第四章[1]
 セイシェルの森は迷いの森。足を踏み入れたが最後、出てくることは叶わない――。
「……なぁんて脅かされた割には、どうってことない森だよなあ」  倒木をまたぎながら、ラウルはぽつりと呟いた。
「何か言ったか、用心棒」
 背後から響いた王女の声に肩をすくめて振り返り、倒木の枝に服の裾を引っかけてジタバタともがいている金髪の少女に溜め息をつく。
「何やってんだよ、お前は」
「らうぅ」
「ああ、こら。動いちゃ駄目だ、破れてしまうぞ」
 慎重に裾を枝から外してやって、ほらと手を差し伸べる王女。その腕につかまってようやく地面に降り立った少女は、呆れ顔のラウルに頬を膨らませた。
「らうっ、おんぶっ!」
「却下」
 一言で切って捨て、不満げな少女の額を小突く。
「体力有り余ってるんだろ、てめぇで歩け」
 途端に上がる抗議の声を右から左に聞き流し、ラウルは辺りを見回した。
 鬱蒼とした森。真昼にもかかわらず薄暗い森には道らしき道などなく、うっすらと漂う霧を掻き分けながら、三人はセヴィヤの町で手に入れた情報だけを頼りに進んでいた。
「用心棒、ここからどう進む?」
 王女の声にちょっと待てと呟き、懐から方位磁針を取り出す。
(それにしても……本当に出口に向かってるんだろうなあ?)
 この抜け道を教えてくれた酒場の店主は、こんなことを言っていた。
「いいな。その目印の木にぶち当たった後は、とにかく西を目指すんだ。間違っても北に進んじゃいけない。そうすれば、森はお前さんらを快く解放してくれるだろう」
 つまりはそこに何かあるということなのだろうが、それ以上は何を聞いても教えてくれなかった。
 その忠告通りに森を歩くこと三日。最初の目印だった巨木を越えたあとは変わり映えしない景色が続き、同じところをぐるぐる回っているような錯角さえ覚える。
「これがなきゃ、きっと今頃迷子だな」
 方位磁針を覗き込もうとして、伸びてきた小さな手に気づく。見れば、いつの間にやら目の前にやってきた少女が、ラウルの手を引き寄せようと頑張っていた。
「なんだよ」
「らう、ほうこう、あってる?」
 いっぱしの口を利く少女にむっとしつつ、ほらこの通り、と方位磁針を突きつけようとして――次の瞬間、石のように硬直してしまったラウルに、二人は揃ってきょとん、と首を傾げた。
「どうかしたのか? 用心棒」
「らう?」
「……れてる」
「え?」
「これ……壊れてやがる!」
「何だって!?」
 慌ててラウルの手から方位磁針をもぎ取り、針の示す先をじっと見つめる。セディヤの街で情報を仕入れた際に一緒に買わされたそれは、東西南北を三十二に分けて記した円盤の上に北を示す磁針が取り付けられた、極めて単純な作りのものだった。針の半分は赤く塗られ、それが示す方向が北ということになる。なるのだが――。
「……狂ってるな」
 方位盤をあれこれ動かして、王女は溜め息混じりにそう断言した。針は動かすたびにふらふらと向きを変え、偽りの北を示し続ける。いつ壊れたのか、最初から壊れていたかどうかすら分からないが、とにかく今、彼らが迷子になっていることだけは確かだった。
「あのくそ親父……!! 何が『これがあれば絶対に大丈夫』だ!」
 あらぬ方向を向いて怒鳴るラウルを横目に、方位磁針をつついたり回したりしてきゃあきゃあ歓声を上げている少女二人。
「これ、ふらふら~って、してる。おもしろい~」
「あれ、今度はぐるぐる回り出したぞ? まるで時計みたいだ、面白いなあ。あっ、何するんだ用心棒」
「あのなあ……」
 状況を忘れて盛り上がる二人の手から方位磁針を取り返し、ラウルは疲れた顔で現状を説明してやった。
「はしゃいでる場合じゃないぞ、早く本当の北がどっちか見極めて進む道を決めないと、いつまで経っても森から抜けられないじゃないか。時間がないと言ったのはどこのどいつだ!?」
「すまない、つい……」
 途端にしゅんとなる王女にふんと鼻を鳴らし、使い物にならなくなった方位磁針を乱暴にしまい込む。
「そうは言っても、これじゃあな」
 鬱蒼とした木々に阻まれて空もまともに拝めない状況、加えてこの霧では、太陽の位置を確認することも出来ない。
