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月下の酒宴

 満月というものは、実に表情豊かだ。
 えくぼを見せて笑ったかと思えば、雲に隠れてもじもじと恥らったりと、見ていて飽きることがない。
 物静かなところも実に好みで、差し向かいで飲むのに最適な相手と言えよう。
「これでつまみがもう少し豪華だったら、言うことがないんだがね」
 酌み交わす酒はレーヴァ産の二十年物。それに合わせるつまみが塩をふっただけのキャベツだけというのは、実に悲しいものだ。
 昨晩に食べきってしまったチーズの代わりに何か買って来てくれ、とどら息子に頼んだのは確か昼過ぎだったはずだが、『ちっ、仕方ねえな』と渋々出かけていった彼は、そのまま礼拝までトンズラこいて未だに戻ってこない。
 しかし、妙に律儀などら息子のことだ。盛大に文句をたれつつも、駄賃をくすねることなく、ちゃんと頼んだ品を抱えて帰ってくるに違いない。
「誰に似たんだかなあ」
「お前さんに決まっとろうが」
 唐突に発せられた声に、思わず苦笑を漏らす。全くこの人と来たら、相変わらず気配を感じさせない。それは恐らく、重職についても決して怠ることのない、日々の鍛錬の賜物だろう。
「神殿長もいかがですか」
 悪びれた風もなく振り返り、杯を掲げてみせば、月下に佇む老人は気難しい顔を取り繕って、ふんと鼻を鳴らした。
「レーヴァの二十年物か。ふむ、悪くないのう」
 立派な白髭に手をやって、嬉しそうに笑う。そうすると、ふさふさと垂れた眉毛が一層下がって、どこに目があるのか分からなくなる。
 ユーク本神殿長エーディク=ザハール。齢八十を超えて未だ現役の神官戦士、そして神殿内で唯一の飲み仲間でもある。
 月明かりに照らされたその姿を見る限り、彼がユーク本神殿の長だと思う者はいないだろう。小柄ながらも矍鑠たる姿は、その長い髭と眉毛の印象も相まって、まるでむく犬のようだ。かつては神殿きっての武闘派として恐れられていた彼だが、現在ではその好々爺ぶりと人の心をくすぐる絶妙な説法で、特に子供や女性に人気を博している。二十余年前に彼が神殿長に就任してから、辛気臭いと評判のユーク本神殿に参拝客が増えたのも事実だ。
 しかし、彼が間違いなく老いていること、そして先日、心臓の病で倒れたことも、また事実。
「こんなところで申し訳ありませんが」
「なに。ここは誰も来んからのう。こっそり一杯やるにはちょうどいい」
 神殿の裏庭、と言えば聞こえはいいが、ここは神殿が管理する畑の一角だ。野菜や薬草が区分けして植えられているだけで、休憩用の椅子もなければ凝った造りの彫刻もない。
 だから彼らは作業用の台に腰掛けて、月明かりを頼りに杯を交わした。
「やはり酒はいいのう。心が安らぐわい」
「過度に召されては病の元ですよ。この間だって祈祷の最中にぶっ倒れて、大変だったんですから」
 先日の騒ぎを思い出し、内心で冷や汗を掻く。本人は大丈夫だと言い張っていたが、とてもそんな顔色には見えなかった。だから問答無用で寝台に叩き込み、中断した祈祷を代行してどうにか事なきを得たのだが、それが気に食わなかった連中もいたようだ。出過ぎた真似をするなと叱責され、謹慎を言い渡されたが、それは神殿長自ら撤回してくれた。
「あのくらいでへばるとは、ワシも年を取ったもんじゃい。あー、いやだいやだ」
「八十をとうに超えて、まだ若いおつもりですか」
「なんのなんの。ワシは百まで生きるつもりじゃよ」
 呵々と笑い、杯を一気に呷ろうとして思いとどまる。そしてちびちびと酒を舐めていた神殿長だったが、ふと笑みをこぼした。
「それにしても、レーヴァの葡萄酒とは、随分と趣味が良くなったの」
 かつてはそれこそ、強い酒ばかり取り揃えて飲み比べをしたものだ。葡萄酒なんて軟弱な酒は飲まない、と豪語していた若造も、いつしか酒の旨みや深みを理解する年頃になっていた。
「昔のようには行きませんよ。このくらいが限界です」
 私ももう年ですからね、と呟いてしまい、何を言っとるか若造め、と小突かれる。
 的確に鳩尾を突かれて悶絶していると、神殿長はにやり、と立ち上がった。
「ほれ、乾杯といこう」
「何に乾杯しましょう」
 涙目になりながら聞いてみると、神殿長は満月に向かって、杯を掲げてみせた。
「次代の神殿長殿に、というのはどうじゃ」
 息が止まった。
 思わず目を見開けば、蒼い満月を背に神殿長はしてやったり、と笑う。
「正式な通達は明日行うが、ま、前祝いというやつじゃ。ほれ、どうした?」
 ほれほれ、と杯を突きつけてくる「自称・好々爺」に言いたいことは色々あったが、あまりにも突然すぎて考えがまとまらず、口を突いて出てくるのは、溜息と苦笑ばかり。
「あなたという人は……まったくもって、意地が悪い」
「お主に言われたくはないのう。どら息子の世話で手一杯とかごねて、昇進の話も散々逃げ回りおって」
 この面倒くさがりめが、と小突かれて、乾いた笑いを浮かべる。数年前、それまで散々断り続けていた高司祭への昇進をごり押ししたのも、この神殿長だった。
「あなたには敵いませんね。すべてお見通しですか」
「当たり前じゃ。年老いたとはいえ、まだまだ人を見る目はあるつもりじゃよ。だからお主を推した。もう逃げられんぞ。観念せい、この怠け者」
