<<  >>
第五章[7]

 墓から戻ってきたラウルを出迎えたのは、荷物が軽くなって上機嫌な馬の鼻息だった。
「お、もう出発するのか?」
 首を撫でてやりながら問いかけると、荷台の点検をしていたらしい御者が戻ってきて、律儀にはい、と答える。
「配達の予定が立て込んでおりますので、皆さんのご用が済むまで残ることができず、申し訳ありません」
 昼食の席では無駄口一つきかずに黙々と食事を取っていた彼だが、口を開けばいかつい外見とは真逆の、実に丁寧な言葉遣いが飛び出てくるので、その差が何とも面白い。
「いや、ここまで乗せてくれただけでもかなり助かったよ。アシュトさんにもよくお礼を言っておいてくれ」
 その言葉に、珍しく笑みを浮かべた彼は、楽しそうにこう言ってくる。
「主は神官様贔屓でございますから、此度の騒動では大層、心を痛めておられました。皆さんのお役に立てたと聞けばとても喜ぶでしょう。ご用事がお済みになりましたら、またぜひお寄りください」
「ああ。きっと寄らせてもらう。……ええと」
 そう言えば、この有能なるアシュトの右腕の名前を聞いていなかったことに今更気づき、苦笑しつつ右手を差し出すラウル。
「こんなに世話になったあんたの名前を聞いてなかったとはな。よければ教えてくれるか」
「ヴォルグと申します」
 握り返してくる無骨な手、そのまくり上げた二の腕からちらりと覗く刺青に、小さく息を吐く。
「この辺りじゃ、その模様が流行ってるのか? なんだかあちこちで見るような気がするんだが」
 意匠化された鍵と縄の紋様は、闇夜に生きるものの証。冷やかすようなラウルの視線をそっと受け流し、ヴォルグは穏やかに笑う。
「若気の至りでございますよ」
 短い言葉に、彼の人生が滲み出ているようだった。だからあえて深くは触れず、それにしても、と笑い飛ばす。
「あの長の下で、よく働く気になったもんだ。俺なら謹んで遠慮申し上げるね」
「私が入った頃は、まだ先代の長が取り仕切っていらしたものですから。さほど無茶なことはございませんでした」
 現ギルド長の評価がよく分かる発言に顔をしかめ、まあいいと頭を振るラウル。
「忙しいところを引き留めて悪かった。道中、気をつけてな」
「はい。皆さんもどうぞお気をつけて」
 軽やかな身のこなしで御者台に乗り込み、手慣れた手つきで手綱を操る。
 滑るように走り出した馬車が弾みながら小さくなっていくのを見送って、ラウルはローラ達の待つ村長宅へと歩き出した。

* * * * *


 村長に説明された通りに階段を上がっていくと、メアリアが部屋の扉をそっと閉めたところだった。
「お、もう落ちたか?」
「ええ。あっという間に眠りの国へと旅立っていかれましたわ」
 メアリアの読み通り、食事が終わると案の定うとうとし始めたローラは、部屋につくなり寝台へと沈み込んで、そのまま寝息を立て始めてしまったという。村長が用意してくれた部屋は、かつて彼女の母が使っていたという思い出の部屋なのだが、感慨に耽る間もなかったようだ。
「あんたは休まなくていいのか?」
「私は平気です。用心棒さんこそ休まれなくて大丈夫ですか?」
「ああ、あとで少しだけ休ませてもらうよ。夜は大仕事になりそうだからな」
 その言葉だけで、聡い彼女は事情を察したようだった。まあ、と呟き、そっと声を潜めて問いかけてくる。
「お墓で何か見つかりましたか?」
「ああ。墓石の裏側に魔法陣が刻んであった。何か仕掛けがあるのは確かだと思う」
「魔法陣、ですか……」
「ローラは魔法語が読めるみたいだし、夜にあったらあいつに見てもらうのが一番だろうな。何か分かるかもしれないし」
 今から魔術士を呼ぶ手段がない以上、わずかな望みにかけるしかない。しかしメアリアは浮かない顔で、どうでしょうかと呟いた。
