第三章[7]
「おっと」
 脇道から飛び出してきた子供に、ナジードは踏み出しかけた足を引っ込めた。それでも完全に避けきれず、勢いよくぶつかってきた小さな体を受け止める。
「大丈夫か、ぼうず」
「いってぇな、ぼーっと突っ立ってんじゃねえぞ、おっさん!」
 ナジードの体をぐいと突き放し、一丁前の悪態をつく少年。声変わり前の可愛らしい声に、ナジードはわざとらしいほど肩を落としてみせた。
「おっさんはひどいな、俺はまだ三十二だぞ」
 答えの代わりに舌を突き出して、一目散に走り去っていく少年。その悪ガキっぷりに苦笑しつつ、ナジードは再び雑踏の中に身を投じた。
(情報は、なしか……)
 普段は寂れた宿場町であるここも、先日の豪雨とそれに伴う川の氾濫とで足止めされていた旅人達がどっと押し寄せ、祭のような賑わいを見せている。旅人でぎゅうぎゅうの宿には空き部屋どころか空き寝台一つなく、ナジード率いる捜索隊は町外れに天幕を張っての宿営を余儀なくされた。その準備が済むまで情報収集を、と思って一刻ほど町中をぶらついてみたが、なかなか揮わない。他にも数人の部下が聞き込みを行っているはずだが、この分では大した成果は期待できないだろう。
(見当違い、か?)
 首都を発って二十日ほど、ここへ至るまでに有力な情報は一向に得られず、それらしい人物の目撃例もほとんどなかった。各地で賞金稼ぎも動き出しているようだが、怪盗と接触したという噂も聞かない。
 仕方無しに、町の酒場でたむろしていた旅人数人から話を聞いてみたものの、黒髪の旅人どころか怪しげな人物の目撃談すら出てこなかった。彼らとてすれ違う人間すべてを覚えているわけではないから、せいぜい仰々しく飾りつけた旅芸人の馬車や、賑やかに口げんかをしながら歩いていた子供連れの旅人くらいしか記憶にないという。
 そんな彼らに礼を言って酒場を出た後も、ナジードは町を彷徨い歩いていた。特に当てがあるわけでもないが、宿営地に戻っても、さしあたってやることと言えば定期報告しかない。たかが報告くらいさっさと終わらせてしまえばいいのだが、そうもいかないのが悩みの種だ。
 魔術を利用しての定期報告は水鏡を介して行われている。書簡でのやりとりとは違い、直接言葉が交わせるという利点は認めよう。しかし、報告の度に鏡の向こうから飛んで来る『まだ見つからないのか!? 一体何をやっているんだ!』という怒号に晒され、その後延々と愚痴めいた言葉を聞かされているのだから堪らない。
 声の主は、傍迷惑な大声と説教癖で知られる近衛隊長ヴァレル。その怒声は天幕の外まで響き渡り、当直の兵士までが耳を塞ぐほどだ。それを水鏡を介してとはいえ間近で聞いているのだから、さしものナジードもうんざりしていた。
(……ま、向こうも向こうで大変なんだろうがな)
 首都を離れたこの宿場町でも、人々は王女誘拐の話題で持ち切りだ。となれば、誘拐劇の舞台となった首都の混乱ぶりは想像に難くない。
 実際、首都からの報告によれば、街中では根も葉もない噂が飛び交い、尾ひれのついた話の中には「帝国の謀略だ」「混乱に乗じて隣国が侵攻してくるのでは」などという物騒なものも混じり出して、市民の間には不安と緊張が広がっているという。また首都への出入りが厳しくなったことで街壁の外には旅人が列を成しており、中には気が短い者や、姑息な手段を用いてどうにか首都へ入ろうとする者もいて、首都内外での騒動が絶えないらしい。
 事態を収拾するべく守備隊が治安維持に奔走する一方で、城内には前にも増して厳重な警備態勢が敷かれていた。王が忌まわしき呪いによって眠りに就いていることは公にされておらず、表向きは心労で倒れ静養していることになっているが、この機に乗じて良からぬことを企む人間が出て来ないとも限らない。
