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第八章[5]

「何度も、逃げ出そうと思った。それでも……そのことでまた、あんたが陰口叩かれるのが嫌だった、から……」
 ただでさえ、貧民街の子供を引き取ったことだけで、彼は何かと陰で囁かれるようになっていた。幼心にもそれが悔しくて、ユークの声を聞き、神官として認められた時は飛び上がるほど嬉しかった。
 やがて彼の養い親は神殿を預かる最高の位へと登りつめ、忙しさが彼らを遠ざけた。
 血は繋がらないながらも、神殿長の息子として将来を期待されていた彼。しかし、生来の性格はどうやっても変えることは出来ず、しばしば神殿を抜け出してはいざこざを起こした。
 そんなこともあって、実力があるにも関わらず、ずっと神官の座に置かれ続けた。そして、しまいには貴族の子息に怪我を負わせ、本神殿を追われたのだ。
 厄介払いが出来て清々している、といった神官達の顔を笑い飛ばし、神殿を出て行ったあの日。
 何気なく振り返った時に目に飛び込んできた、神殿長の顔。その強張った表情を失望と感じ取って、ラウルは逃げ出すようにその場を去った。


「俺は……あんたの期待に沿えるような、立派な人間になんてなれやしない……そんなこと、あの時から分かってたんだ……人を殺めた俺が、罪人であるこの俺が、命の尊さを説くユークの神官なんて……」
 途切れ途切れの言葉。薄く開けられた瞳は、ゲルクではなく、遥か遠い地にいるのであろう人間を見つめている。
(こやつ……ワシを誰かと勘違いしておるな)
 普段のラウルからは想像も出来ない、ぶっきらぼうな喋り方。しかし、恐らくはこれが、彼の本来の姿なのだろう。思い当たる節のあるゲルクはそう、確信する。
「猫を被りおってからに……」
 しかも特大の、それはもうふてぶてしい猫だ。
 ゲルクの頬が、わずかに震えている。 怒っているのかと思いきや、ゲルクは爆笑しそうな自分を必死に抑えていた。
(まるで、昔の自分を見ているようだ。やれやれ、気恥ずかしいもんじゃな)
 ゲルクもまた、猫被りの大家だった。今となってはそれも笑い話になるが、身に覚えがあるだけによく分かる。人前では品行方正な貴族の子息を演じ、心の中で舌を出していた若き頃。それは自分を守るための手段であり、下らない体裁にこだわり続ける家や神殿に対する密かな反抗でもあった。
(何をしでかしてここに飛ばされたかは知らんが、ま、ろくでもないことをやらかしたんじゃろうな)
 こんな僻地に優秀な人材がおいそれと派遣されるわけもない。それはゲルクも分かっていたことだ。
 そして。
 人を殺めた、とラウルは言った。罪人だと、そう言った。
「……お前が罪人なら、ワシはとんでもない大罪人じゃな」
 かつて、ゲルクはいったいどれほどの命を奪っただろう。命の尊厳を謳うユークの神官が、例えそれが自らを守るため、そして歪んだ野望を阻止するためとはいえ、幾人もの人間を斬った。
 彼を庇って死んだ仲間、そして邪法にて蘇らせられたその虚ろな肉体までも、彼は斬らなければならなかった。そして、そうするしか出来ない自分を悔やみ、嘆いた。
 それでも、ゲルクはこうして生きている。平和な村で、家族に囲まれて、彼は今日もまた生きて続けている。
 そっと、ラウルの額に手をやる。 伝わってくる熱さは、まさに彼が生きている証。そして、戦い続けている証。
「……生き続けることこそが、お前が殺めた人間への償いだ。ワシもそうやって、この年まで生きてきたのじゃよ」
 ゲルクの手を、ゆっくりとラウルの手が掴む。それは、若者の無限の可能性を秘めた手。幾度血に染まろうと、その手は明日を求めて何度でも伸ばされるだろう。
「じじ、い……?」
 おかしい、とラウルの意識の片隅が疼く。この声は、聞き慣れたこの声は、しかしあの養い親のものではない。そのことに、ようやく気づいた。
 それでも。その言葉は、かつて彼に投げかけられたものと同じ。決して諦めずに、まだ見ぬ明日を希求する者の、魂の言葉。
「命の尊さ、そして儚さを誰よりも知っているお前は、立派なユークの御使いじゃ。ワシがそれを保証しよう」
 それは、彼が心のどこかで望んでいた言葉だったのかもしれない。
(そう……か……)
 その言葉を聞いた瞬間、すっと、心地よい眠りがラウルを包み込む。
 瞼をしっかりと閉じ、再び深い眠りにつく彼に、ゲルクはふぅ、と溜め息をついた。
「……ワシはあの時、ユークの声を聞く力を失った。だからワシに術は使えん。それでも、祈りを取り上げられた訳ではない」
 床に膝をつき、両手をしっかりと組む。瞼を閉じ、ただひたすらにゲルクは祈った。
『夜を統べる王、闇の衣を纏いしもの。光と対なす、偉大なる少年神。傷つき倒れし者、心揺らぎ迷う者に、闇の安らぎと癒しを分け与え給え……』
 懐かしい闇の波動を感じることは出来なかった。それでも、ゲルクは祈り続ける。
『今、あなたの力を必要としているものが、ここにいる。傷つき、迷い、それでも尚戦い続けるこの青年に、どうかほんの少しでもいい。傷ついた体を癒し、明日へと立ち上がる力を、分け与えて下され……』
 一心不乱に祈り続けるゲルクの頬を、涼しい風がすっと撫でた、そんな気がした。
 ふと窓を見る。先ほどきちんと閉めたはずの窓が開いていた。
 そして、その向こうに見知った顔が覗いていることに気づいて、ゲルクはふと目を瞬かせた。

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