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第二章【9】

「ラウルさん達、今頃どこにいるんだろう……」
 木炭を持つ手を止めて、マリオはふと空に視線を向ける。 雲ひとつない空。あの突風以来、いい天気が続いている。この青空を、ラウル達も見上げているのだろうか。
 木炭を地面に置いて、まだ描き途中の素描を改めて見るマリオ。今日の題材は、村から少し離れたところにある小さな湖、カルダ湖の風景だ。 木陰で紙に木炭を走らせることすでに一刻余り。大分描き込んであるが、まだ納得のいく仕上がりになっていない。
(もうちょっとだな……)
 再び木炭を手に取るマリオの前方から、少女の声が響いてきた。
「マリオー!お昼にしましょう!」
 顔を上げると、湖のほとりから幼馴染の少女が手を振っていた。その側には釣り糸を湖面にたらし、のんびりと釣りを楽しんでいる老人の姿がある。
 そう、今日はゲルク老人のお供で、ここカルダ湖までやってきているのだ。勿論、幼馴染のエリナも一緒に。
 もっとも、お供はエリナの方で、マリオはちゃっかりついてきただけだが。
「うん!今行くよ!」
 急いで木炭を小さい木箱に戻し、画板を小脇に挟んで立ち上がる。
「今日は私が作ったのよ、このお弁当」
 地面に敷いた布の上に広げられたお弁当は、パンやチーズの他、鶏肉を揚げたものやゆで卵を潰して野菜と合えたものなど、どれもこれも美味しそうなものばかりだ。
「うわぁ、おいしそうだね!」
 早速手を出そうとした途端に、
「こりゃ小僧!行儀が悪いぞ。木炭をいじっとった手を出すな」
 とゲルクにぴしゃりと言われ、バツの悪そうな顔でエリナを見上げる。
 エリナはくすくすと笑って、マリオに手拭きを渡してやった。
「ほら、おじいちゃまも」
「おう、そうじゃな」
 釣り竿から手を離し、どっこいしょ、とエリナの隣に座るゲルク。それを見てマリオが少々残念そうな顔をしているのに、エリナは気付いていない。
「それじゃ、いただきます」
 エリナの言葉を復唱し、三人は昼食に取り掛かる。
「エリナの作るご飯は美味しいね」
 舌鼓を打つマリオにエリナは、ありがとうとにっこり微笑んでみせる。
 天気の良い日に、のんびりと戸外で美味しい食事。まさに幸せな一時だ。
「今日は何を描いてたの?」
 エリナの問いかけに、マリオは少々照れながら描きかけの素描を渡した。
「うわぁ、きれいねえ」
 手放しに誉めるエリナ。この幼馴染が昔から絵を描く事を趣味にしているのは村中承知のことだが、恥ずかしがり屋の彼が描きかけの絵を見せるのは、家族やエリナなど極親しい人間だけだ。
 木炭の濃淡だけで描かれた湖の景色は、まるで景色をそのまま切り取ったかのような正確な描写がされている。気に入ったものだけその素描を元にして、木枠に布を張った上に油絵の具を使って、色彩鮮やかに描き上げるのだ。なにしろ、絵の具が高くて子供の小遣いではなかなか数を揃える事が出来ない。村長の息子といってもさほど裕福なわけではないので、小遣いの額は村の子供と対して変わらないマリオだった。
 ちなみに、現在マリオが手がけている油絵はたった一枚のみ。しかもこれだけは家族やエリナにも素描すら見せていない。
「ふん、相変わらず絵だけは上手じゃな」
 いつの間にか横から覗いていたゲルクに言われ、途端に恥ずかしがるマリオ。
「そういえば、前はラウルさんの小屋で絵を描いてたけど、最近はどうしてるの?」
 素描をマリオに返しながら聞いてくるエリナに、マリオはああ、と笑って
「今でもあそこを使わせてもらってるんだ」


 最初はただ、留守番を頼まれた間の暇つぶしのつもりだった。夏祭までに仕上げたい一枚が、まだ全然描き上がっていなかったので、ラウルが家を空けるほんの少しの間に進めようと思い、画材一式を小屋に持ち込んで描いていた。
 小屋には冒険者三人組がいることも多いが、その日はたまたま三人も村を離れており、小屋にはマリオと卵だけ。絶好の機会とばかりに集中して絵に取り組んでいたマリオは、ラウルが帰ってきたことにも気付かずに絵を描き続けていたのである。
「話は聞いてたけど、ホントに上手いんだな」
「そんなことないですよ」
「そうかぁ?これエリナだろ、よく描けてるなあ」
「えへへ。夏祭に渡そうと思って、頑張ってるんですよ」
 はっと我に返ったときにはもう遅かった。
 背後には絵を見ながらうんうんと頷いているラウル。もう隠しようがない。しかも今、つい反射的に色々喋ってしまったような気がする。