 誘拐された王女、昏睡状態の王。そして残されたロジオン王子もまた、事件直後から体調を崩して伏せっている。国内の混乱は日を追うごとに増し、やがては大きなうねりとなって国そのものを飲み込むだろう。
 一刻を争う事態に、しかし怪盗の影すら見出せない日々が続き、ナジード率いる捜索隊の間にも絶望感が漂い始めていた。これほど探して見つからないのだ。怪盗が足手まといになる王女を始末したという可能性も否定できない。
 表立って口にする者はなかったが、誰しもがその可能性を思い描き、そしてそれを打ち消そうとがむしゃらに捜査を続けていた。勿論、彼らを率いるナジードとて例外ではない、はずなのだが。
「……いや、まいったねホント」
 緊張感や焦燥感の欠片もない顔でぼやきながら、人の流れに逆らって歩き続けるナジード。そのとぼけた表情は余裕の表れか、それともただ不真面目なだけなのか。
 そうして人々のつむじを見下ろしながら悠々と通りを闊歩していたナジードは、程なくして通りの向こうから上がった声に大きく嘆息した。
「隊長ー! ナジード隊長!」
 周囲から頭一つ飛びぬけているナジードを発見し、脇目も振らずにやってくるのは、彼の使い走りとして日々こき使われている新参兵。なかなか戻ってこないナジードを探しに来たのだろうが、よほどあちこち走り回ったと見えて、気の毒なほどに息を切らしながら近づいてくる。
「やれやれ、もう見つかったか」
 折角だから、戻る前にどこかで一休みと思っていたのに、そうも言っていられないようだ。かの新参兵は至って真面目な気質だからして「どうだ、ちょっと息抜きに一杯引っかけに行こうじゃないか」などと言っても頷きはしないだろう。
「隊長ー!!」
 通り中に響き渡る声。柔らかな金茶の髪を揺らして走ってくるその様は、まるで主人の帰りを待ちきれずに飛び出してきた子犬のようで、ナジードは思わず苦笑を漏らしながら、かわいい部下の呼び声に手を挙げて応えてやった。


「川を渡る人影?」
「はい。先ほど旅人が話しているのを小耳に挟んだんですけど……」
 きっと何かの見間違いですよね、と話をまとめ、本題に入ろうとする少年にいや、と手を振って先を促す。
「面白そうじゃないか、話してみろ」
「は、はあ……」
 天幕の設営が終わったことを報告に来ただけのヒューゴは、他愛もない話題に乗ってきたナジードを不思議そうに見上げつつ、つい半刻ほど前に耳にしたことを話し出した。
 それは数日前の夕刻のこと。首都から伸びる旧街道とソブリズ川の交わる地点には古い木製の橋が架かっていたが、先日の大雨によって丸ごと流されてしまい、代わりに臨時の渡し舟が旅人達を対岸へと送り届けていた。そして、その日最後の舟に乗り込んだ旅人達は、わずか数分の船旅の最中、その人影を目撃したというのだ。
 金色に染まった川面をゆっくりと進んでいく黒い影。それはごうごうと流れる川の中を、水の抵抗など全く感じない様子で対岸へと移動していく。流れに沿うのではなく、岸から岸へと川を縦断していく影は、遠目にも人の姿に見えた。
 そうして、ほどなく向こう岸へ辿り着いた人影が岸へと上がり、そのまま雑木林の中に吸い込まれていくまでを、旅人達はしかとその目に見たという。
 そんな彼らが道端で、この街で合流したらしい別の仲間達と「きっと、鳥か何かを見間違えたんだ」「いや、あれは確かに人間だったぞ」などと言い合っている場面に通りかかったヒューゴは、その奇妙な話に興味をそそられ、思わず首を突っ込んでしまったんです、と頭を掻く。
 しかし、ヒューゴを聞き手に迎え、改めて事のあらましを語った彼らは、議論の末に「何かの見間違いだろう」という結論に達し、「目が遠くなったんだよ」「もう年なんだから」などと軽口を叩きながら酒場に吸い込まれていった。そしてヒューゴもまた本来の役目を思い出して、慌ててその場を後にしたのだ。
