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第五章[13]

 風が止む。梢のざわめきが静まって、不思議な静寂が墓地を包み込む。
 雲の切れ間から挿す月光が、まるで舞台を照らすように、ソフィアの墓とローラを闇の中に浮かび上がらせる。
 観客のいない舞台に響き渡る、朗々とした母の声。
『ここまでの道程は、きっと大変だったことでしょう。危ないことに巻き込まれたりしなかった? 道を間違えて迷子になったりしなかったかしら?』
「母様ったら……」
 思わず苦笑すれば、わざとらしい咳払いが響いた。そうじゃなくて、と頭を叩く音までしっかりと拾っている。オーグ特製の封印球は実に優秀だ。
『――セシル。あなたが生まれてからの日々は、私と陛下にとって幸せに満ち溢れたものでした。……それが永遠に続くものではないと、分かっていても』
「母様……」
 この時、すでにソフィアは間近に迫る死を受け入れていたのだろう。それ故の言葉だと思ったのだが、予想外の台詞が続いた。
『セシル。よく聞いてください。真実を知れば、あなたはきっと苦しみ、嘆くことでしょう。それでも、私はあなたに伝えたい。あなたが、消えてしまう前に』
「消えて、しまう?」
 奇妙な言葉を聞いた気がした。しかし、ローラの疑問などお構いなしに、遠き日の母は語り続ける。
『本当なら、あなたが成人する日にすべて打ち明けるつもりでした。しかしながら、私の命はそれまで持ち堪えてくれそうにありません』
 悲痛な思いが、僅かに震えた声から伝わってくる。その言葉の意味は分からなくとも、母の苦悩は十分に伝わってきたから、ローラはただひたすらに耳を澄ませた。
 母の遺す言葉を、一言一句聞き漏らさないように。
『オーグなき今、そして私の命が尽きようとしている今、どんなに手を尽くしても、あなたの存在を繋ぎとめることはできない。それでも――何も知らないまま、ある日突然消えてしまうなんて結末を、あなたに迎えて欲しくない』
 ある日突然消えてしまう。それは――唐突過ぎる死と同じだ。
 初めて知る、己の存在の危うさ。奥底から沸き上がる恐怖に、体の震えが止まらない。
『……真実はきっと、あなたを打ちのめすでしょう。でも、それがどんなに傲慢な願いだと分かっていても、私はあなたに真実を取り戻してほしい』
 そこで初めて、ソフィアの決意が揺らいだようだった。
『でも……もしあなたがそれを望まないのなら、この先は聞かないで。そうすれば、あなたはあと少しだけ、愛する父王の娘のままでいられるでしょう。十五の誕生日を迎えるその日まで』
 必ず誕生日までに父のもとに戻ること――。二年前の約束が脳裏に過る。
 あれは――そういう意味だったのか。
「理由はよく分からないが、このままだと、私は消える。真実を知っても、私は消える。そういうことなのか、母様!?」
 そんな言葉を聞くために、ここまで来たのか。
 その先に待つのが絶望だと分かっていて、真実を求めよというのか。
「……っ!!」
 言葉が出ない。ただ、感情が溢れて、止まらない。
 自分がどうしたいのかも、どうするべきなのかも、もう何も分からない――!
 ――と。
 無意識のうちに握りしめていた拳に、こつんと硬いものが触れる。
「あ……」
 胸の上で揺れる、小さな円盤。思わず握りしめれば、冷たいはずの金属片はほのかに暖かく、震える手を優しく暖めてくれるようだ。
 素っ気ない優しさは、持ち主に似たのだろうか。
 悩むな。突き進め。そんな厳しくも優しい声が聞こえた気がして、しゃんと背筋を伸ばす。
「そうだな、用心棒」
 あの皮肉屋の笑みを真似て、無理やり顔を動かしたら、肩の力がすとんと抜けた。
「私は決めたんだ。先へ――真実へ突き進むと。何も知らずに消えるなんて、そんなのは嫌だ!」
 まるでその言葉を待っていたかのように、ソフィアの声が再び響く。
『心は決まりましたか。それでは、あなたに真実を還します。――最後に、これだけは覚えていて。私が、みんなが、あなたを愛していることを。いつまでも、覚えていて――』
 そうして、凛然と響き渡る、その言葉。

『あなたの真名は――《夢幻の織手》セシル・ヴァン・ロウレル――』

 呪文のような、不思議な響き。
 初めて聞くはずの、懐かしい名前。
 何の意味もない、ただの単語の連なりなのに。
 あの優しい声で呼ばれると、なぜだか心が満たされた。
 そう、それは――遠い約束。
 大それた、しかしとてもささやかな、たった一つの願い。
 それを願ったのは――そう、あの時、そう願ったのは――。

「ソフィア!!」

 突如として押し寄せてきたそれは――遥かな記憶。
 吹き乱れる風のように。荒れ狂う波のように。
 過去から未来へと、目まぐるしく変わる光景。
 笑い声の響く渡り廊下。零れる庭園の緑。
 塔に揺らめく影。冴え渡る夜空。
 いくつもの太陽が昇り、月が沈んで――そして。

 零れた涙と、一つの決意。

「ソフィア――私は……」

 あなたを喜ばせたかった。ただ、それだけだった――!



 風が、唸る。
 月は分厚い雲に隠れ、鈍色の天幕が世界を覆い尽くす。

 輝きを失って立ち尽くす墓石の前で、一人虚空を見つめる少女。その頬を伝う涙は、まるで一条の流れ星の如く。
「おい、ローラ!?」
 訝る声に、のろのろと顔を上げれば、心配そうに見つめてくる黒い瞳。
「――用心棒」
 平坦な声に、何かを察したのだろう。険しい顔のラウルに、ぎこちなく笑みを向ける。
「用心棒。どうやら私は――人間じゃないらしい」

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