「ケーキ?」
素っ頓狂な声を上げる常連客に、酒屋の店主はおいおい、と苦笑を漏らす。
「誕生日と言ったらケーキと相場が決まってるだろうよ」
「そういうものか……ああ、確かに、そうだったな」
何やら思い出したらしく、懐かしい目で笑うこの常連客は、なんとユーク本神殿に勤める司祭様だ。
神殿では本来、酒も煙草も禁止されているはずなのだが、この司祭ときたら月に一度は必ず店にやってきて、晩酌用の酒を何本も買い求めていく。ついでにあれこれと雑談に花を咲かせるのもいつものことで、酒談義から酒肴談義に逸れた話は、いつの間にか彼が養子にした少年の誕生日の話題へと横滑りしていた。
明日、十一歳の誕生日を迎えるという黒髪の少年。去年は綺麗な絵本を贈って「ガキ扱いするな」とそっぽを向かれたらしく、今年はもっと実用的なものにしようと知恵を絞ったらしいが、一体何を用意したのやら。
「その養い子はまだちっせえんだろう? 甘いものには目がないはずだぜ」
「小さいと言っても十一歳だぞ?」
「まだまだひよっ子じゃねえか。下手な贈り物をして見向きもされないより、食い物の方が確実だろうよ」
神殿では質素な食事しか出てこないのだと常日頃ぼやいているのは、誰であろうこの司祭当人だ。そんな調子では食後に菓子が出てくることなどまずないだろうから、ケーキの一つでも買ってやれば、大喜びすること間違いない。
「知り合いの店を紹介してやるよ。パン屋なんだが菓子も取り扱ってる」
もっとも、この時間だともう閉まってるかもしれないがな、と忠告する声に重なるように、夕の三刻を告げる鐘の音が鳴り響く。
「ほら、とっとと行った!」
わざと追い立てるように言ってやると、司祭は買い求めた酒瓶を抱え込み、謝辞を述べながらわたわたと店を出ていった。
「……で、慌てて行ってみたはいいものの、今日明日は臨時休業だったと」
ずらりと並ぶ酒瓶を睨みつつ溜息をつくオーロに、ダリスはしゅんと肩を落として頷く。
「どうしたものかな?」
「料理長に頼み込んだところで、そんな洒落たものは作ってもらえないでしょうし……」
本神殿の胃袋を支える料理長は気のいい親父だが、生憎と菓子作りには長けていない。
――と。
「そうだ、ケーキまでとはいかないが、あれなら……」
不意に立ち上がったダリスは、何やら呪文のようにぶつぶつと呟きながら意味もなく辺りをうろつき、そして奇異の目を向けるオーロの前でぴたりと立ち止まった。
「……よし。いけそうだ。オーロ、手伝ってくれ」
新しい悪戯を思いついたような子供のような瞳でそう言われては、頷くしかないではないか。
「くれぐれも、周囲に迷惑をかけない程度でお願いしますよ」
そう念を押すのがやっとのオーロに、ダリスは当たり前だと胸を張る。
「まずは食料庫の鍵を調達するところからだな」
初っ端から不穏な台詞が飛び出したので、オーロは聖印を握りしめて「神よ、お許しください」と呟くと、ほくほく顔で執務室を出ていく上司に続いて歩き出したのだった。
「あー、疲れた……」
礼拝後の片づけを終え、ようやく一日の雑務から解放されたラウルが部屋に戻ってきたのは、日付が変わって大分経った頃だった。
「あれ、じじい?」
いつもなら先に戻っているはずの養父の姿はなく、代わりに見つけたのは、寝台の上に置かれた一枚の紙切れ。
「なんだこれ」
恐る恐る手に取れば、そこには癖のある字で『闇の三刻 厨房にて待つ』と書かれていた。
右肩上がりのこの字は、誰であろう養父ダリスのものだ。よほど急いで書いたのか、ただでさえ読みづらい字がますます難解になっている。
何のことかと首を傾げたところで、闇の三刻を告げる鐘が鳴り響く。その鐘の音に背を押されるように、ラウルは紙切れを握りしめて自室を後にした。
ラウルの部屋から厨房までは、子供の足でも十分とかからない。見回りも難なくやり過ごし、ほどなく辿り着いた厨房の扉からは、僅かな光が漏れていた。
そっと扉に手をかけて、隙間から中を覗く。厨房を淡く照らし出す角灯の光。その周りで何やらひそひそと喋りながら作業をしている二人組は、誰であろう養父と教育係の二人ではないか。
(……何やってんだ?)
