第三章[4]
(ひどい……!)
 いつになく真剣な顔をして手配書を睨みつけている少女の背中に、男は今日だけで三度目の言葉を投げかけた。
「ティーエ。いつまで睨めっこしてるんだ」
 苛立ちのこもった声にびくっと翼を震わせて、空人の少女は恐る恐る背後を振り返る。
「ご、ごめんなさい、ギルド長」
「非番の日にまで顔を出すたあ殊勝な心がけだが、そこにへばりつかれちゃ通行の邪魔ってもんだ」
 話している間にも、男の前には各地から集められた書簡や小包が続々と積まれていく。それらをてきぱきと仕分けながら、ギルド長と呼ばれた男は掲示板の前で肩を落としている若き配達員の顔を覗き見て、小さく溜め息をついた。
「まあ、心配なのは分かるけどな」
 彼女が食い入るように見つめている手配書は、数日前に首都ローレングから回ってきたものだ。そこに記されているのは、怪盗《月夜の貴公子》と名乗り、ローレング中を混乱に陥らせた男。更には王城へと乗り込んで王女ローラを誘拐し、今もなお逃亡中だというその人物こそ、ラウル=エバスト。
 エストの村の卵神官としてこの近辺でも有名な彼は、いまや国中にその名を轟かせていた。しかも、あろうことか王女誘拐犯として、だ。
「しかし、誰が描いたか知らないが、何度見ても下手くそな人相書きだ」
 手配書をちらりと一瞥して呟く男。その言葉にはティーエも同感だったらしく、うんうんと大きく頷いてみせる。
「そもそも、この手配書自体がおかしいんですよっ! 神官さんが怪盗《月夜の貴公子》だなんて、何かの間違いに決まってます。だって、怪盗が暗躍し始めたのは今年の初めでしょう? その頃、神官さんはエストにいたはずなんだから」
 つい最近まで、エストを含む辺境地域は雪に閉ざされていた。まして年明けからしばらくは、伸ばした手の先すら見えないような猛吹雪が続いていたのだ。そんな中、首都とエストを何回も往復するような真似など、常人に出来るはずもない。
(どうして、神官さんが指名手配なんか……)
 彼が仕事で首都に出向いていることは、配達の折にエストの村人から聞いていた。何でも昇格するらしいと聞かされて、自分のことのように喜んだものだ。
 それなのに、一体首都で何があったのか。それを確かめようと首都方面担当の配達員に尋ねて回ったりもしたが、てんで真相がつかめない。
 かくして、苛立ちを隠し切れないティーエは手配書へと怒りの矛先を向け、不毛な睨めっこを続けているというわけだ。
 もしかしたら彼女は、そうすることで少しでも、手配書に向けられる人の目を減らしたいのかもしれない。しかし、それは無駄な努力と言えよう。なにせ手配書は町中に貼られているのだ。ここだけ隠したところでどうにもならない。
「ねえギルド長。こんな嘘っぱちの手配書なんか、早く剥がしちゃいましょうよ。町の人達もみんな、こんなのおかしい、あの神官さんがそんなことするはずないって言ってますし、ね?」
 そんなティーエの言葉に、男は手を止めることなく答える。
「まあ落ち着け。あの神官さんが怪盗なんかじゃないってことは、ちょっと調べればすぐに分かる。だからきっと撤回の知らせが来るさ。それまでは一応、貼っておかなきゃまずいんだ。勝手に剥がしてみろ、警備隊に何を言われるか分からんぞ。だからお前さんも――」
 いい加減にそこから離れたらどうだ、と言いかけた男の言葉を遮って、ティーエはどん、と近くの机を叩いた。
「いやです! 神官さんがこんな風に晒し者になってるなんて、もしエストの人達に知られたら……!」
 そこまでまくし立てて、はっと口を閉ざすティーエ。その手が無意識のうちに配達鞄へと伸びたのをしっかり目の端に捉えながら、男は何気ない調子で呟いた。
「そうだなあ、エストの人間は今頃、気が気じゃないだろうな」
 途端にほっと肩の力を抜いたティーエに、にやりと笑って尋ねる。
「で? お前さん、非番なのに何でまた配達鞄なんか背負ってるんだ?」
「!!」
 飛び上がらんばかりに驚く少女に豪快な笑い声を上げて、男は麻紐でくくった手紙の束をほいよ、と投げてやった。
「暇なら配達に行って来い。北西地区のアイシャス分神殿だ」
「は、はいっ!」
 これ以上余計なことを口走ってしまわないうちにと、ティーエは慌てて部屋を飛び出した。


「これは一雨来そうですねえ」
 頭上に広がる灰色の空を見上げて、男はどこか嬉しそうに呟いた。
 昼頃まではあんなに青く澄み切っていた空は、昼を過ぎた辺りから急速に色を失い、風に混じる土埃のような匂いが雨の到来を告げている。