「夜になるまで待って、星を確認するしかないか」
 下手に動けば命取りになる。ひとまずここで野宿の準備を、と言いかけて、ラウルはぎょっと目を見張った。
「なんだ、霧が……急に!?」
「らうっ、まわり、まっしろー」
 怯えたように足にすがりついてくる少女を宥めながら、注意深く辺りを見渡す。音もなく忍び寄ってきた霧は、今や伸ばした手の先が霞むまでに濃さを増していた。
「おい、ローラ!」
 すぐ傍にいたはずの王女の姿まで見えなくなって、慌てて声を上げる。するとすぐ目の前からぴょこん、と王女の顔が現れた。
「どうしたんだ、二人とも? 私はここにいるぞ」
 さも不思議そうに問いかけてくる王女に、目を見張るラウル。
「お前、だってこの霧が……」
「霧? ああ、確かにさっきより濃くなっているみたいだが、別に周りが見えないと言うほどではないだろう?」
 目を瞬かせて、ラウルは王女をしげしげと見つめた。すぐ目の前にいる彼女の姿が霞むほど、霧は濃くなっている。いまだ足にしがみついている少女も、同じように霧に巻かれて周囲が見えない状況に陥っているはずだ。
「ローラ、お前には見えてるのか? いや、見えてないのか」
「だから何がだ? おちびちゃんも、何をそんなに怯えている?」
 いつもと変わらぬ調子で言ってくる王女に、ラウルはよし、と呟いた。理由は分からないが、彼女にこの霧が見えていないというのなら、むしろ好都合だ。
「ローラ、太陽の位置が分かるか」
 訳が分からない様子ながらも、そろそろと頭上を仰ぎ見る王女。しかしすぐに駄目だ、と首を振る。
「登ってみないと無理だな。ちょっと待っていてくれ」
 言うが早いか、霧の中に消える王女。物音すら霧に吸い込まれてしまうのか、王女の様子は全く窺い知れない。
「らう~、ろーら、だいじょぶ?」
「大丈夫だ、すぐに戻ってくるさ」
 ラウルの言葉通り、間もなくして遥か頭上から、王女の声が降ってきた。
「おーい、聞こえるかー?」
「ああ、聞こえる! どうだ、太陽の位置は掴めたか?」
「だめだー! 雲に隠れてしまって、全然分からない。それより、天気が崩れそうだ、大きな雨雲が近づいてきてる!」
 ますます困ったことになった。この森の木はほとんどが針葉樹で、雨風をしのぐには向いていない。さてどうしたもんかと腕を組んだところで、再び王女の声がした。
「あっちに、何か光が見えるぞー!」
「光?」
「ひかり??」
 二人が首を捻っていると、目の前にぬっと王女の顔が現れた。
「どわっ!?」
「ろーらぁ」
 驚く二人に、王女は息を切らしながら右手をすいと伸ばし、霧の向こうを指し示す。
「あっちだ。そう遠くない場所で、何かが光っていた。梢に隠れてよく見えなかったけど、なんだか屋根みたいなものも見えた。もしかしたら、誰か住んでいるのかもしれないぞ」
「誰か、ねえ……」
 なんとも不確かな話だが、しかしここで雨に降られるのを待つよりはいいかもしれない。ラウルは足にしがみついたままの少女をひっぺがし、ひょい、と肩に担ぎ直した。
「おんぶっ! おんぶっ!」
「あほ、喜ぶな。この霧の中ではぐれられちゃたまらないからな、仕方なくだ!」
「だから、さっきから何を言ってるんだ、用心棒」
 訝しげな王女に、ラウルは知るか、と嘯いた。
「何だかよく分からんが、俺とちびは今、物凄い霧に囲まれて周りが全然見えない。でもお前には、この霧が見えてないんだろ」
「霧なら見えてるぞ。でも、周りが見えなくなるほどじゃない」
 不思議そうに周囲を見回して言う王女に、だから、とラウルは片手を突き出した。
「お前が先頭に立って、その光が見えたところまで案内してくれ」
 差し出された手をまじまじと見つめる。重ねれば一回り以上も大きい、骨ばった男の手。いつもはこの手に引っ張られてばかりいるのに、今回は立場がまるで逆だ。そのことがおかしいやら嬉しいやらで、思わず頬が緩む。
「分かった! とにかく、私が道案内をすればいいんだな」
 力強く頷き、ぎゅっと手を握り締める。
「おちびちゃん、しっかりつかまっているんだぞ」
「らうっ!」
「それじゃ、出発だ!!」
 つないだ手をぶんぶんと振りながら、王女は道なき道を歩き始めた。