「……彼らの言っていた通り、何かの見間違いだと思いますけど」
 そう言って話を結ぶヒューゴ。ふんふんと頷きながら、興味深そうに少年の話を聞いていたナジードは、ふと真面目な顔で問いかける。
「それで? 具体的にどんな奴だったのかは分からないのか。目が三つあったとか、尻尾が生えてたとか」
「え、えっと、帽子を被った背の高い男に見えたって……」
「ほう。するってぇと……あんな感じだな」
「え?」
 何気なく雑踏の一点を示すナジード。その先に佇む者の姿に、ヒューゴは小さく息を飲んだ。
 夕飯前の賑わいを見せる商店街の外れ、行き交う人々を避けるかのように路地の入り口に立っていたのは、濃紺の外套に身を包んだ一人の男だった。
 つば広の帽子を目深に被り、何をするわけでもなく立ち尽くす男。そんな彼が不意に帽子を引き上げ、鋭い視線を投げかけてきたので、ヒューゴは思わず飛び上がりそうになった。
「ええっ!?」
 互いの距離は、辛うじて顔が判別できるほど。ましてこの人込みだ、視線に気付くはずもないし、先ほどのナジードの声とて喧騒にかき消されてあそこまで届きはしなかっただろう。それなのに、彼の瞳は確実に二人を捉え、何か文句でもあるのかと言わんばかりに睨みつけてくる。
「た、隊長っ……!」
「まあ、待て」
 驚くヒューゴを制し、ナジードは突き刺さるような眼差しを真っ向から見つめ返した。そして思いついたように手を挙げると、男に向かってくいくいと手招きをしてみせる。
「た、隊長っ!?」
「なあに、ちょっと話をしてみるだけさ」
「そんなっ……」
 意外にも、男はナジードの招きにあっさり応じ、人込みを掻き分けてこちらへ歩いてきた。その静かで無駄のない動きはさながら影のようで、まるで気配というものを感じさせない。
 そうして二人の前にやってきた男は、ナジードの顔を真正面からひたり、と見つめて口を開いた。
「私に何か用か」
 落ち着いた、しかしどこか冷たい響きを伴った声色。えもいわれぬ威圧感を感じてあとずさるヒューゴを横目に、ナジードは肩をすくめてみせる。
「そう怖い顔しなさんな。ちょいと気になる噂を聞いてね。それに出てくる奴の風体があんたにちょっと似通ってたんで、話をしたいと思っただけだよ」
 あっけらかんと言うナジードに、男はつい、と目を伏せた。
「どんな噂かは知らぬが、人違いであろう」
「まあ、そうだろうな」
 あっさりと返されて、おやと眉を動かす男。そんな彼の表情に気づかないふりをして、ナジードは独り言のように呟いた。
「いくらなんでも、あのソブリズを歩いて渡っちまう奴なんて、まず人間とは思えないからなあ」
 その言葉に男の目が一瞬光ったのを、ナジードは見逃さなかった。しかし余計なことは言わずにパタパタと手を振る。
「いやすまん、忘れてくれ。俺達はそんなことを調べに来たわけじゃないし、ましてそいつが誰かを襲ったなんて話も聞かない。被害が出ていないのなら、それがたとえ怪物だろうが幽霊だろうが、血眼になって探す必要もあるまい」
 投げやりなナジードの態度に、男はどこか皮肉めいた笑みを浮かべてなるほど、と呟く。
「賢明だな」
 口ではそう言っているが、その瞳はどこまでも冷ややかだ。氷のような眼差しに晒されて、しかしナジードは平気な顔で続ける。
「俺達の任務は人探しだ。誘拐された王女とその犯人を探しているんだが、なかなか情報が集まらずに苦労してる。あんたも何か情報を掴んだら、是非俺達まで知らせてくれ」
 じゃあな、と踵を返すナジード。固唾を呑んで見守っていたヒューゴが、その後を慌てて追いかける。
 男はそんな彼らを面白そうに見つめていたが、ふと思い出したように口を開いた。
