殿長っていう男が、もうほんっと嫌味ったらしいヤツでねぇ。見るのも汚らわしいって目であたし達を見るんだもの。嫌なら来るなってのよ」
 憤慨してみせる彼女を横目に、ラウルは腰紐をきっちりと結び、いつものように飾り紐で小刀を後ろに固定して着替えを終えた。久しぶりに着用する神官服は、やはり体に馴染んで動きやすい。しかし、中途半端に伸びた髪がどうにも鬱陶しくて、下ろすたびに憂鬱になる。
 まだ水気を帯びた髪に手をやり、荒っぽい手つきで髪を整えようとしているラウルを見かねて、彼女は寝台から腰を上げた。
「やったげるわ。座って」
 そう言って彼を椅子に腰掛けさせると、近くにあった小机から櫛を取り上げ、丁寧にラウルの黒髪を櫛づけていく。肩より少し長く伸びた髪は、さしたる手入れをしていない割には艶やかだ。
「きれいな髪よねえ。黒髪って憧れちゃうわ」
 などと言いながら手際よく髪を梳く彼女に、なすがままのラウルはそんなもんかね、と呟く。
「黒い髪はそんなに珍しいか? 俺の生まれたところじゃ、さして物珍しいもんじゃなかったんだが」
「珍しいわよ。ここの人間は得てして色が薄いからね。ああ、でも――」
 そこで言葉を切って、ぐいと髪をまとめる。丁寧に整えた髪を紐でくくると、彼女は満足げに頷いて櫛を置いた。
「でも?」
 振り返って尋ねるラウル。彼女はくすり、と笑って、結び終えた髪を軽く引っ張る。
「あの《月夜の貴公子》も、黒髪だって話よ」
 《月夜の貴公子》。それは、エルドナで噂を聞いたあの怪盗に他ならない。出現から三月ほどたった今もこの怪盗は捕まっておらず、守備隊は躍起になってこの怪盗を捕まえようとしているという。
「なんだ、その怪盗を見た奴なんかいるのか?」
「今までに、ただ一人だけね。とはいっても夜道を歩いてた酔っ払いの話だから眉唾物だけど」
 暗闇の中、屋根から屋根へ飛び移る怪しい人影を目撃したというその酔っ払いだが、闇夜に紛れて顔はおろか背格好すら定かではなく、それが男か女かも分からなかったという。ただ一つだけ、一本に束ねられた黒髪が夜空に舞うのを見た、と証言しているが、暗闇での色の識別は困難だ。あるいは髪ではなく襟巻きのようなものがたなびいていただけかも知れないし、真相は未だ闇の中である。
「もしかしてお兄さん、その怪盗なんじゃないの?」
 からかうような口調の彼女に、ラウルは大げさなまでに顔をしかめてみせた。
「冗談じゃない。第一、俺はついさっき、この街に着いたばっかりだぞ」
「分かってるわよ。言ってみただけ。でも気をつけなさいよ? 今、守備隊はそりゃあもう血眼になって怪盗の正体を暴こうとしてるから、黒髪だってだけで連行されかねないわよ? なんてったって、今度は王宮に予告状が送りつけられてきたって言うんだから」
「予告状ねえ……大した盗賊だ」
 呆れ返った声で言うラウルに、彼女も苦笑いを浮かべる。
「怪盗だなんて名乗ってるんだから、まず相当に図太い神経の持ち主だよね。しかも今度の目標は、ずばり「王女ローラ」その人だっていうんだから、今、王城は水も漏らさぬ厳重な警戒態勢らしいわよ。ご苦労なことだわ」
「王女ローラが標的?」
 王族を誘拐して身代金を得る、という狙いなのだろうか。しかし、予告をして誘拐するというのも馬鹿げた話だ。そんなラウルの疑問を察して、彼女はほらぁ、と言葉を続ける。
「この怪盗、初代ローラ姫にまつわるものを収集してるらしいから。その仕上げが、彼女の血を引く現ローラ姫だってわけ」
「……何を考えてるんだ、その怪盗は」
 そこまで「初代ローラ姫」に拘る理由は何なのだろうか。ラウルでなくとも疑問に思うその「理由」については、巷でも色々な推測が飛び交っているらしい。
「さあね。ともあれ、普通じゃないことは確かよ。ここまで来るともう変態よね、変態」
 と、遠くから鐘の音が響いてきた。三回、そして四回。昼の四刻を示す鐘の音に、ラウルは椅子から立ち上がる。
「もう行っちゃうの?」
 名残惜しげに言ってくる彼女の頬につい、と手を伸ばしながら、ラウルは小さく笑ってみせた。
「仕事なんでね。ゆっくり出来なくて悪いな」
 お別れの挨拶に、と彼女の頬に唇を寄せて、そういえば、と彼女を見る。
「あんたの名前、聞いてなかったな?」
「あら、あたしも聞いてないわよ?」
 思わず目と目を合わせて、次の瞬間同時に小さく噴き出す二人。
「ラウルだ」
「シルビアよ。また遊びに来てよね」
 素早くラウルの頬に口づけをして、シルビアはにっこりと、とびっきりの笑みを浮かべてみせた。

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