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第四章 邪なる炎の乱舞【2】

「これと、……あとはこれかしら。はい、これで全部だと思います」
 書架から大司祭自ら選び出してくれたのは、たった五冊ほどの書物だった。
 地下三階の特別書庫は、歴史上重要な出来事を詳細に収めた書物や資料が、床から天井までびっしりと収められている。そのあちこちで神官たちが、書物の整理や補修、記録を行うべく、せわしなく動いていた。
「……たったの、これだけ?」
 拍子抜けするアヴィーに、リファが苦笑してみせる。
「仕方ありませんよ。邪竜がこの世界に出現したのはたったの数回ですし、邪竜が現れる時代は乱世と決まってますから、記録も残りにくいでしょうしね。これだけあっただけでも大したものですよ。読ませていただいても構いませんね?」
「ええ、どうぞ。必要なら写しを取られても構いません」
 ただし、この部屋からの持ち出しは禁止ですので、と釘を刺し、大司祭は机に魔法の光を灯した角灯を置いてくれた。
「それでは、私はあちらで作業をしていますから、終わったら声をかけて下さい。もし時間がかかるようでしたら、宿泊施設もありますから、どうぞ泊まっていかれて下さい。それでは……」
 そう言って、彼女は部屋の隅へ去っていく。そこには未整理の本や資料がまだ山積みになっており、作業中の神官らが彼女を待ちわびていた。
「お忙しいところをすいませんでした。さあ、調べましょうか」
 丁寧に頭を下げ、リファは椅子に陣取ると、手近な本から広げていく。その隣に座ったアヴィーも、慎重な面持ちで本を開いて、内容に目を通し始める。
「俺も……」
 慌てて自分も椅子に座り、資料を手に取ったアーヴェルだったが、表紙をめくった途端に匙を投げた。
「うわっ、なんだよこれ、共通語じゃないのか?」
 アーヴェルが広げたのは比較的薄い書物だったが、中身はびっしりと、アーヴェルが見たこともない文字で埋め尽くされていた。
 ファーンには各大陸ごと、またその中でも地域ごとに異なる言語が存在し、また種族ごとにも言語があり、数えればきりがない。
これでは意思の疎通がままならないというので、ファーン復活暦761年にガイリア大陸全土を支配し、初の大陸統一国家を樹立したラルス王国の初代国王が、当時ガイリア大陸中央部で使われていた言語を共通語として普及させ、それがガイリア大陸全土、後に他大陸にも浸透していき、現在ではほぼ世界中で共通語が使われている。
 ラルス帝国で生まれ育ったアーヴェルは、共通語と、ガイリア神官として祈りの言葉に使う神聖語を学んではいたが、その他の言語はさっぱりだ。
「こっちも、難しい言葉で書いてある……」
 しばらく本と睨めっこをしていたアヴィーも、アーヴェルに続いて降伏宣告をした。アーヴェルが覗き込むと、こちらはまた、アーヴェルの読もうとした本とは違う言語で何かが書き連ねてある。
「アヴィー、何語なら分かる?」
 試しに聞いてみるアーヴェル。
「共通語と、神聖語をちょっとだけ」
 返ってきた答えは、案の定アーヴェルと大して変わらない。といっても、普通はこのくらいだ。
「ああ、それはルース語といって、学術用語で書かれているんですよ。学者やルース信者の間で使われる言葉で、一般には馴染みがないでしょうね。アーヴェルの持っている方は古代魔術語ですから、読めないのは当たり前ですね」
 二人の本を覗き見て、リファが事も無げに言ってみせる。さすがは魔術士といったところか。尊敬の眼差しで見つめてくる二人に、リファは苦笑しつつ肩をすくめてみせた。
「どうやら、ここにある本はほとんど、私しか読めないみたいですね」
 今リファが広げている本もまた、難解な文字の羅列が続いていた。他の本もまた、表紙からしてまず読めない。