「――私は金髪の少女を追っている」
「ん?」
 振り返るナジードに、男はさらりと告げる。
「怪盗と共に行動している、幼い子供だ」
「なっ!?」
 血相を変えたヒューゴが、思わず男に詰め寄ろうとしたその瞬間。
「また会うこともあるだろう」
 ばさり、と翻った外套に視界を奪われて、一瞬だけ目を瞑った。そして――。
 目を開いた時には、男の姿は跡形も無く消え失せていた。
「やれやれ、只者じゃないな」
 顎をつかんで呟くナジードに、呆気に取られていたヒューゴがはた、と我に返る。
「隊長! そんな呑気なことを……! 早く追いかけないとっ」
「無駄だな。今のは何かの術だ、もうこの近くにはいないだろう。それよりいいことを聞いた」
 ――怪盗《月夜の貴公子》は、王女以外に幼い子供を連れている――
 思いがけず重要な手がかりを得られた、と上機嫌のナジード。しかしヒューゴは険しい表情で、
「あんな怪しい奴の言うことを信じるんですか? まったくのでたらめかも知れないじゃないですか!」
「その他に情報がないんだ、調べてみる価値はあるだろうよ。お前さんは設営地に戻って、他の奴らにこのことを伝えてくれ」
 はいっ、と元気よく駆け出そうとして、はたと振り返るヒューゴ。
「隊長は?」
「俺か? 俺はちょっと酒場に用があるんでな……。なに、そう怖い顔をするな。さっき酒場にいた旅人がちょいと気になることを言ってたんでね。もう一度当たってみる」
 分かったらさっさと行け、とどやされて、ヒューゴは渋々ながら全速力で走り出した。その背中を見送って、ナジードもまた歩き出す。 (あの男の言葉が本当なら……)  ヒューゴの言う通り、見ず知らずの、しかも怪しげな風体の男がもたらした情報を頭から信じてかかるのは危険かもしれない。しかし、今はどんな些細な情報も疎かに出来なかった。  そして。彼が真実を述べているのなら――。
「遠からず、また会えるだろうからな」
 誰にともなく呟きながら、酒場の扉をくぐる。途端に溢れてくる酒場独特の熱気とざわめき。それらを掻き分けながら忙しく働いていた給仕の娘が、彼の顔を見てあら、と声を上げた。
「さっきの隊長さんじゃない。忘れ物でもした? それとも今度はお客さんとして来たの?」
「いや、また仕事なんだ。悪いな」
 そう、と残念そうに呟く娘を尻目に、ナジードは旅人と常連客で賑わう店内をぐるりと見渡す。
「お、いたな」
 目当ての客はすぐに見つかった。先ほど話を聞かせてくれたのは、港町リトエルからはるばるやってきたという五人連れの男達。ほどよく酒の入った彼らは、やってきたナジードを見て陽気に声を上げる。
「やあ隊長さん、一緒に飲むかね?」
「そうしたいのは山々なんだがね、悪いがまだ仕事中なんだ」
 なんだつまらない、とぼやく彼らに人懐こい笑みを向けながら懐を弄る。その拍子にぱさり、と床へ落ちた紙切れに、ナジードはひょい、と眉を上げた。
「おや、恋文かい?」
「隊長さんも隅に置けないねえ」
 目ざとく見つけてはやし立てる酔っ払い達に曖昧な笑みを返して、拾い上げた紙切れをしまい込む。そしておもむろに煙草入れを取り出しながら、改めて切り出した。
「楽しくやってるところを悪いんだが、さっきの話をもう一度聞かせて欲しいんだ。ほら、旅の途中ですれ違ったっていう連中のことだよ」
「ああ、あれか? そうそう、派手な飾りをつけた旅芸人の馬車がねぇ……」
「あんたも聞いたことあるだろ、《七色の歌声》で有名なフィオ――」
「いや、そっちじゃない」
 蝋燭の火を差し出そうとした男に手を振り、革張りの煙草入れから一本抜き出して口の端にくわえる。
「もう一組の方さ」
 紫煙の代わりに吐き出された言葉は、どこか楽しげな響きを帯びていた。