「魔法語が読めるからといって、魔法陣の内容を解読できるかどうかは別問題ですわ。魔法陣は、それだけを専門に研究している魔術士もいるほど難解なものなんです。形状を丸暗記しているだけで、意味をちゃんと理解していないような魔術士もいるそうですよ。時代によっても形式が異なるそうで、研究者なら陣を見ただけで誰が描いた陣か分かるそうですが……」
「へえ、詳しいんだな」
 意外そうな顔をするラウルに、あらいやだ、と手を振るメアリア。
「聞きかじりですわ。でも、それこそお嬢様に反応して動き出すものかもしれませんし、やはり行ってみるのが一番でしょうね」
「そうだな」
 歌声が聞こえ始めるのは夜になってからだが、正確な時間までは記録していないという。となれば、日暮れから墓場で待機するしかない。
「この時期だと、日が落ちるのは宵の一刻辺りかな。まだ大分先だが……そこから先、長丁場になるかもしれないからな。今のうちから覚悟しておいてくれ」
「はい。村長さんにも、早めの夕食と夜食の準備をお願いしておきました。お嬢様の食べっぷりに奥様が大層喜んでくださって、腕を振るってくださるそうですわ」
「そいつは助かる」
 根回しの良さに舌を巻き、やれやれと壁に背を預ける。
「……一体、王妃さんは何をしたかったのかな」
 死の間際に約束を残し、墓に仕掛けを施して、世間知らずの娘に旅をさせる。そんな勿体ぶったことをして、一体王女に何をさせたかったのか。
「それが事前に分かってさえいれば、お嬢様もこんな騒ぎをしてまで城を抜け出したりはしませんでした。ソフィア王妃のお考えは分かりませんが、何かお嬢様に関する重大な事柄が、この村にあるのだと思います」
 ラウルの隣に並び、同じように壁にもたれかかって、メアリアは静かに述懐する。
「……私がお嬢様にお仕えするようになったのは六年前です。王妃は多忙な方で、お嬢様とも月に二、三度お食事を共にされるのがやっとというご様子でした」
 王妃としての公務のほか、王立研究院の理事として運営にも携わっていたソフィア王妃は、国王ヴァシリー三世よりも多忙な日々を送っていた。故にメアリアもさほど接点があったわけではないが、会えば必ず声をかけられ、娘の武勇伝を聞かせてほしいとせがんだり、誕生日の贈り物は何がいいか相談されたりしていたという。
「随分とまあ、気さくな王妃様だな……」
 廊下で四方山話に声を弾ませる姿は、ローラ王女の脱走と並んで城の風物詩だったというから、何とものどかな王宮である。
「宮廷魔術士時代から、そういうお方だったそうですわ」
 その人柄故に、皆から愛されていた王妃ソフィア。彼女の周りにはいつも、明るい笑い声が絶えなかったという。気位が高い第一王妃に比べ、その庶民的な人となりは特に使用人達から人気があったというのも頷ける話だ。
「私を見つけると、『ねえメアリア、セシルは今日もあなたに怒られていたのかしら?』と、決まってお尋ねになるんです。ですから私も『ええ、今日も家庭教師を煙に巻いて城を抜け出そうとしておりましたので、雷を落としておきました』なんて答えていました」
 懐かしそうに語るメアリア。その発言に聞き覚えのない単語が混じっていることに気づいてしまい、悪いとは思ったが話の腰を折って問いかける。
「セシルってなんだ?」
 あらいけない、と口に手を当てて、お嬢様には内緒ですよ、と念を押すメアリア。
「ここだけの話ですが……お嬢様の『本名』が長ったらしいのはご存じですか?」
「ああ、一度だけ聞いた。途中で止めたと言ってたが、それでも普通の人間の三倍以上はあったぞ」
 貴族や王族の名前が無駄に長いのは知っていたが、ローラの場合は名字まで辿り着かない段階で、かのゲルク老の本名と同じ単語数なのだから恐ろしい。
「本名で署名すると、ざっと三行ほどかかりますかしら」