「ラ、ラウルさん!いつの間に帰ってきたんですか?!」
 立ち上がってわたわたしているマリオに、ラウルは呆れた顔で
「もう一刻以上前に戻ってきてたぜ。お前が気付かなかっただけで」
 と答えた。あまりにも熱中して描いていたので邪魔しちゃ悪いとそのまま放っておいたが、いい加減外も暗くなってきたので、声を掛けたらしい。
 その言葉にはっと窓の外を見る。さっきまではまだ明るかったはずなのに、気付けばすでに日も暮れて夕闇が空を覆っているではないか。
「僕、そんなに長い時間描いてたんだ……」
 ここしばらく絵筆を取っていなかったので、つい時間も忘れて描き続けてしまったようだ。昼ちょっとすぎにラウルを見送ったはずだから、大体三刻ほど絵に向かっていたことになる。途中休憩もまったくなし。
(それじゃ、描き進むはずだよなあ……)
 まだ素描から起こした段階だった絵は、すでに半分ほど仕上がっている。今日はえらく筆の進みがいいと思っていたが、単に思いっきり集中していたから時間の経過を感じなかっただけらしい。
「なんだ、夏祭って?」
 ラウルの言葉に、画材を片付けながらマリオは
「八の月に行われる祭ですよ。もとは短い夏を迎える儀式だったらしいんですけど、今じゃ出店が出たり、踊ったりして楽しい祭になってるんです」
 と答える。辺鄙でのどかなこの村では、みんな心待ちにしている行事である。しかしそれだけではない。
 そう、夏祭は若者にとっての一大行事なのだ。もっとも、中央大陸からやってきたラウルが知るよしもないが。
「夏祭に贈り物をして相手が受け取ったら告白成立とか、そんなんでもあるのか?」
 マリオの顔が、驚きと焦りと恥ずかしさで真っ赤になる。
「ななな、なんで知ってるんですかぁ?!」
「なぁに、祭っつったらそういうのはよくある話だろ」
 にやにやしながら絵を見つめるラウル。マリオの意中の相手が誰か、一目瞭然である。
「そうかぁ、お前やたらにエリナに手を出すなとか言ってるからもしやと思ってたけど、やっぱりそうなんだなあ」
 いやあ若いね、とか何とか言って茶化すラウルに、真っ赤なままのマリオは
「い、いいじゃないですか!僕が誰を好きになろうと」
 と怒鳴るが、いかんせん迫力がない。
「別にけちなんかつけてないだろ。いいじゃないか、幼馴染に寄せる恋心!青春だねえ」
 子供の頃の純粋な恋心。それは大人になるに従い、忘却の彼方へ葬り去られてしまうものだ。
「しかし、夏祭なんてまだまだ先の話だろ?随分頑張るな」
 まだ五の月半ば。祭までは二ヶ月以上ある。しかしマリオは
「納得のいくものに仕上げたいんです。そのためには時間なんて、いくらあっても足りないくらいですよ」
 といっぱしの画家のようなことを言ってのけた。
「ほぉぉ」
 絵心どころか全般的な創作能力に乏しいラウルにはよく分からない世界である。しかし分からないなりに、マリオがこの一枚の絵にかけている情熱は伝わってくる。
 そう言えば、とラウルはこの小屋に来た日を思い出した。あの日、ラウルが小屋に入る前になにやら片付け物をしていたマリオ。
「あの時片付けてたのは、これか」
「そうです」
「なんだ、別にそのままだって構わなかったのに」
「描きかけの絵を人に見られるのって恥ずかしいんですよ」
 完成後の絵だって、よほど満足のいくものでない限りは飾ったり、人に見せびらかしたりすることをしないマリオである。それでも何点かの作品は家の居間や廊下などに飾られているが、どれも風景画ばかりだ。
 もともとマリオが得意としているのは風景画や静物画で、写実的な画風はまるで、風景をそのまま切り取ったようだと村では評判である。しかしラウルが今見てしまった人物画などはほとんど描いたりしないし、描いても人に見せることはない。そう、この絵は特別なのだ。
「そんなもんかねえ」
 片付けられていく画材を物珍しそうに見ながらラウル。そんなラウルに、マリオがぐぐっと詰め寄る。
「ラウルさん!」
「な、なんだよ」
「この絵のこと、エリナや村の人達に言っちゃ駄目ですからね!絶対ですよ!じゃないとラウルさんが女性問題でここに飛ばされてきたこと、みんなにばらしちゃいますからねっ!いいですねっ!」
 物凄い剣幕に、ラウルは反射的に頷く。
「あ、ああ。言わない、言わない」
「絶対ですからねっ!」
 まだ言っているマリオを、ラウルは妙に優しい目で見つめていた。
(可愛いねえ、馬鹿がつくくらいに純粋で)