 褒められたのか貶されてたのか、さっぱり分からないが、分かることはただ一つ。拒否権はないらしい、ということだ。
「私は神殿長の器などではない。それは自分が一番よく知っています」
「だからこそ、妙な欲を出すこともないだろうて」
 そう言って、老人はくくく、と笑い出した。
「いや、懐かしいのう。ワシもお前さんと同じことを言った。そしてこう言われたんじゃよ。『こういうもんは、我こそはと息巻く者よりも、他になり手がなくて渋々引き受けたような者の方がうまくいく』とな」
「神殿長――」
「まさに今のお前さんのことだと思わんか。ダリス=エバスト。我が弟子よ」
 抗議の声をぴしゃりと遮り、そうして老人は、ぱちりと片目を瞑ってみせた。
「これまで散々、目を瞑ってやったんじゃ。このくらいの仕返しはさせてもらってもいいじゃろう?」
 そう言われてしまうと返す言葉がなくて、ぐっと黙り込む。
 しかし、いくらなんでも無茶苦茶だ。こんな人事に周囲が納得するはずがない。
 そもそも、こういうのは本人の意思を尊重するものではないのか。
 なんで、そんな面倒なことを――!!
 無言の抗議をどこ吹く風と受け流し、そして老人は厳かにこう告げた。
「大切なのは度胸とはったりじゃ。うまくやれよ」
 ……真剣に聞いて損をした。がくっと肩を落とし、ようやく回るようになった頭で文句をつける。
「神殿長……せめてもうちょっとまともな言葉を贈ってはくれませんか?」
「今更格好をつけても仕方あるまい? ああ、一つだけ言うておこうかの。人は変わる。思いも変わる。世は転変しながら流れてゆく。しかし、移ろいゆく世界の中で、決して変わらぬものもある。それがこの先、お主を支え、導くことじゃろう」
 どういうことです、と尋ねようとした時には、老人はくるりと背を向けて、足取りも軽やかに去っていった。
 その背中を見送って、やれやれと息をつく。
「この私が、神殿長――? 世の中、どう転ぶか分からないものだな」
 かつて、上層部と反りが合わずに神殿を飛び出した人間が、こともあろうに本神殿長とは。
 しかし、神殿長がああ言っている以上、この決定が覆ることはないだろう。
「やれやれ……。明日が来るのが、これほど怖いと思ったことはないな」
「何が怖いって?」
 鋭い声に振り返ると、鉄柵の上にどら息子の姿があった。
 猫のような身のこなしでひょい、と地面に降り立ち、訝しげな顔でこちらを見つめてくる青年に、いやなに、と言葉を濁す。
「酒盛りしているのが副神殿長にバレたら怖いなと思ってな」
 あほか、と呟いて、人の手から杯を取り上げる。そしてぐい、と一気に飲み干した黒髪の養い子は、からっぽになった杯を放り投げた。
「証拠がなきゃ、文句の言いようがない」
「もっともだな」
 苦笑いで誤魔化していると、大体なあ、と詰め寄られた。その目が据わっているところを見ると、どうやら街でだいぶ飲んできたらしい。
「てめえがとっとと昇進しないから、あんなのがでかい面してのさばってるんだ。とっとと上に行けよ。んでもって、ガツンと言ってやりゃいいじゃねえか。酒くらい自由に飲ませろ、俺の好きにして何が悪いってな」
 どこまでもまっすぐな瞳。どこまでもまっすぐな言葉。
 本人はへそ曲がりのつもりのようだが、その魂は、いつだって前を見ているから。
 だから時々――見ているこっちまで、柄にもないことをしたくなる。
「そう、だな」
 ふうと息をつき、不安だの重圧だの、余計なものを全部吐き出して、さて、と笑う。
「まだ半分は残ってるな。どうせだから証拠隠滅に付き合え」
「なんだ、それっぽっちも飲めなくなったのかよ? ったく、自分の酒量くらい見極めろよな」
「何を言うか。人間、挑戦心を失ったらおしまいだぞ」
「年考えろ、年! たく、このくそじじいは……」
「飲みたくないなら別に構わんぞ」
「誰もそうは言ってないだろ! ほら貸せよ」
 杯捨てちまったからなー、と酒瓶を呷る息子を行儀が悪い、と叱りながら、彼が買ってきたつまみに手を伸ばす。
 こんな些細な幸せも、きっと懐かしいと思えるほどに、明日からの日々は目まぐるしく変わっていくことだろう。
 だからせめて見ていてくれ、月よ。
 移ろいながらも、決して変わらないその瞳で。
 ちっぽけな人間が、じたばたと足掻くさまを。
-完-



 ダリスさん57歳の出来事でした。ちなみにラウルはこの時18歳。もうすでに神殿を抜け出して朝までコースの日々を送っているようですが(^^ゞ この日は珍しく早くに(?)帰ってきたみたいです。
 神殿長は「夏休み〜スイカ割り〜」が初登場。おちゃめな爺さまですがダリスさん曰く「食えない狸ジジイ」だそうで(^^ゞ
 仲良くなったきっかけは恐らく、お互いこっそり晩酌をしに出ようとしてばったり鉢合わせた、みたいな感じでしょう(^_^;)
 我が弟子、なんて言ってますが、ダリスは彼に師事していたわけではありません。どっちかっていうと、飲みの師匠?(笑)
 ちなみにつまみの塩キャベツはさっぱりしていて結構美味ですよ♪ ワインに合うかは微妙だけど……(^_^;)

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