「考えてみたら、共通語が制定されて以降、邪竜は出現していないから、共通語で書かれた本は少ないのかも」
 アヴィーの言葉にリファも頷く。
「どうもそうみたいですね。さて、どうします?私一人で読むとなると、読み終わるまでちょっと時間がかかると思いますけど」
「あ、じゃあ俺、邪魔しないようにどっかで暇潰してるよ」
 リファが何も言わないうちに、アーヴェルが勢いよく言った。どうやら、この書庫の雰囲気がどうにも苦手らしい。
「そうですか?それじゃあ、アヴィーも一緒に、外でゆっくりしていて下さい。それと、多分今日中は無理ですから、一日泊まらせてもらえるよう頼んできてくれますか」
 自分は手伝う、と言いかけたアヴィーをやんわりと制して、リファは言った。
「でも……」
 これは、私の旅なのに。私の仕事なのに。そう言いたげなアヴィーに、リファは笑顔を向ける。
「私は魔術士ですよ?書物を読むのも研究するのも得意分野です。適材適所というでしょう?いいから任せて下さい」
「……分かった。それじゃ、お願いします」
「はい、任せて下さい」
「それじゃ行こうぜアヴィー。散歩でもしよう」
 そう言いながらアヴィーの背中を押して出口に向かうアーヴェル。と、思いついたようにリファが声をかけてくる。
「ああ、そうだ。ジーンがふくれてるでしょうから、外に行くなら連れて行ってあげた方がいいですよ」
「うっ」
 途端に顔を引きつらせるアーヴェル。
「確かに……。一人預けられちゃったから、今頃すねてるかも」
「すねてるで済めばいいけどな、烈火のごとく怒ってる方に俺は賭けるね」
 空虚に笑うアーヴェルをひしと見つめて、アヴィーはどこか同情の色を浮かべてアーヴェルに告げた。
「頑張って」
「何が?」
「私じゃ無理だから」
 そうとだけ言って、スタスタと階段に向かうアヴィー。一瞬考えて、暗にジーンの相手をしろと告げられた事に気づいたアーヴェルは
「お、おいちょっと待てよ!なんで俺が?!」
 思わず大声を上げてしまった。その途端に、部屋全体からシーッ!という音がこだまする。
 はっと見回すと、作業をしていた神官達が一斉に、彼を凝視していた。どこか殺気立ったものまで感じるのは気のせいだろうか。
「書庫では静かに!」
「は、はいぃ……」
 しゅん、となるアーヴェルをよそに、神官達は再び黙々と作業に取り掛かる。
 これ以上彼等の邪魔をしないうちに、とアーヴェルは急いでアヴィーの後を追いかけていった。

 二人の姿が完全に見えなくなったのを確かめて、先ほど三人を案内してきた大司祭が、遠慮がちにリファに歩み寄ってきた。その表情は固く、何やら決意のようなものが感じられる。
 二人を送り出し、すぐさま書物に目を戻していたリファは、近づいてきた大司祭にふと顔を上げ、紺碧の瞳を向けた。
「どうしました?」
「あの……」
 躊躇したものの、すぐに意を決して大司祭は口を開く。
「失礼ですが、あなた様のお名前は、リファとおっしゃいましたね」
「ええ、そうです」
「数十年前に、この西大陸の魔術士の塔に同じ名前の魔術士がいたと、聞き及んでおります」
「まあ、ありふれた名前ですから」
 笑顔ではぐらかすリファに、しかし彼女はなおも続けた。
「三賢人のリファ様、ご本人でいらっしゃいますね?」
 確信に満ちた口調。リファは少し目を細めると、肩をすくめてみせる。
「なぜ、そう思います?」
「私はかつて、西の塔を訪れたことがあります。その折に一度だけ、お目にかかった事があります」
「おやおや」
 ふと笑顔を見せるリファ。大司祭は五十代半ば、数十年前にはまだ、年端も行かぬ少女だった。
「覚えていたとはね。ええ、確かに私は、かつて西の塔で三賢人を務めさせていただいたことがあります。と言ってもたったの三年ほどでしたが……。その時、あなたにお会いしましたね、ミシェル、と言いましたか」