 しかし、雨は天からの恵みだ。男の暮らす村では大麦の種まきがようやく一段落したところで、これから収穫の時期までにどれだけ太陽と雨の恩恵を受けられるかで、作物の質や量が決まる。
「降られないうちに用事を済ますとしますか」
 帽子をぐいと被り、足早に歩き出した男だったが、ふと頭上から響いてきた羽音に気づいて足を止める。
「おや?」
 見上げれば、遥か空の高みに空人の姿があった。深緑の制服に身を包んだその姿は、伝令ギルドの配達員であることを示している。地上からでは顔まで見分けることは出来ないが、その明るい薄茶色の髪と純白の翼に見覚えのあった男は、すぐに大きく手を振って呼びかけた。
「ティーエさーん! ティーエさんじゃありませんかー?」
 その声に、空人の動きがぴたり、と止まる。
「え? ああっ、村長さん?!」
 やけに焦った様子で翼を翻し、通行人を避けて建物の角に降り立つティーエに、小走りでやってきた男はにこやかな笑みを向けた。
「いやぁ、こんなところでお会いするとは思いませんでしたよ」
 穏やかな口調、開いているのかいないのか分からないほど細い目。村長さんことヒュー=エバンスは、ひきつったような顔をしてこちらを見ているティーエに、おや? と首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いっ、いえっ!!」
 半分ほど裏返った声で答えるティーエに、村長はただ「そうですか」と答え、そして唐突に話題を変えた。
「お仕事中ですか?」
「は、はい。……村長さんは?」
「ええ、先日あなたが届けてくださった手紙なんですが、あれが古い友人からのものでして。なんでも所用でこの町にしばらく滞在するというので、久しぶりに顔を見たいと思ってやって来たんです」
 さらりと嘘をつきつつ、そこで一旦言葉を区切った村長は、少々わざとらしくぽん、と手を打った。
「そうそう。実は私、ここに来る途中で妙な噂を聞きましてね」
 白い翼がばさり、と震える。小さく悲鳴を上げそうになったティーエをひたり、と見つめ、村長は更に言葉を続けた。
「ティーエさん。私も詳しいことは知らないんです。良かったら、教えてくれませんか? この……」
 そう言って彼が懐から取り出したのは、一枚の紙切れ――。
「手配書について」
 どこか冷たい響きを伴った声音。しかし、何か適当な言い訳がないかと必死になっていたティーエはそのことに気づかず、逡巡の末にようやく観念して頷いた。
「……分かりました。お話します」


「あなたは優しい方ですね」
 全てを語り終えたティーエに、まず彼が呟いたのはそんな一言だった。
「いえ、そんなこと……」
「謙遜することはありませんよ。村人のためを思って隠していたのでしょう? 彼らに代わってお礼を言わせてください。本当に、ありがとうございます」
「と、とんでもないですっ。ただ、私は神官さんが指名手配を受けるだなんて、何かの間違いだと思って……」
 すぐに撤回されるに決まっている。それならば最初から配る必要なんかない。そう思って、規則違反と知りつつも手配書を配らなかった。
「その……本当にごめんなさい」
 すっかり小さくなっているティーエに、村長はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。謝られることなんかありませんよ。私もティーエさんと同意見です。あのラウルさんが怪盗《月夜の貴公子》であるはずがない。王女誘拐の件に関しても、恐らく何かの誤解でしょう」
 だから、何も心配することはありませんよ、と優しく言う村長に、ティーエはようやく表情をやわらげ、大きく頷いた。
「はい!」
「それじゃ、出して下さい」
「は?」
 きょとんとするティーエに、村長はずい、と手を突き出す。
「配るはずだった指名手配書です。まだ持っているのでしょう?」
「ど、どうして……?」
「さっきからずっと、その鞄を気にしているようですから」
 そう言われて、いつの間にか鞄を抱きしめていた自分に気づいたティーエは、小さく叫んで鞄から手を離した。
「ね。出して下さい」
「……はい」
 鞄の中から小さく折りたたんで隠しておいた紙束を取り出し、おずおずと差し出すティーエ。エストだけではなく、あの一帯に配られるはずだった手配書を受け取った村長は、それを素早く懐にしまい込み、にっこりと笑ってみせた。
「さ、これであなたはきちんと仕事を果たしたことになります。後のことは私に任せて、ティーエさんはお仕事を続けて下さい」
