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第八章【3】 |
「どうして、マリオったら来ないのかしら」 首を傾げるエリナに、村長は曖昧な笑みを浮かべる。 「さあ、どうしてでしょうねぇ。でも、きっとすぐにいつものマリオに戻りますよ」 数日前からぱったりとラウルの見舞いに来なくなったマリオに、エリナが不審の念を抱くのも仕方ない。マリオも、そしてラウルも何も言わず、そのマリオは部屋にこもって出てこないという。 ラウルがエストに戻って六日目。いまだラウルは床に伏したままだった。 マリオが来なくなった辺りからラウルもまた人を寄せ付けなくなり、心配したエリナが三食の食事だけは作りに来ているが、それもあまり食べようとしない。 「ラウルさんも全然よくならないし……」 「ええ、そうですねえ……」 先ほども夕食を持っていったが、ほとんど手をつけずに終わった。食欲がないからとエリナに謝るラウルだったが、その態度もどこかよそよそしくて、余計にエリナを心配させていた。 わずかに夕食をとった後は再び深く眠りについてしまい、額を冷やす布を替えても気づかないほど。明らかに、先日より憔悴の度合いが激しくなっている。 また先日のような事が起こらないとも限らないため、誰かがラウルの部屋に入る際にはさりげなく同行していた村長だが、部屋に誰が入ってきた事にも気づかずに昏々と眠り続けている時間が長くなっていた。 (本当に、大丈夫でしょうかね……) さしもの村長も心配になってきた、そんな折。 小屋に、意外な見舞い客が現れた。 「おじいちゃま?」 りんごの皮を剥いていたエリナは、入ってきた人物に目を丸くする。 「これはこれは、ゲルク様。ラウルさんのお見舞いですか?」 村長も、細い目を更に細めて、意外な来客を見つめていた。 「なんじゃ、ワシが見舞ってはいけないとでもいうのか?」 「いえ、そんな事は……しかし、こんな時間に外に出られて大丈夫ですか?」 すでに闇が空を覆い、月と星が地上に光を投げかけている。しかも辺りは夕方まで降り続いていた雪に覆われ足元も安定しない。そんな中を、この老人がやってくるなどとは、さしもの村長ですら予想できなかった。 「そうよ、おじいちゃま。夜になると節々が痛いって言ってたのに……」 心配げな孫娘に、柔和な笑顔を向けてゲルクは言う。 「なあに、なんともないわ。で、あの若造は?」 「それが、昼過ぎからまた熱が上がってしまって……」 「やっぱり、明日にでもお医者様を呼んできた方がいいかもしれないわ。このままじゃラウルさん……」 「だからワシが来たんじゃよ」 「と、おっしゃいますと?」 首を捻る村長。ゲルクはふんぞり返って、二人に言ってみせた。 「ワシには医療の心得はないが、安静をもたらす祈りは出来る。これでもユークの司祭じゃ、少しは役に立てるじゃろうよ」 「おじいちゃま!」 ぱぁっと顔を輝かせるエリナ。 「夜でないと、あの気紛れな神様は多くの力を授けてくれんからの。わざわざこんな時間に来たというわけじゃよ。さ、ワシに任せてお前達は帰るがええ。村長、すまんがエリナを家まで送ってくれるかの?」 「はい、勿論です。しかし……お一人で大丈夫ですか?」 「ワシを誰だと思っとる?心配は無用じゃ」 さあ、出た出た、と二人を追い出しにかかるゲルク。エリナと村長はしばし顔を見合わせていたが、すぐにゲルクの言うとおり小屋を出て行った。 「なんだかんだ言って、おじいちゃまもラウルさんが心配でしょうがなかったのね」 「そうですね」 そんな事を言いながらエリナと共に丘を下る村長は、ふと小屋を振り返る。 空にかかる月が、まるで慈しむように小屋を照らしていた。 (……とはいえ、何もできんこの身の辛さよ) 安息を呼ぶ香を焚き、水を張った桶を寝室に置く。毛布を一枚足してやって、それでゲルクの出来る事は終わってしまった。 (司祭とは名ばかり、実際には、ただの口うるさい爺でしかないなどと、この男が知ったらどうなるか……) 六十年前、神を呼ぶ術を行使した代償に、神の声を聞く事の出来なくなったゲルク。それでも、この平穏な村で生きていく分には何の差し障りもなかった。 しかし。目の前で安らぎを求める者がいるのを、手をこまねいて見ている事しか出来ないこの身が、今は疎ましい。 何もできないと分かっていて、それでもやってきたのは、半分は毎日ラウルの看病に行っては浮かない顔で帰ってくる孫娘のため。そして残り半分は償いの気持ちからだった。 この青年は、影の神殿の手によって連れさらわれ、今はとある場所で孵化を待ち続ける竜の卵の場所を吐かせようとする彼らによって、手ひどく痛めつけられていたという。 六十年前、この地に巣食う「影」は潰えた筈だった。 この手で、巫女と呼ばれる少女を討った筈だった。 それなのに、影は執拗にその根を地中に這わせ、生き永らえていたのだ。 それは、自分の責任だ。あの時完全に根絶やしにしたはずの影。その一片を、むざむざとのさばらせていた。 ふと、寝台に横たわるラウルを見やる。熱が上がったのか、時折うわ言を呟くラウルに、心配そうな顔をするゲルク。 と、ラウルが、乾いた唇を動かした。 「……くそじじい……」 「なんじゃと?!」 思わず声を上げるゲルクだったが、ラウルはその抗議など聞こえていないかのように続ける。 「……だから……俺は嫌だったんだ……」 「うん?」 「……あんたに……迷惑をかけ……なかったのに……俺は……」 「おい、小僧!しっかりするんじゃ!」 ぼんやりとした視界に、人の顔が入ってくる。 熱のせいか、まるで水の中を覗く様に、視界はゆれ、ぼやけ、定まらない。 懐かしい呼び方で呼ばれた。その声がラウルの記憶を揺さぶる。 ああ、これは夢なのか。 昔の夢を見ているのか、と。 「……じじぃ……?」 「……なんじゃ」 ためらいがちに返ってきた答え。 一人ではない自分に、安堵感を覚える。 さっきまで、ずっと独りで闇の中を彷徨っていた。目の前に映し出されるのは、無限に繰り返される悪夢の連鎖。目を背けても、そこには冷たく暗い闇がどこまでも続いているだけ。激しいまでの孤独と後悔の念に苛まれ続けた。 しかし、今。懐かしい声が、ラウルのそばにある。 それが決して、ありえない事だとしても。これもまた夢なのだと分かっていても。 今のラウルにとって、それはどうでもいい事だった。 ただただ、彼が側にいる事が嬉しくて。 言わなければ。あの時言えなかった言葉を、今こそ伝えなければ。 胸の奥にしまわれていた想いが、唇から溢れ出す。 「俺は、あんたに迷惑ばっか……人を殺した俺を……あんたは救ってくれたのに……」 |
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