それは、初雪も間近と囁かれる、ある日のこと。
村の入り口に植えられた樅木の根元に、ザックは今日も座り込んでいました。
ザックは、夏が終わる頃にこの村へやってきた、八歳の男の子です。
小さい頃に両親を亡くしたザックは、おじいさんと二人で暮らしていましたが、おじいさんが大事なご用で遠くへ行かなければならなくなったので、親戚の叔父さんが暮らす山間の村へと預けられたのです。
村にやってきてから、ザックは毎日まいにち村の入り口に座り込んで、おじいさんからの手紙を待っていました。
旅に出る前、おじいさんはザックに約束しました。旅先から毎日、手紙を出すと。でもここは山間の村。訪れる旅人もなく、配達人すら二月に一度しかやってきません。
待ちに待った最初の手紙は、風が冷たくなってきた頃になって、ようやく届きました。険しい道をえっちらおっちら登ってきた配達人のお兄さんは、入り口で待つザックに優しく微笑みかけると、たくさんの手紙の束を渡してくれました。
「おじいさんからの手紙だよ。遅くなってすまなかったね」
そして、まだ字を読むのが得意ではないザックのために、一枚一枚丁寧に手紙を読んでくれました。
懐かしいおじいさんからの手紙に、嬉しくて飛び上がりそうなザックでしたが、最後の手紙を読み終わった頃にはすっかり元気がなくなっていました。
最後の手紙には、用事が長引いて、まだ戻ることが出来そうにないと書かれていたのです。
落ち込むザックに、配達人のお兄さんは、
「次の手紙が来たら、なるべく早く届けるからね」
と約束してくれました。それでザックも少しだけ元気を取り戻して、次に手紙が来るまでに、自分で字が読めるようにもっと勉強すると約束しました。
木々が金色に染まる頃には、ザックはすっかり読み書きが得意になっていました。勉強を教える神官さんが驚くくらいに上手な字を書くようになったので、叔父さんがザックに素敵な贈り物をしてくれました。
それは、たくさんの便箋と封筒です。これでザックもおじいさんに手紙が書けるのです。
ザックは嬉しくなって、毎日まいにち手紙を書きました。
でも、手紙を預かってくれる配達人のお兄さんは、あれから一度もやってきません。
ザックはまた、村の入り口で配達人のお兄さんを待つことにしました。
村の子供達に誘われても、神官さんに諭されても、叔父さんや叔母さんに心配されても、ザックは朝から晩まで樅木から離れようとしません。
空がぐんと白くなって、木々もすっかり葉を落とし、辺りはいよいよ冬の気配が漂っています。
じっと座っていると、そのまま凍りついてしまいそうなので、ザックは樅木によじ登り始めました。
高いところから見渡せば、配達人のお兄さんが来たらすぐに分かるに違いありません。
息を切らして高い梢に腰をかけると、すっかり冬支度を整えた深い森と、それを切り裂くように伸びる一本の道が見えました。
そして、ザックは見つけたのです。
木々の間から見え隠れする緑色の帽子。大きな背負い袋と肩掛け鞄に、腕に巻かれた青い布。あの配達人のお兄さんに間違いありません!
ザックは大急ぎで木から降りると、お兄さんに向かって駆けていきました。
「配達人さん! 待ってたんだよ!」
「やあ、ザック。ひさしぶりだね。随分背が伸びた」
大荷物を背負ってやってきた配達人のお兄さんは、ザックの声を聞きつけて集まってきた村の人達に帽子を取って挨拶をすると、外套の隠しから一通の封筒を取り出してザックに渡しました。
「え……一通だけなの?」
おじいさんは毎日手紙を書くと約束したはずなのに。不思議そうに首を傾げるザックの肩に手を置いて、配達人のお兄さんは言いました。
「いいかいザック。それは、お家に帰って、叔父さん達と一緒に読みなさい」
「え、なんで?」
「……読み終わったら、広場へおいで。そこで待っているから」
なんだかよく分かりませんが、手紙を早く読みたかったザックは、分かったと頷いて、叔父さんの家に戻りました。
そして、叔父さんと一緒に、手紙の封を切りました。
ザックが広場に辿り着いた頃には、空はすっかり紅く染まっていました。
「やあ、来たねザック」
立ち上がった配達人のお兄さんに向かって、ザックはぐちゃぐちゃになった手紙を投げつけました。
「こんなの嘘だ! 嘘の手紙だ!」
家に帰って開けた手紙。そこには、見知らぬ人の文字で、おじいさんが旅先で病気になり、亡くなったのだと書かれていました。
「嘘だ、嘘だ! おじいさんが死んだなんて、嘘に決まってる! あんた、本当の配達人じゃないんだ! 嘘の手紙をばらまいて、みんなが困るのを見て笑ってるんだろ!」
どん、どん、と拳を振り上げても、小さなザックの手は配達人のお兄さんの胸にも届きません。
「やめるんだザック!」
ザックの後を追いかけてきた叔父さんが、慌ててザックを止めようとしましたが、配達人のお兄さんは首を振って、泣きながら拳を振るうザックをそっと抱きしめました。
「やめろよ! あんたなんて、配達人じゃない! だってだって、伝令ギルドの配達人は空人だけなんだ! 俺、そんなことも忘れてた! すっかり騙されてたんだ!!」