 尚も恐ろしいことをさらっと言って、メアリアは続けた。
「『ローラ』は代々、国王の長女が継ぐ名前なのですが、その後の名前はご先祖様からいただいたり、ご恩のある方からつけていただいたりと、色々なところからかき集めて名付けられるそうです」
 かき集めるとは辛辣な表現だが、結果として呪文のような名前に苦しむ子供の苦労を思えば、そのくらいは言ってもいいかもしれない。
「その中で、ソフィア王妃が名付けたのがセシリエというお名前です。縮めて、セシルとお呼びになっておられました」
 そう呼ぶのはソフィア王妃だけで、それも非公式の場だけだったから、セシルと呼ばれることを王女はとても喜んでいた。
「なるほど……特別な愛称ってわけか」
 そう言えば、初対面の時から、ローラはラウルのことを名前ではなく『神官』とか『用心棒』と呼んでいた。単に手配書対策かと思っていたが、あれも何か意味があるのだろうか。
 そんなことを考えていたものだから、続くメアリアの言葉に対して見事なまでに無防備だった。
「そういえば、いかがです? この旅路で、お嬢様と何かありました?」
 思わず壁に頭を打ち付けてしまい、呻きながら後頭部を押さえてしゃがみ込む。
「あらあら、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃねえ……」
 頭を押さえながら立ち上がり、心配そうに覗き込んでくるメアリアに食ってかかる。
「なんでみんなして、寄ってたかって俺とあいつをくっつけようとするんだよ!?」
「あら、だってお嬢様とつき合える根性がある殿方はなかなかいらっしゃいませんし、歳の差もそこまでありませんし、何より美男美女でお似合いですわよ? 今なら既成事実も作りたい放題ですし」
「あのなあ……」
 しれっととんでもないことを言い出すメアリアに、本気で頭を抱えるラウル。
「いくらなんでも、あんなガキに手ぇ出すほど飢えてないぞ、俺は!」
 噛みつかんばかりの剣幕に、しかしメアリアは涼しい顔だ。
「あら、お嬢様はもうじき成人される身ですわ。庶民でも、もう婚約者がいておかしくない年頃でしてよ」
「……年齢的にはそうかもしれないがな」
 そう前置きしつつ、再びメアリアの隣に背中を預けると、面と向かって言うには少々気恥ずかしい台詞を口にする。
「あいつ、まだ女になってないだろ」
 精神的なことじゃないぞ、と付け加えずとも、聡明な彼女にはすぐ合点がいったようだ。ぱちぱちと瞬きをして、くすりと笑う。
「まあ、よくお気づきですこと。さすが女性経験豊富なだけありますわね」
「どんだけ一緒に旅してきたと思ってる。そのくらい気づくさ。……と言いたいところだが、俺の前で平気で下着を干すようなヤツだからな、あいつは。メアリアからもちょっと言ってやってくれ。少しは慎みとか恥じらいを覚えないと本当に婿の来手がないぞってな」
 苦笑いを浮かべ、よく言い聞かせておきますと神妙な顔で請け負ったメアリアは、王女が眠る部屋の扉を気遣うように見つめて続ける。
「お嬢様は発育も遅くていらっしゃるし、二年前からほとんど背も伸びていなくて……。月の障りが訪れていないのもそのせいだろうとお医者様は仰っておりました。でも『白い結婚』なんて貴族や王族の間ではごく当たり前ですし、得体のしれない王子様に奪われる前に手を打っておいてもよいのでは?」
 せっかく途中までは真面目な話だったのに、と眉間にしわを寄せ、深いため息を吐く。
「……王家の事情やしきたりなんぞに興味はないが、これだけははっきり言っておくぞ。俺には幼女趣味はない! 十歳以上も年下の、しかもあんな色気も何もない奴なんぞに欲情するか!」
 あらあら、と猫のように目を細めるメアリアの、その余裕の笑みが少々気に食わなくて、何気ない顔のまま壁から背中を剥がす。
