第四章[9]
 雑談に興じる風の彼らを離れたところから見つめながら、ヒューゴは飛び出して行きたい衝動を抑えるのに必死だった。
(隊長、一体何を話してるんだ……?)
 その隊長から、まるで犬でも追い払うように遠ざけられたため、ヒューゴを含めた隊員達は丘の裾で待機している。運悪く風上に立っているため、彼らの会話の詳細までは聞こえてこない。
「おいこら新入り、勝手な真似すんなよ」
「せっかく隊長が穏便に済まそうとしてるんだから、ぶち壊すんじゃないよ」
 ヒューゴの心境を見抜いて、先ほどから古参の兵士二人が両脇から彼の肩をがしっと掴んで離さない。おかげで身動き一つとれず、ただ話が弾んでいる様子の彼らを見守ることしか出来ない。
 だから、ナジードが前置きなしに剣を抜いた時も、咄嗟に飛び出ていかずに済んだ。
「た、隊長!?」
「はいはい、動かないうごかない」
「ホントに堪え性のない奴だなあ、お前は」
 更に両脇をがっちり固められ、むしろヒューゴが何かやらかして捕まっているような状態になっていたが、本人は自分の状況などお構いなしに、眼下で繰り広げられるやり取りに釘付けになっていた。
「怪盗《月夜の貴公子》! いざ神妙にお縄につきやがれぇ」
 大声を張り上げる大隊長、そのどこか芝居がかった台詞に目を剥いたヒューゴには、黒髪の青年が珍妙な顔をして固まったのも、そして王女をぐいと引き寄せて何か囁いたのも、はっきりと見て取れた。
 そして。
「――やってみろよ。王女がどうなっても構わないって言うならな!」
 引き抜いた小刀を王女の喉元に突きつけ、じりじりと後退する青年。そして、囚われの王女はといえば、紫水晶の瞳を潤ませて、
「きゃーあ。たすけてぇー」
 ――あまりにも棒読みな悲鳴に、背後の兵達からどよめきが起こった気がしたが、ヒューゴの耳にはそれすら届いていなかった。
「ローラ様!!」
 無我夢中で飛び出そうとして、ふっと緩められた手に驚く暇もなく、均衡を崩して地面に突っ伏すヒューゴ。
 あっけなく自滅した新入りに苦笑を漏らしつつ、ナジードの配下達は目の前のやり取りを、ただ見守っている。
「貴様ぁ、王女をどうするつもりだあ」
 剣を構えたまま問いかけるナジードに、青年は真顔で怒鳴り返してきた。
「知るか!」
「……おいおい」
 ナジードの突っ込みに、こほんと咳払いしながら王女を小突く青年。
「お、お願いだ、どうか追わないでくれ。私は必ず戻る! そう信じて、今は待っていてくれ」
 今度はいつもの調子で懇願する王女の言葉に、ナジードがひょい、と片眉を上げてみせた、まさにその時。
「……というわけで、じゃあな!」
 どこか吹っ切れたような青年の声と、陽光を反射してギラリと輝く刃。
 ちょうどその瞬間、ようやく顔を上げたヒューゴは、視界を覆い尽す真っ黒な闇に思わず目を瞬かせた。
「な、なんだ、これは!?」
「これは、一体――!?」
 まるで巨大な天幕を張ったかのように、すっぽりと暗闇に覆われた丘。僅かな光もなく、伸ばした手の先すら見えない、それはまさに真の暗闇。
 そんな闇の中に、高らかな声が響く。
「ローラ国の至宝はいただいていく! さらばだ!」
「なっ……!」
「待てえぇ、《月夜の貴公子》!!」
 気の抜けたナジードの声に抗議しようにも、この不可思議な闇の中では各人の位置すら把握できない。
「こ、このぉっ! 王女様を帰せっ!! ――ぅわっ!!」
 闇雲に突っ走ろうとして何かに蹴躓いたヒューゴは、再び大地と猛烈な接吻をする羽目になり、一方動き回ればヒューゴの二の舞だと先刻承知の隊員達は、その場でピタリと静止したまま、げたげたと笑い声を上げた。
「いやあ、もう、やることが派手だねえ」
「隊長ほどじゃないでしょ」
「ったく、やる気があるんだかないんだか……」
「どっかの熱血隊長を真似してみたんだがねえ。駄目だったか」
「アンタには似合いませんよ」
「やる気のなさがウリなんだからねえ、うちの大隊長は」
 がっはっはっ、と陽気な笑い声が闇の中に響く。
「ち、ちょっと、どうするんですかっ!! 逃げられちゃったじゃな、ぐえっ……!!」
「おっと悪い、そこにいたのか」
 一人息巻くヒューゴを容赦なく踏んづけながら、ナジードはさて、と懐を探りながら呟いた。
「このあと、どーすっかなー」
「そんな……のん…きな……」
 何はともあれ、この暗闇をどうにかしなければなるまい。呻くヒューゴを尻目にごそごそ懐中を探って、ようやく取り出せたのは、空っぽの煙草入れ。
「……どーすっかな」
 少しだけ真剣みを帯びたナジードの呟きに、ヒューゴがまた呻き声を上げた。