そうです。ザックの暮らす街にも、手紙や荷物を届けてくれる伝令ギルドの窓口がありました。そこに集まるのは背中に翼を持つ空人だけ。以前、ザックの家まで荷物を届けてくれた配達人は、伝令ギルドは空人のギルドなのだと、誇らしげに教えてくれたのです。
「ただの人間のあんたが、配達人なわけないじゃないか!」
「ああ、そうだよ。ザック。私は正規の配達人じゃない」
穏やかな声が頭上から響いてきます。驚いて顔を上げると、灰色の瞳が悲しそうに見つめていました。
「だってだって――!」
「ザック。少し昔話をしよう。それは――やはりこんな風に、いまにも雪が降り出しそうな、冬の日のことだった」
青年は旅をしていました。ただ一人、あてもなく彷徨う、孤独な旅でした。
青年には帰る故郷も、迎えてくれる家族や友人もいなかったので、気ままな一人旅を楽しんでさえいました。
そんな彼が、迷い込んだ森の中で見つけたのは、一人の傷ついた空人でした。
野獣に襲われたのでしょうか、美しい翼は折れ、とても深い傷を負って倒れていた空人は、通りかかった青年を見て、こう言ったのです。
『頼む。この手紙を――届けてくれ』
助けを請うのでもなく、運命を呪うのでもなく。その空人はそう言って、懐から一通の手紙を大事そうに取り出すと、青年の手に握らせました。そして、静かに息を引き取りました。
いくら死に際の頼みとはいえ、見ず知らずの配達人の願いを叶えてやる義理もありません。しかし、渡された手紙が気になった青年は、空人の鞄から地図と方位磁針を探し当てると、それを頼りに宛先である村へと向かいました。
山間の村では一人の娘が、配達人が来るのを今か今かと待ち侘びていました。青年が手紙を渡すと、娘は歓喜の声を上げました。
手紙は、娘の恋人からでした。傭兵として戦場へ出向いていた恋人から、戦が終わってもうすぐ戻れること、戻ったらすぐに結婚しようと記されていたのです。
娘は青年に、涙ながらにお礼を述べました。あなたのおかげで、私達は幸せになれる。あなたは幸せを運んでくるのね、と。
そしてこうも行ったのです。この時期に森を抜けてくるなんて強運の持ち主だわ。少しでも道をそれていたら、狼の群れに出くわしていたかもしれないわよ、と。
その時、青年は気付いたのです。空人の配達人から託されたのが、手紙だけではないことを。
彼は、その命をも、青年に託していったのです。
己の命を懸けて、手紙と、そしてそこに伝わる思いを守った空人の配達人。
ならば自分も、託された命を懸けて、思いを伝えよう。
青年はそう、心に決めたのです。
「手紙を届けるのが遅れたのは、裏づけを取っていたからなんだ」
ザックの頭を優しく撫でながら、配達人のお兄さんは言いました。
「君のおじいさんは大分前から病を患っていたようだ。君をここに預けたのと、病が悪化した時期が一致している。おじいさんは、自分がもう長くないと知って、君を叔父さんのもとにやったんだろう。本当のことを言うと君は決して自分の許を離れないだろうと分かっていたから、用事があると言って送り出したんだ」
「そんな……俺、全然、気付かなかったよ……」
ずっと一緒に暮らしていたのに、ちっとも気付かなかったなんて。そう思うと悔しくて、悲しくて、涙が止まりません。
「最後の手紙の送り主は、おじいさんを看取ったユーク分神殿の神官さんだ。おじいさんは最後まで希望を捨てずに、神殿で治療を受けていた。願わくば病を退けて、大手を振って君を迎えに行くのだと、最後まで意気込んでいたと話してくれたよ。神殿できちんと葬儀を行って、お墓も作ってくれている。君が望むなら、次の配達の時に神殿のある町まで送って行こう」
ぽんぽんと背中を叩いて、ザックをしっかりと立たせると、配達人のお兄さんは跪いてザックの目をまっすぐに見つめました。
「おじいさんの思い、君に届いたかい?」
「うん――ちゃんと届いたよ。ありがとう、お兄さん! ……偽者だなんて言って、ごめんなさい」
いいんだよ、とザックの頭を撫でて、配達人のお兄さんはよいしょ、と大きな荷物を背負いました。
「それでは、また来年! 皆さん、良いお年を!」
大きく手を振って、足早に村を去っていった配達人のお兄さん。これから幾つもの村を回って、たくさんの手紙を届けるのでしょう。
どんどん小さくなっていく彼の背中を見つめていると、叔父さんがおもむろに口を開きました。
「なあザック、知ってるかい? 彼は《荒鷲》と呼ばれてるんだよ」
「《荒鷲》?」
それは、嵐の中でも悠然と翼をはためかせて飛び続ける、強い鳥。
それがあの柔和な笑顔のお兄さんの呼び名とは、どうにも似つかわしくありません。
不思議そうにしていると、叔父さんは誇らしげに教えてくれました。
「ああ。伝令ギルドでも最高位の配達人に冠される呼び名なんだそうだ。彼は偽者なんかじゃない、ちゃんとギルドが認めた、人間で唯一の――しかも最高の、配達人なのさ」
「そうなんだ……凄いや!」
手紙だけでは分からなかった、おじいさんの本当の気持ちまでちゃんと届けてくれた配達人、《荒鷲》ロイド=アルノー。彼は、きっとその心に、力強い翼を持っているのでしょう。
山間の小さな村にやってくる、翼のない配達人。
次にやってくるのは、きっと雪が解ける頃――