「司祭、果物の方はこのくらいでいいでしょうか?」
「ああ、そうだな。よし、生地も出来上がりだ。早く焼かないと。もう鐘が鳴り終っているからな」
片手鍋にどろっとした生地を流し込み、上に果物を並べて蓋をする。
「あとは途中でひっくり返して――なんだ、もう来てしまったか」
驚いた様子もなくそう声をかけてくる養父に、ラウルは溜息をつきながら、扉の隙間から体を滑り込ませた。
「こんな夜中に何やってるんだよ」
呆れ顔で尋ねれば、ダリスはふふんと楽しげに鼻を鳴らす。
「なぁに、ちょっとしたお楽しみだ。ほら、手を洗ってそこに座れ」
訳が分からぬまま、片隅の手洗い場で手を洗い、椅子にちょこんと座る。角灯に照らされた真夜中の厨房。鍋から立ち上る甘い香り。あまりにも日常からかけ離れた光景に、何だかまるで夢を見ているようだった。
「よし、もういいかな」
意外なほど慣れた手つきで鍋の中身をひっくり返し、そして再び蓋をするダリス。
「オーロ、皿をくれ」
「はい、ここに」
食器棚を漁っていたオーロが取り出したのは、鍋よりも大きな平皿だ。危なげなく皿を受け取ったダリスは、鍋の蓋を外し、代わりに皿を被せて、裂帛の気合いと共にひっくり返す。
見事に皿の上へと移ったそれは、今まで見たことのないものだった。たまに朝食で出される平たいパンにも似ていたが、それよりも柔らかく、中には薄切りの林檎や干し葡萄の姿が見える。そして何よりも、漂う甘い香りが、深く胸の奥底に押し込んであった「憧れ」を呼び覚ます。
「これって、ケーキか?」
貧民街で暮らしていた頃は、甘いものなど口に入るわけもなかった。たまに子供好きな街娼などが気まぐれに飴や干した果物をくれることもあったが、そのたびに「ガキじゃないんだ、そんなもんいるか」と嘯いて、もっと幼い子供らにくれてやった。
神殿で暮らし始めてからは食事に困ることはなくなったものの、神殿の食事というのは驚くほどに質素だ。食後に酒や菓子が出るわけもないし、誰かからもらう機会もない。
だから目の前でほかほかと甘い湯気を立てている「それ」は、ラウルにとって初めての「甘いもの」――絵本で見るたび、話に聞くたび、指をくわえて見ていることしか出来なかった、あの憧れの――ケーキだった。
「ケーキと呼べるほどのものではないがな。料理はあまりしないが、これだけは作れるんだ」
胸を張るダリスを横目に、オーロが取り皿とフォークを食卓に並べていく。
「温かいうちにいただきましょう。司祭、切り分けてくださいよ」
「いや待て、その前に――」
ダリスが懐から取り出したのは、ラウルの瞳と同じ、深い紺色の飾り紐だった。
「その髪では口に入ってしまうだろう」
肩を越えて伸びた黒髪をひとまとめにし、手際よく紐で括る。
「ほら、これでいい。これも誕生日の贈り物だ。使ってくれ」
その言葉でようやく合点がいく。
(そうか、今日って――)
五の月十七日。三年前の今日、少年はダリスに拾われて、「ラウル」という名前をもらった。
「さあ、冷めないうちに食べようじゃないか」
手際よく切り分けたケーキを小皿に取り分け、いそいそとフォークを取り上げるダリス。養父に倣って恐る恐るフォークで突けば、見た目以上に柔らかい感触が伝わってくる。意を決して口に運べば、ふんわりと優しい口触り。卵と林檎の甘さがほどよく溶け合って、あっという間に消えていく。
そこからはもう夢中だった。二人が目を細めてこちらを見つめていることにも気づかず、無我夢中でフォークを口に運ぶ。
「そんなに急ぐな。のどに詰まらせるぞ」
そう窘めつつ、ゆっくりとケーキを口に運んだダリスは、懐かしい味に頬を緩ませた。
「うん、久しぶりに作ったわりには上手くいったな」
「初めて食べましたが、とても美味しいですね。何という名前なんですか?」
「さあ……作り方を教えてもらっただけでね、名前までは聞かなかったな」
教わったのは、もう数十年も昔。料理人不在の折、甘いものが食べたいと駄々を捏ねる小さい妹を宥めるため、ばあやに教わりながら作ったのが最初だったか。
若干焦げてしまったケーキを、それでも美味しいと喜んでくれた妹の無邪気な笑顔を思い出し、くすりと笑う。そんな養父を怪訝そうな面持ちで見上げるラウルの皿はとっくにからっぽだ。
欠片一つ残さず平らげた少年の皿にお代わりを乗せてやろうと立ち上がったオーロは、ダリスがさり気なく調理台の上の蒸留酒を引き寄せようとしていることに気づいて、その手をばしんと叩いた。
「駄目ですよ! 風味づけだというから持込みを許可したんですからね」
「少しくらい、いいじゃないか。酒と甘味は思いのほか合うんだぞ」
「ラウルに変なことを吹きこまないでください!」
まだたっぷりと中身が残っている酒瓶を取り上げて、ぷりぷりと怒ってみせるオーロ。ちぇっ、と子供のように拗ねてみせるダリスに、大人げねえなあと笑うラウル。
夜更けの厨房で行われたささやかな祝宴は、声を聞きつけた見回りの神官に見つかって大目玉を食らうまで続けられたのだった。