 そう言われて、自分が配達の帰り道だったことを思い出したティーエは、すっかり暗くなった空にひゃっと翼を震わせる。
「いっけない、早く帰らないとっ! それじゃ村長さん、よろしくお願いしますっ! あと、本当にすいませんでした!」
 つむじが見えるほどに頭を下げて、わたわたと飛び立っていく空人の少女。まもなく鈍色の空から落ちてきた雨の粒に、村長は慌てて近くにあった食堂の軒へと避難した。
 見る見るうちに強くなる雨足に嘆息しつつ、懐をごそごそとやりながら呟く。
「やれやれ……。あの人は本当に、騒動がお好きなようで」
 言葉とは裏腹に、その表情はやけに楽しげだ。そして、ようやっと取り出した一通の手紙を開きながら、小さく笑みをこぼす。
(これを見た時は、さすがの私もびっくりしましたが)
 つい先日、いつもの配達日とは異なる日に村へとやってきたティーエは、村長宛の手紙を一通だけ運んできた。時間が空いていたので、と弁解をしていた彼女の様子がどうにもおかしくて、何かあったのだろうと思いつつも、その時は何も言わなかった。
 そうして彼女が帰った後に手紙を開けてみたら、ローレング支部からの報告書だったわけだ。
 首都で起こった王女誘拐の顛末が詳細に記された報告書。ただ事実のみを記してあるにもかかわらず、笑いが込み上げてくるのはどうしたものか。
「全く、期待を裏切らない人だ」
 本人が聞いたら激怒するに違いない感想を呟きつつ、再三読み返した文章をもう一度目で辿る。この報告書によれば、彼らは北を目指して旅をしているという。どうやらエスタス達とは離れ離れになったようで、現在は王女とルフィーリ、そしてラウルの三人で旅を続けているらしい。
「さぞ、賑やかなことになっているんでしょうねえ」
 くすくすと笑いながら、報告書を懐に戻す。そうして、ちょうど扉を開けて顔を覗かせた食堂の女将へと人懐こい笑みを向けた。
「いやあ、すみません。急に降り出したもので、雨宿りさせてもらっています」
「おやまあ、それは難儀なことだね。どうせなら、中に入ったらどうだい? まだちょっと早いが、あったかいお茶くらいならすぐに出せるよ」
 商魂たくましい女将の言葉に、それでは、と扉をくぐる村長。暖炉の前に案内された彼は、女将の目を気にすることなく懐から紙束を取り出し、暖炉の火にくべた。
 たちまち灰と化す手配書。それを満足げに見つめ、おもむろに口を開く。
「それで? 何か新たな情報はつかめたのか」
「は、実は……」
 唐突な問いかけに、しかし傍らに控えていた女将は驚く様子もなく、淡々と言葉を紡ぐ。そうしてもたらされた新情報に、村長はわずかに目を見張った。
「それは、確かなのだな?」
「はい。ただ、詳しい状況までは掴めておりません」
 ふむ、と呟いて、しばし顎を捻っていた村長だが、すぐにいつもの表情に戻って苦笑を浮かべた。
「なるほど、やはり《鏡》越しに聞かないで正解だった」
 通常であれば、ギルドとの連絡は手紙、もしくは魔術を封じた鏡で行われる。しかし手紙では時間がかかるし、《鏡》にしても村人や家族の目などがあるから迂闊には使えない。農作業に追われるこの時期に、村長ともあろう人間が村を放り出してエルドナまで出てきたのはそのためだ。
「家でこの報告を受けていたら、きっと悲鳴を上げたに違いないよ。そんなことになって、あの子に気づかれたら大変だからなあ」
 のほほんと嘯く彼を横目に、そっと息を吐く女将。長年この男に仕えているが、その本心を汲み取ることは未だに難しい。冷徹な長としての顔と、柔和な村長としての顔。どちらも彼の一面に過ぎず、その奥底にはもっと違う「何か」が潜んでいるのではないかと、時折ではあるが不安に駆られることすらある。
「いやぁ、うちの息子はどうも勘が良くてね。やはり私の血を引いているからなのかなあ、嬉しいやら悲しいやら、いや、やはりここは喜ぶべきなのだろうな。とはいえ、私の若い頃に比べれば……」
 複雑な表情を浮かべる女将のことなど眼中にない様子で、頬を緩ませて喋り続ける男。放っておくと延々と続きそうな親馬鹿発言を制するべく、こほん、と咳払いをして、彼女は恭しく尋ねた。
「いかがしますか、長」
「調査を続行しろ。あとは彼らの足取りも正確に掴んでおけ」
「了解しました。そのように」
 一礼して厨房へ引っ込んだ女将を見送って、手近な椅子に腰掛ける。そうして、彼は分厚い窓硝子の向こうから響いてくる雨音に、やれやれと肩をすくめてみせた。
「これはまた、長引きそうですね。いやはや全く、困ったことで」

 そして。
 雨は、三日三晩降り続けた。