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第十章【6】

 細い通路と階段を抜けた先は、屋上だった。
 王城の天辺、ところどころ崩れ落ちた広い屋上の端、一歩踏み出せば地面までまっ逆さまという場所で、少女は静かに佇んでいる。
 息せき切ってやってきたラウルの姿に気づいて、少女は笑みを漏らす。
 それは、見るものが凍りつくような、禍々しい微笑み。
「早かったな」
「てめえ!なんで、自分の部下を……」
 息巻くラウルに、少女はふふ、と笑ってみせる。
「それも、儀式に必要な事……お前は儀式を妨害しにやってきたのだろうが、お前の取った行動こそが、儀式において必要不可欠だったのじゃ」
 見よ!と少女は眼下に広がる広場を示す。そこに刻まれた禍々しき陣。その上にはおびただしい数の死体と、そして血の装飾が施されていた。
 下での戦いは既に終結していたが、何か様子がおかしい。
 そう、すでに用を成さないはずの陣。それが、禍々しい力を帯び、脈動するように蠢いている。大地に流れた血を、そして嘆きを吸い取って力を増しているかのように。
 はっ、とラウルは少女を見やった。
 少女は笑っている。その手に広げられた本を、少女はそっと読み上げた。
「小さき命、影を崇めし者、嘆きと共にその命を捧げ、全き闇に力を注がん。
 大いなるもの、三重の螺旋、五重の陣。
 大地を覆い、空を埋め、世界に完全なる静寂をもたらさん……」
 声に答えるかのように、空中に文字が綴られる。その語句は、あの写本に見た文章とは少々異なっていた。それを目で追ったラウルは、はっとあることに思い当たる。
「並び替え、てるのか……これが本当の……」
 神聖語を学んだラウルだからこそ気づいた事実。その複雑な文法は、たった一文字、たった一音違っただけで意味を変えてしまう。
 そしてその意味するもの。儀式に必要な生贄は、大いなる力だけではない。彼ら影の信奉者、その嘆きと悲しみ、命すらも捧げて、秘儀ははじめて成立する。
 そのことを、果たして彼らは知っていたのだろうか。そもそも、この儀式が何を達成するものか、理解していたものはいたのか。
 彼らの最終目標は、世界に死の安寧をもたらす事。そしてその死を乗り越えたものだけが集う理想世界を創造する事。それが滅亡後の世界に彼らが君臨する事を意味しているのだとしたら、彼らは決して死を望んでいたのではなく、死を乗り越えて生きる事を渇望していたのではないか。
 それなのに、彼女が導こうとしているのは絶対の死。全ての終わり。
「お前……最初からこれを……」
 少女の唇が、いびつな笑みの形に歪められる。
「信者まで騙してたってのか?!はなっから、あいつらをも生贄にして行う儀式だったってのかよ?!」
「騙す?人聞きの悪いことを言う。彼らは世界の破滅を望んでいた。それは即ち、自らをも含めた全ての消滅……全てが滅んだ後の世界になおも生きようだなどと、おこがましいにもほどがあると思わぬか」
 信者の命、そして大いなる竜の力と引き換えに、呪法は完成する。
 それは世界に死の静寂をもたらす、完全なる闇の召喚。死の闇はたちどころに世界を覆いつくし、生きとし生ける者を永遠の眠りへと誘うだろう。
「……あの、サイハって奴は、最後までお前を案じて……」
 長い間、彼女の右腕として働いてきた青年さえ、彼女の真なる目的を知らされてはいなかった。あれほどまでに彼女を慕い、崇め、全てを投げ打って仕えてきた者までもを利用して、彼女は自らの願望を叶えようとしている。
「あやつの血で描かれた最後の陣も、もうすぐ完成するだろう。サイハは我が腹心の部下。ならばそれなりの死に様を用意してやるのが、長年の功績に報いることではないか」
「……てめぇ!」
 空虚な笑いが巫女の口から漏れ出す。
 ごう、と吹き付ける風に流されて、それでも掻き消される事のない乾いた笑い声。
「全て、死の彼方に消えてしまえばよい!悲しむ事も、苦しむ事もない永遠の眠りに包まれ、永久の安寧を得る事こそが、この悲しみに満ちた世界を救う唯一つの方法」
 それは、少女の復讐。
  禁じられた術により、老いもせず死ぬ事も出来ない体を得てしまった少女の、これは世界に対する復讐劇。その最終章の幕開けだった。
 すべては彼女の用意した脚本通り。少々の狂いはあったものの、ここまでほぼ予定通りに事が進んでいる。この男が自分の元へとやってくるのも、そして怒りと憎悪に駆られ、刃物を向けてくることさえ、計算のうち。
 しかし。
「違う」
 静かに、頭を振るラウル。その瞳には、怒りや憎しみといった感情ではなく、悲哀の色が満ちている。
「お前の望みは、そんな大それたもんじゃない。違うか」
 どくん、と少女の胸が痛んだ。 その手から、禍々しき呪法を刻んだ本が滑り落ちたのにも気づかずに、彼女は青年の唇が紡ぎ出す言葉を待つ。
 そして告げられた言葉。
「……お前はただ、自分を終わらせたい。そうじゃないか」
 少女の瞳が、見開かれた。

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