 途端に、彼女の顔がぱぁっと明るくなった。まさか、名前を覚えていてくれたとは思っていなかったのだ。
「はい、今はこちらで大司祭を勤めさせていただいております、ミシェル=バルズです。あの時は神官見習いの、まだ何も知らない子供でしたが……」
 おかしな光景だった。五十代のミシェルが、その子供時代に会ったというリファは、どう見ても二十代前半の年若き魔術士に見える。それが、魔術士の塔を束ねる三賢人の地位にいたという事だけでも驚きだ。
「ああ、あの噂は本当だったのですね。伝説の魔術士、永遠の時を旅する金の魔術士リファ……」
 感動に打ち震えるミシェルに、リファは静かに首を横に振る。その瞳には、永い時を生きた者だけが持つ深い叡智と、そして同じくらい深い悲しみが溢れていた。
「私はそんな、大層なものではありませんよ。ただ、人より長生きで、年より若く見えるだけです」
「そんな……」
 その程度の言葉で片付けられるものなのか、と思わず突っ込みそうになるミシェルに、リファは問いかける。
「それで?ミシェル。私の正体を聞いて、どうします?」
 その言葉にはっと本来の目的を思い出して、ミシェルは居住まいを正した。
「リファ様。もしあなたがお望みならば、もう一つだけ、邪竜に関する資料をお出しいたします」
 もう一つ?と首を傾げるリファに、ミシェルはそっと顔を近づける。
 そして何事かを囁いたミシェルに、リファは珍しく大きく目を見開いて、彼女を見た。
「……いいのですか?」
「ええ。それがあなたの……そして、あのかわいらしいお二人に必要なのであれば」
 ミシェルの物言いに小さく噴出すリファ。
「是非、お願いします。彼女達にも見せてやってくれますか」
「ええ。勿論です。その代わり、他言は無用ですよ」
「分かっています。それにこちらも……私のことを彼女達には言わないで下さい、とお願いさせて下さい」
 意外そうな顔をするミシェル。
「おっしゃっていないのですか?」
「ええ、その必要もないと思ったのでね」
 リファが何者だろうと、あの二人は恐らく気にもしないだろう。しかし、あの不思議な少女は全てお見通しで、それでいて何も言わないでいるような気もする。
「あなたがそうおっしゃるなら」
 そう約束しながら、ミシェルは改めてリファを見る。
 流れる金色の髪。海のような紺碧の相貌。白磁の肌にゆったりとした長衣をまとい、口元には常に穏やかな笑み。
 何も変わらない。数十年前、西の塔に書物を届けに行った時、塔の中で迷ってしまった彼女に優しく手を伸べてくれたあの時と。
 悠久の時を生きる一人の魔術士。不老不死者とも、金の魔術士とも呼ばれるその人は、年齢不詳、性別不明の美貌の魔術士という事、そしてその通り名がリファという事以外、ほとんど知られていない。
 しかし、リファという魔術士は確かに歴史のあちこちに登場し、何らかの形で時代に関わっている。
 伝説云々はともかく、実在の人物である事は間違いない。現に、リファはここにいる。
「お邪魔して申し訳ありません。どうぞ続けてください」
 そう言って一礼し、リファの元を去る。そして作業中の神官達のところへ戻っていったミシェルを、成り行きを見守っていた彼等が取り囲んだ。
「大司祭、あの方は本当に……?」
「あの、伝説の魔術士、リファ様なんですか?」
 興奮冷めやらぬ様子の神官達。リファという名前は、魔術士の間、また歴史家の間では特別な響きを持つ。まさに知る人ぞ知る存在なのだ。
 そんな彼らを優しく宥めて、ミシェルは言った。
「ええ、そうです。ですが、このことは私達だけの秘密ですよ。よろしいですね?」
「は、はいっ!」

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