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第三章 失われた記憶 【3】

 青い空。
 青い海。
 舳先にぶつかり、砕ける波。
 頭上には海鳥が舞い、水面には銀色に光る魚の背中が見え隠れする。
「いや〜、いい天気だよなあ」
 甲板掃除の手を休めて額の汗を拭うアーヴェルに、彼方から怒声が飛んでくる。
「こらぁ!怠けるな!」
 見張り台から飛んできた船員の怒声に、慌てて上を見上げる。目がくらみそうな帆柱の上で、若い船員は双眼鏡でアーヴェルの様子を観察していたらしい。つまりはそれほど海が穏やかで、やる事がないのだ。
「わわわ、分かってるよ〜」
 慌てて掃除を再開するアーヴェルの横では、アヴィーがせっせと縄を巻いている。
 西大陸行きの交易船に乗って早十日。船賃の代わりに働く事を条件にただで乗せてもらったとはいえ、揺れる船上での掃除や雑用は事の外堪える。
「ふぅ、やれやれだな」
 甲板は思いのほか広い。しかし天気はいいし、初めての船旅という事もあってアーヴェルの表情はかなり明るい。初日、二日目と軽い船酔いに苦しめられていたものの、それ以降は船酔いなど何処へやら、今日も朝から絶好調だ。
「さぁ〜、今日のお昼は何かな〜」
 呑気に呟くアーヴェルの言葉が聞こえていたかのように、船室の扉が開いてリファが顔を覗かせる。
 金の髪を後ろでまとめ、前掛けをして手にお玉を持ったその姿は、まるでお母さんのようだ。どこか神秘的で謎めいた普段の雰囲気がまるで台無しだが、これはこれで似合っている。
「皆さん、お昼の用意が出来ましたよ〜」
「やったぁ!!」
 その言葉に掃除道具を投げ出して、アーヴェルが走り出す。
「……もう」
 呆れ顔でその背中を追いかけるアヴィー。そんな二人を笑顔で招き入れて、リファは自らも船室の奥に入っていった。

「あと五日って所だな。ま、それまで頑張ってくれよ」
 船長は五十代の、豊かなあごひげを蓄えた人物だった。交易船の船長を務めてもう二十年にもなるという。
「あともう少しで西大陸かあ。楽しみだなあ〜」
 リファの作った昼食に舌鼓を打ちつつ、アーヴェルはまだ見ぬ西大陸に思いを馳せているようだ。それとは対照的に、隣に座ったアヴィーは無感動で食事を口に運んでいる。
「それにしても、こちらの海は本当に穏やかですね」
 船員らが次々と差し出してくる皿にお代わりを注ぎながらリファが船長に話しかける。と、船長は肩をすくめて
「今の季節は海も比較的おとなしいのさ。《流れの海》とは違って、こっちには怪しい霧も巨大生物も出ないしな」
 と答えた。その言葉に、アヴィーがふと手を止める。
「怪しい霧?」
「ああ、そうだよお嬢ちゃん。ここ最近、《流れの海》の真ん中辺りで奇妙な霧が発生しているのを目撃している人間が大勢いるのさ。もっとも、その正体を確かめようと近づいた途端に、まるで最初から何も無かったかのように消えちまったっていうがね」
 なんとも不気味なことだよ、と言いながら、リファにそっと皿を差し出す船長。
 そのお皿にお代わりを注ぎながら、リファはアヴィーを見てそっと頷いた。アヴィーも小さく頷きかえす。
(やっぱり、何かが起こってるんだ……)
 それを突き止めるために、一刻も早く西大陸に着かなければならない。そう決意を新たにするアヴィーの横で、相変わらずのほほんとした表情のアーヴェルは、三回目のお代わりを頼んでいる。
(……本当に、大丈夫かな……)
 この能天気で楽観主義者の青年は、自分が記憶喪失である事を忘れているかのように、日々楽しげに過ごしている。
 別に、記憶喪失だからと言って毎夜毎夜泣き暮れろとか、始終物思いにふけった顔をしろとは言わないが、少しは悩んでもいいはずではないか。
「もうちょっとよそってくれよぉ〜」
 今更ながら、アーヴェルを連れてきてよかったのかどうか悩んでしまうアヴィーだった。


 あっという間に五日が過ぎ、船は西大陸の港町ガラニドに錨を下ろした。
それじゃ、気をつけてな」
 船長の言葉に、アーヴェルが頷く。
「はい、船長達もお元気で」
「お世話になりました」
 ぺこりと頭を下げるアヴィーに、静かに会釈をするリファ。そして、荷下ろしで忙しい船員達の間をすり抜けて桟橋を渡り、ふと振り返る。
 三人を乗せてここまで海を渡ってきた交易船。これから新たな荷を積んで、数日後にはまたヴェルニーへ向かうという。
「さて、まずはメシだ、メシ!」
 はしゃぐアーヴェルに苦笑しつつ、リファは黙っているアヴィーにそっと話しかける。
「アヴィー?どうしました?」
「……地面が、まだ揺れてる、気がする……」
 ああ、と笑うリファ。船に長い間揺られていると、固い台地の上でもなんだか揺れているように感じるのはままある事だ。
「そのうち治りますよ。大丈夫。さあ、アーヴェルの言葉じゃありませんが、お昼ご飯と、今日の宿を確保しに行きましょう」
「この町に泊まるの?」
 目をしばたかせるアヴィー。まだ昼前だというのに、と言いたいアヴィーの先手を打って、リファは諭すように言葉を続ける。
「先を急ぐ気持ちは分かりますが、慣れない船旅と労働で、あなたもアーヴェルも疲れているはずですよ。今日一日体をしっかり休めて、明日の朝早くに立ちましょう」
「でも……」
「ここから一番近い街まで、徒歩だと半日以上かかりますよ?」
 その言葉に、渋々と言った様子でアヴィーは頷く。
「分かった。今日はここに泊まる」
「はい、決まりですね。さあアーヴェル……って、あれ?」
 見ると、アーヴェルの姿が何処にも見えない。
「アーヴェル?」
 慌ててアヴィーも周りを見回す。と、少し離れた建物の入り口から、ぶんぶんと手を振っているアーヴェルの姿を見つけた。
「おーい、二人とも!早く来いよ。ここ、すっごいうまそうだぞ!」
 思わず目を見合わせて、苦笑する二人。
「はいはい、今行きますよ〜」
 そう言ってリファは、まだ足元が揺れているアヴィーの腕をそっと取ると、アーヴェルの待つ食堂に向かって歩き出した。

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