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第五章[9]

 がばっと起き上った瞬間、至近距離で仰け反る黒い頭に、ぎょっと息を呑む。
「お前っ……! 危ねえだろうがっ……!」
 すんでのところで頭突きを回避し、飛びずさるように寝台から離れていったラウルが何か喚いているが、覚醒したばかりの頭では状況が理解できず、ローラはきょろきょろと辺りを見回して、きょとんと首を傾げた。
「今、誰か呼ばなかったか?」
「ああ、さんざん呼んだぞ。聞こえてたならさっさと起きろ」
 まったく、と溜息を吐くラウルを尻目に、うーむと腕を組む。さっき聞こえたあの声はラウルのものではなかったような気がするのだが、一度手放してしまった夢の切れ端はとうに霞となって消え失せてしまった。それでも、逼迫した叫び声の、その輪郭だけがくっきりと残っている。
 難しい顔をして考え込むローラに、呆れ顔のラウルはやれやれと首を振った。
「叩いても揺すっても怒鳴っても起きないんでどうしようかと思ったら、いきなり跳ね起きやがって。変な夢でも見たか?」
「夢、だったのかなあ……?」
 まるで耳元で響き渡ったかのように鮮明な声。遠い地にある誰かを案じる、まるで祈りに似た響き。どこかで聞いたことがあるはずなのに、どうしても思い出せないのがもどかしい。
 また深く思考の淵に沈み込んでいくローラに、ラウルはここぞとばかりに切り札を出した。
「急がないと夕飯を食い逃すぞ」
「それは困る!」
 思考の淵から一気に飛び出して、蹴飛ばすように寝台から降りれば、僅かに開いた窓の隙間から覗く空はもう真っ暗だ。
「今、何時だ!?」
「宵の一刻を過ぎた頃だ。夕飯を食ったら出発するぞ。とっとと顔を洗ってこい」
 その声を待っていたかのように部屋の扉が開き、水挿しと洗面器を抱えたメアリアが入ってくる。
「お嬢様、ようやくお目覚めですか」
「メアリア! どうして早く起こしてくれなかったんだ!」
 文句たらたらのローラに、二人は顔を見合わせて肩をすくめてみせた。こういう時になるとこの二人は、十年来の付き合いであるかのように息が合ったところを見せる。
「何度も声をかけましたよ。でもお嬢様ったら全然起きて下さらないので」
「仕方なく俺が叩き起こしに来たんだ。ったく、どんだけ寝るつもりだお前は」
 遅い昼食を取ってすぐに夢の世界に旅立ったのだから、都合四刻は眠っていたことになる。仮眠にしては確かに長過ぎた。
「この部屋は寝心地がいいから、つい寝過ごしてしまったんだ」
 言い訳しつつ顔を洗い、メアリアに髪を整えてもらう。いぎたなく眠りこけていたせいで、三つ編みがすっかりぐしゃぐしゃだ。
「せめて髪は解いてからお休みくださいと、あれほど申し上げておりますのに……」
 小言を言いつつ、もつれた髪を手際よく梳り、編んでいくメアリア。あっという間に先程までとは比べ物にならないほど美しい三つ編みが出来上がって、満足そうに櫛を置いたメアリアは、使い終えた洗面道具を抱えて部屋を出て行った。
「ほら、俺達も行くぞ。早くしないと夕飯が冷めちまう。夜食も持たせてくれるそうだから、あんまりがっつくなよ」
 ラウルの言葉に頬を膨らませながら、革靴の紐を締める。夕飯を終えたらすぐに出発だ。部屋に戻らないでもいいように手早く身支度を整えていると、その様子を横目で見ていたラウルがふと思い出したように、襟元から何かを引っ張り出した。
「そうだ、これを忘れてた。こっち向けよ」
「なんだ? 用心棒」
 振り返ったローラの首にひょいと掛けられたのは、古びた黒い革紐。すとんと落ちて胸元に揺れる銀の飾りに刻まれているのは、闇の神ユークの紋様だ。
 驚いて顔を上げれば、黒髪の用心棒は満足げに頷いてみせた。
「貸してやるよ。少しはそれらしく見えるだろ」
 確かに、ユーク神官と説明した以上、せめて聖印くらいは持っていないと怪しまれてしまうだろう。感謝の言葉を紡ぎつつ、円盤型の聖印をそっとつまんで目の前まで持ち上げる。
「へえ、ユークの聖印ってこうなってるのか」
 王家は代々、水と美の女神アイシャスを崇めているから、ローラもアイシャスの聖印は持っているが、自室の宝石箱にしまい込んだままだ。ローラ自身はあまり熱心な信者ではないし、そもアイシャス以外の神にはあまり馴染みがない。なので初めて手にするユークの聖印が面白くて、矯めつ眇めつしていたら、思いがけないものを見つけてしまった。
 ユークの紋様が刻まれた銀の円盤、その裏側に刻まれた、目を凝らさなければ見えないほどに小さな文字の連なり。
「『黒髪の我がいとし子ラウル=エバストに、ユークの加護があらんことを』……?」
 思わず読み上げれば、黒髪の不良神官は苦虫を噛み潰したような顔になって、ぷいと横を向いてしまった。
「用心棒、これ……」
「大事なもんだからな。ちゃんと返せよ」
 照れ隠しなのか、ぶっきらぼうに言い捨てて部屋を出ていくラウル。その背中を見送って、思わずにんまりと顔を綻ばせる。
「例の親父殿からの贈り物なのか」
 旅の合間、何度となく会話に上った『くそじじい』こと養父ダリス=エバスト。散々にけなす割には、大事な訓示の折には必ず出てきて、それを指摘すると途端にしかめっ面になって押し黙ってしまうラウルが面白くて、妹と一緒によくからかったものだ。
「本当に用心棒はひねくれ者だなあ」
 くすくすと笑い声を漏らしながら、鏡台の前に立つ。くたびれた旅装束の胸で揺れる、銀の輝き。小さな聖印だが、今はどんな頑丈な鎧よりも心強い。
「大事なものを貸してくれたんだ、必ずや原因を突き止めなければな」
 聖印をぐっと握りしめ、軋む床を踏みしめて立ち上がる。
「ローラちゃん、お夕飯ですよー」
 階下から聞こえてくる暖かな呼び声に元気よく答えて扉を閉めれば、扉に止められた飾り札の人形がゆらゆらと揺れて、まるで行ってらっしゃいと手を振っているようだ。
「行ってきます、母様!」
 凛とした笑顔で母の部屋と別れを告げ、そしてローラは勢いよく階段を駆け下りていった。

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