[TOP] [HOME]

1
「もう逃げられないぞ、『魔女』!」
 乾いた大地に響き渡る、悲痛な叫び。
 切り立つ崖の上、赤く染まる空を背に、『魔女』と呼ばれた金髪の麗人はゆっくりと振り返った。
 逆巻く風に揺れる黒色の長衣。手にした杖の先端には、禍々しく光る赤い宝玉。
「ようやく会えましたね、王子」
 とろけるような微笑みも、鈴のように凛と響き渡る声も、かつて『先生』と呼んでいた頃のまま。
「やめろ! 俺はもう王子なんかじゃない」
 十年前と何一つ変わらぬ姿で佇む『魔女』に、一瞬でも揺らぎかけた自身の心を叱咤するように、大きく(かぶり)を振る。
 そうして、剣を握る手に力を籠めた若き戦士は、ずいと一歩前に進み出た。
「俺はファイ! 悪しき魔女を倒すためにやって来た、一介の冒険者だ!」
「十年ぶりの再会だというのに、つれないことを言いますね。私はずっと、あなたと再び(まみ)える日を心待ちにしていたというのに」
 まるで抱擁をせがむように、ゆらりと両手を広げる魔女。透き通るような肌も、陽光を編んだ金の髪も、すべてが夕陽に染まって、赤々と燃えているようだ。
「ああ、俺も心待ちにしていたよ。俺からすべてを奪った『金の魔女』!」
 崖下に広がるのは、干上がった湖と風化した廃墟。
 それは十年前、一夜にして灰燼に帰したオアシス都市の、変わり果てた姿だった。


 『砂漠の宝石』と謳われたオアシス都市ドルネス。
 遠い昔、水竜の加護によって誕生したと伝えられる湖は、干ばつの年でも涸れることなく、澄んだ水を湛えていた。
 そう――あの日までは。

 十年前――建国百五十年を祝う大規模な式典の最中に、悲劇は起きた。
 師と仰いでいた宮廷魔術士が国王を殺害し、国を支配したのだ。
 宮廷魔術士の謀反に、何よりも怒り狂ったのは『湖』だった。建国王と友愛を結び、湖を生み出した伝説の水竜は、簒奪者を認めなかったのだ。
 魔術士がドルネスを支配してまもなく、湖は突如として干上がった。貴重な水源を失った住人たちは都市を放棄し、近隣諸国へと逃れた。
 あとに残ったのは、無人の都市と、枯れ果てた湖。
 こうして、ドルネスを滅ぼした魔術士は、今もなお廃墟に君臨し続けている――。


「あの時――俺は訳も分からないまま、隊商の荷車に放り込まれた」
 目の前で父王を殺され、放心状態だった幼い王子を抱きかかえ、城から脱出させたのは、身の回りの世話をしてくれていた召使いだった。
 ちょうどドルネスを離れようとしていた隊商の一団を見つけた召使いは、空いていた荷車に王子を押し込み、こう言い聞かせた。
「とにかく遠くへ逃げろ。戻ってきてはいけない。あなたはもう王子ではない。一人の人間として、心のままに生きなさい」
 当時、彼は六歳になったばかりだった。
 それまで王宮で何不自由なく育ってきた少年が、いきなり見知らぬ世界に放り出されたのだ。
 心のままに生きろと言われたところで、どうすればいいのかさえ分からない。
 ひとしきり泣いて喚いて、己の運命を嘆いていたところで隊商の人間に見つかり、あわや砂漠のど真ん中に放り出されるところだったが、気のいい護衛役たちが取りなしてくれて、なんとか雑用係として置いてもらえることになった。
 それからは働きながら生きる術を学んだ。雑用の傍ら、隊商の護衛たちから剣術や体術を教わって、十五の年には隊商を離れて独り立ちした。
 冒険者になって自由に旅がしたい、というのは表向きの理由で、実際に彼が選んだのは、有体に言えば復讐だ。
 あの日、老齢の召使いは『心のままに生きろ』と言った。だから、己の心に従って――父の仇を取る道を選んだのだ。

「あちこちでお前の噂を聞いたよ。金髪碧眼、絶世の美貌を誇る、不老不死の魔法使い。歴史の端々に登場し、英雄とも魔王とも伝えられる、謎の人物――」
 調べれば調べるほど、知れば知るほど、『魔女』のことが分からなくなった。
 勇者とともに邪竜を打ち倒した救世の魔法使いと呼ばれることもあれば、一人の少女のために国を滅ぼした魔王と伝えられることもある。頼れる冒険仲間だと誇らしげに胸を張る者もいれば、あの魔女に人生を狂わされたと激高する者もいた。
「謎の人物だなんて、そんな大層なものではありませんよ。あなたにとっては母親代わりでもあり、家庭教師でもあった宮廷魔術士。そして国王を殺害して実権を奪い取ろうと企んだ挙句、湖を干上がらせドルネスを滅ぼした邪悪なる魔女――。どちらも、間違いなくこの私です」
 愛しげに目を細め、間近に迫る剣など見えていないかのように、ゆっくりと手を伸ばす魔女。
「ああ、ファイ。すっかり大きく、逞しくなって。エルミアも、そしてアルスルも、きっと誇らしいことでしょう」
「お前が! その名を親しげに呼ぶな!」
 勢いに任せて振り下ろした刃を、魔女は避けようともしなかった。
 切っ先が頬を掠め、真っ赤な血が迸って、ぬらりと刃を伝う。飛竜の鱗をも切り裂く刃に切り裂かれて、痛みを感じないはずがないのに、魔女は顔色一つ変えなかった。
 つい、と白い指が頬をなぞれば、瞬く間に傷は消え、血の跡すら残らない。ああ――これこそが金の魔女、不老不死の化け物なのだと、ようやく実感が湧いた。
「おやおや。かつての親友とその伴侶を、名前で呼んではいけない道理がありますか?」
 揶揄うような口調に、再び怒りが湧き上がる。
「どの口が言う! お前が――お前が、その手で父を殺めたくせに!」



[TOP] [HOME]



© 2024 seeds/小田島静流