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第三章[4]

 夜だった。
 空は暗く、眼下に広がる大地にも闇が広がっている。
 風を感じる。高速で体の周りを流れていく風。
 そう、風を切って飛んでいるのだ。ただひたすらに。
 辿り着かなければ。この体が消えてしまう前に。
 逃げおおせなければ。背後から追って来る影から。
 体から力が急速に失われていくのが分かる。先ほど受けた傷から流れ出している血の量は半端ではない。しかしその血も、風に流されキラキラと輝く光の粒子となって空に散っていく。
 それにしても、不意をつかれたとはいえ、これほどの怪我を負わされるのは初めてだ。 えも言われぬ恐怖が、心に渦巻く。
 相手は、ただの人間であるというのに。
 影の力を得て、あれほどまでに強敵となるとは。
 景色が変わる。視線の彼方に、広大な都市の遺跡が映る。
 もうすぐだ。
 あと少しで追っ手を振り切れる。そして、あの人に――

(落ちる!!)
 と思った瞬間、ラウルは寝台から飛び起きていた。
 辺りを見回す。すっかり住み慣れた小屋の寝室だ。まだ辺りは暗い。
(夢、か……?)
 それにしては随分鮮明な夢だった。風を切る感じや全身から響く痛み、迫り来る恐怖感の残滓が、いまだラウルを震えさせる。
 ふと視線を落とす。寝台の横に置かれた籠の中で、卵が同じように震えている。
「今の、お前か?」
――ぴぃ――
 肯定らしき響きが返ってきた。
「あの夢は、実際にあったことなのか?」
――びぃぃっ――
「誰かに追われてたみたいだったな。しかも全身に傷を負って……そうか、だからか」
 竜は、力が激減した時や大怪我をした時、自ら卵となって生まれ変わる。文献にはそう書かれていた。
 竜は何者かによって傷つけられ、ここまで逃げてきて力尽き、仲間の元ではなく最果ての村の廃屋前で、卵となったのだ。
 夢とはいえ、あまりの衝撃にすっかり眠気が覚めてしまったラウルは、溜め息をついて寝台から降りる。
 明り取りの窓から差し込む月光に、部屋の中は青く照らされていた。
「お前、えらい目にあったんだな」
 籠の中で震えている卵に、そっと語りかける。卵はそうだと言わんばかりに、小さく鳴いてみせた。
「卵になっても、記憶はそのままなのか……」
 全ての命は、死して輪廻の輪に加わり、再び生を受ける日まで輪の中でゆっくりと浄化されると教えられている。全ての過去を洗い流し、まっさらな命となって地上へと生まれいずる。
 しかし竜は上位精霊であり、実体を持ってはいるが限りなく精神体に近いものだと、先日やってきた二人の魔術士は言っていた。肉体はかりそめのものであり、何度でも蘇ると。
 しかしそれは、限りなく永遠に近い時を、全ての記憶を持ったまま生き続けるということになる。それは、ラウルには到底想像のつかないことだった。
 視線を落とす。そこにあるのは、月明かりに照らされて青白く輝く卵の姿。
 それは、とても大いなるものの仮の姿とは思えないような、脆弱で、そして限りなく無垢な存在に見える。
「……非常に不本意ではあるが、お前が無事孵るまでちゃんと面倒見てやるよ」
 それまで守ってやる。だから安心しろ、という言葉は、さすがに照れくさくて口に出来なかった。
 その思いに応えるように、卵が柔らかい光を放つ。それはまるで、春の陽だまりのような温かい光。
――ぴぃぃっ――
 安心しきったかのような声に、ラウルは現金なやつめ、と卵を小突く。
(しかし、竜を傷つけられるほどの力の持ち主たぁ、一体……)
 先程感じた恐怖感は半端なものではなかった。背後から迫り来る何か。それに捕らわれたら最後、自分という存在が無くなってしまうのではないかという恐怖。
(そうそう諦めたとも思えないしな……。こりゃ、そのうち一騒動あるかもな)
 溜め息をついて、ラウルはどうやら眠ってしまったらしい卵をそっと撫でた。
(ま、目の前で壊されちゃ後味悪いからな。なんとかしてやるから、早いトコ孵ってくれよ)
――びぃ……――
 寝ぼけたような返事が返ってきて、ラウルは思わず笑みを浮かべた。

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