 かつての自分に、こんな純粋で一途な少年時代があっただろうか。 一夜限りの刺激的な恋ばかりに溺れて、本当の恋というものを見失ってしまったような気がする。
 不夜城と呼ばれたあの街に、真実など転がってはいない。あるのは嘘と見栄と金だけ。
 夜の帳すら街の明かりに照らされ、真の闇をもたらさない。あの街は、まさに眠らない街だ。
「もう終わりにするなら、書斎の隅にでも片付けておけよ」
 ラウルの言葉に、マリオがえ?と見上げる。
「ここで描けばいいさ。どうせ俺一人には広い家なんだからな。心配しなくても、邪魔しないよ」
 その代わり汚すなよ、と釘を刺すラウルに、マリオは笑顔ではい、と頷いた。
(なんだかんだ言って、ラウルさんって結構優しいんだよなぁ)
 口が悪いのも素行が悪いのも確かだが、何より根本的に人がいいのだろう。多分。
 そうでなければ、いくら勢いとはいえ謎の卵を育てようなどと思わないだろうし。

「マリオ?」
 はっと声のした方を見ると、エリナが不思議そうな表情でマリオを見つめていた。
「どうしたの?急に黙り込んじゃって」
「う、うん。ちょっとラウルさんのこと考えてただけ」
 ラウル、と聞いた途端、エリナが顔をほころばせる。
「ラウルさんかあ。出発してもう三日たったけど、今頃どこにいるのかしら」
 その表情に、マリオの顔が少々曇る。
「ラウルさんって、都会から来ただけあって、垢抜けててかっこいいわよねえ」
 そう、エリナだけでなく、村の女性のほとんどが、彼に大なり小なり好意を寄せている。まあ、猫をかぶっているラウルは、優しくて礼儀正しい洗練された男性に見えるから、エリナが夢中になるのもおかしくないのだが、本性を知っているだけになんとも腹が立つ。
「そんなもんかなあ」
 しかし約束があるので本性をばらすわけにもいかない。かと言って「そうだね」なんていうわけにもいかず、苦しい立場のマリオであった。
「村の人達にも評判いいし、最近じゃ近くの村でも、ラウルさんの噂でもちきりなんですって」
「あんな若造のどこがいいんじゃ」
 苦々しい口調で言うのはゲルクである。しかしエリナはきっぱりと
「だって、とっても優しいし、何より顔がいいもの!」
 と言ってのける。
「か、顔ってエリナ……」
 確かにラウルはそこそこの美形だが、こうもはっきり「顔」と言い切られるとなんとも切ない。
「何を言うかエリナ。ワシだって昔は、あの若造など足元にも及ばないくらいの美形じゃったぞ」
 ふんぞり返るゲルク。その祖父の顔をじーっと見て、エリナはため息をつく。
「年月って残酷……」
 このゲルク相手にこんな発言ができるのは、エリナくらいであろう。横でびびるマリオを尻目に、エリナは尚も続ける。
「ラウルさんっていつも黒づくめの神官服しか着てないけど、もっとちゃんとした格好をしたらきっと、王子様みたいにかっこよくなるんじゃないかな」
(お、王子様……?)
 思わずゲルクと顔を見合わせてしまったマリオ。
(女の子の考えてることって、時々分からないや……)
(……我が孫ながら、よう分からん思考回路じゃのう……)
 王子様はすべからく若くてかっこいいという図式が出来上がっているのだろうか。
 このローラ国には現在、王子が一人存在するが、極めて病弱で滅多に国民の前に姿を現す事はない。数少ない目撃談によれば、王子は顔色の悪い、華奢な体躯の少年だという。今年十六であるから「若い」という形容詞は当てはまるが、「かっこいい」かは不敬ながらもいささか疑問だ。
 更に現実に目を向けるならば、現国王は四十代で即位している。という事はそれまで王子と呼ばれる身であったはずで、しかも王子時代から少々小太りで頭髪の薄い男だったとゲルクは記憶していた。
「のう、エリナ……」
「そうだ!おじいちゃま、夏祭のお仕事もラウルさんにお願いするのよね?そうよね?」
 ゲルクの言葉など耳に入らない様子で、詰め寄ってくるエリナ。違うとは言わせないと言わんばかりの剣幕に、ゲルクは思わず頷く。
「う、うむ」
「いい機会だわ!」
 マリオを無視してぐっとこぶしを固めるエリナ。その瞳になにやら決意が漲っている。
「エ、エリナ?」
「ラウルさんが戻ってきたら、すぐに始めなきゃ!」
 妙に張り切っているエリナに、なにやらいやな予感のするマリオだった。
(なんか、今年の夏祭は大変かも……)


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