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第二章【3】

 月明かりが差し込んでくる。
 エストの夜は、とてつもなく静かだ。静か過ぎて落ち着かないくらい。
(ほんっと、何の音も聞こえないよな……)
 寝巻きに着替え、書斎の書き物机に向かって日誌を書いていたラウルは、結びの文章を綴ると、ぱたりと筆を置いた。
 本神殿にいた頃は、どんな深夜になっても街の喧騒がどこからか聞こえてきていた。深夜のお祈りが済んだ後、神殿を抜け出して盛り場に繰り出したものだ。そして明け方近くに帰ったところを神殿長に見つかって、こっぴどく怒られていた日々が、今となっては懐かしく、また恋しい。
(でも、これが本当の夜なんだな)
 夜とは、静寂の時間なのだ。闇は静寂の中で冴え渡り、世界の眠りを見守り続ける。
 やがて昇ってくる朝日が世界を目覚めさせるまで。
 しかし、人々は闇を恐れる。暗闇はまた、恐怖の象徴でもある。
(よし、お祈りして寝るか……)
 書き終えた日誌を引き出しにしまって、ラウルはユーク神像に歩み寄った。 ゆっくりと息を吸い、瞳を閉じて詠唱を始める。
『我らが闇の父 夜を束ねるもの 世界を眠りへと誘い やがて来る明日へと導くもの……』
―――ピィィィィッ!―――
 脳裏に突然、あの鳴き声が響いてくた。思わず詠唱を中断し、辺りを見回すラウル。 扉を閉め忘れたのかと思ったが、扉はしっかりと閉まっている。
―――ピィィ、ピィッ……ピィ……―――
 問答無用で脳裏にこだまする大音量。
(あの野郎、距離はお構いなしか?!)
 もっとも、心に直接語りかけているならそうかもしれない。 ラウルは耳を押さえながら、早足で居間へと向かった。
 居間の暖炉の前で、卵がぼんやり光りながらラウルを待っている。
 ラウルが近づくと、卵はぴかぴかと明滅してみせた。
「……何の用だよ」
 ラウルの言葉に、がたがたと揺れる卵。
 ―――ピィッ!ピィィッ!―――
 鳴き声が響くが、意味などラウルには分からない。
「何だよ」
―――ビィィッ―――
 何か訴えるような鳴き声である。
「分からねえって」
―――ビィィィィィッ!!―――
 段々大きくなってくる鳴き声。何か訴えたいらしい事は分かるが、一体何が不満なのか見当もつかない。
―――ビィィィィィッ!!―――
 とうとう痺れを切らしたように大音量で泣き叫ぶ卵。思わずラウルは耳を押さえるが、心の中に直接響いてくるだけに、耳を押さえてもちっとも変わらない。
「だから、なんだっつーの!」
 思わず大声で怒鳴るラウルだが、
―――ビィィィィィィィィッ!!―――
 負けじと鳴き叫ぶ卵。これでは埒があかない。
 毛布にも包んで暖かいはずだし、食べ物は必要としていないようだし、特に不満があるようには思えない。それなのに鳴き続ける卵に、ほとほと困り果てて思わず天井を仰ぐラウル。
(赤ん坊に泣き叫ばれる母親ってのは、こんな心境なのか……)
 そんな事を思いながらも、このままではどうしようもない。もしかしたら、と卵を籠から持ち上げる。
 どこかキズでもついたかと思ってぐるぐると回してみるが、別段変わったこともなかった。
(何なんだよ……)
 今まで大人しかっただけに、突然のことで何がなんだか分からない。 だいたい、卵の状態で泣くことがまず非常識なのだ。
(困ったな……)
 せめてマリオや三人組がいる昼間なら良かったかもしれないが、考えてみれば彼らだって何が出来るわけでもない。誰だって、こんな卵を育てるのは初めてなのだ。
(ん?そうか、赤ん坊だと考えりゃ……)
 ラウルの脳裏に、ついこの間会った彼女の言葉がよみがえる。艶やかな小豆色の髪をした、こんな田舎には勿体無いほど美しい、彼女の言葉。
『……と言っても、あたしに分かることなんて子供のことくらいしかないけど……』
 六人も育てている彼女なら、何か分かるかもしれない。
 彼女は酒場兼食堂を営んでいると言っていた。もう遅い時間だが、もしかしたらまだ起きているかもしれない。
(よし、行くだけ行ってみるか……)
 駄目でもともと。このままではうるさくて、ラウルの頭がどうにかなりそうだ。
「よし、行くぞ!」
 外套をひっかけ、卵の入った籠をがしっと持ち上げて、ラウルは一目散に小屋を出て行った。

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