「――それよりも、強かで色っぽい女の方が俺の好みだな」
 燃えるような赤毛を掠めるように壁へと片手をつき、空いた手で細い頤を持ち上げれば、赤毛の侍女はわずかに息を呑んで、しかし妖艶な笑みを浮かべてみせた。
「まあ、ローラ国の救世主様に声をかけていただけるなんて、末世までの誉れですわ」
 予想外の反応に尻上がりの口笛を吹いて、苦笑いをかみ殺す。
「そのはた迷惑な評判も、たまには役に立つってもんか。しかし、こんなガラの悪い救世主様でも構わないのか?」
 くく、と喉で笑い、挑発的に視線を絡ませてくるメアリア。
「噂と現実に大きな開きがある方との付き合いが長いものですから。それに、猫を被っている姿も素敵ですけど、野性的な用心棒さんも魅力的ですわよ」
 そいつは光栄、と呟きながら、固く握りしめられた手を取る。家事労働で荒れることのない侍女の手は、まるで貴族の令嬢のように白く艶やかだ。
「光栄ついでに、ここまでの旅路を労ってくれたら嬉しいな」
「……どのような労いをご所望です?」
 僅かに掠れた声に、いたずらっ子のような笑いを浮かべ、ぐいと顔を寄せる。
「それは――あんた次第かな」
 とっさに顔を背けた侍女の頬を掠めて、その耳元へ囁く。悲鳴を押し殺したような鋭い息が聞こえたが、聞こえなかったふりをした。
「王女付きの侍女なんてもったいない。その若さと美貌を武器に、いくらでものし上がれるだろうに、なんでわざわざ我侭姫のお守りなんてしてる?」
「私は、ローラ様に望まれて侍女になったんです! あの方のお世話をすることが、私のお役目であり、生き甲斐なんです!」
 怒ったように言い返すメアリアの額をびし、と指で弾いて、ラウルはあっさりと手を離した。
「なら、純情な男を惑わすような発言はやめとくんだな。本気にしちまうだろ」
「! からかったんですか!?」
 耳まで真っ赤にして怒るメアリアに、ふふんと鼻を鳴らす。
「お世辞なのか、それとも本当に気があるのかどうか見極められる程度には女慣れしてるつもりでね。遊びたいならいつでも相手になるけどな」
「あなたはっ……! 本当に、救世の『卵神官』様なんですか!?」
「その呼び名で呼ぶな! 大体なあっ――」
「うるさいぞ用心棒」
 間延びした声に遮られ、ぎょっとして声のした方を見れば、半眼のローラが目を擦りながらこちらを睨んでいた。
「あらお嬢様。お休みになられたのでは?」
 どこかホッとした表情で走り寄るメアリアに、ローラは手洗いに行きたくて、とかなんとか言いながら、雲の上を歩いているような足取りで階段を下りていく。途中、思い出したように振り返って、
「用心棒。メアリアを泣かせるような真似をしたら、いくら用心棒でもただじゃおかないからな」
 と釘を刺していくことは忘れない。
「分かったから、さっさと行って来い」
 ひらひらと手を振って応えると、ローラは素直にスタスタと階段を下りて行った。姿が見えなくなった辺りでギャッと悲鳴が上がったので、廊下の途中で固まっているメアリアに声をかける。
「あの様子じゃ無事に手洗いまで辿り着けるか分からん。付き添ってやってくれ」
「え、ええ。それでは失礼します」
 そそくさと階段を下りていくメアリア。ほどなく階下から「どうしました」「こけた」などというやり取りが聞こえてくるが、そちらは気心知れた侍女に任せておけば間違いないだろうから放っておくことにする。
「ったく……主従揃って芝居が下手なことで」
 やれやれ、もったいない、などとぶつぶつ呟きつつ、ラウルは割り当てられた小部屋の扉に手をかけた。
「……長い夜になりそうだな」
 それでも――明けない夜がないように、長い旅にも終わりはやってくる。
 夜の城から始まった旅路は、もうじき終わりを迎えようとしていた。

<<  >>