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真昼の月
 その日は、朝から良いこと尽くめでした。
 ずっと降り続いていた雨が上がって、久しぶりの青空の下で、溜め込んでいた洗濯物を一気に片付けることが出来たし、朝食の玉子焼きも焦がすことなく綺麗に焼くことが出来て、お仕事を終えて帰ってきたイザクさんも手放しで褒めてくれました。
 イザクさんを寝室に追いやった後は、家中の窓を全部開け放って、もうじきやってくる春の気配を感じながらお掃除。鼻歌交じりにはたきをかけても、何も落としたり割ったりしなかったのは、何日ぶりかしら。
 お買い物に出かければ、馴染みの八百屋さんがほうれん草を二束もおまけしてくれて、雑貨屋さんでは美味しい薄荷飴を一袋もくれて。貸本屋さんには待望の新刊が入っていて、三冊も借りてしまいましたし、広場を通れば辻音楽家が演奏をしていて、思わず聞き惚れていたら、高らかに鳴り響くお昼の鐘。
 慌てて家に帰ったら、まだイザクさんは眠っていたので、大急ぎで昼食を作れば、ちょうど出来上がった時にイザクさんが起きてきました。
 出来立ての昼食を向かい合って食べながら、今日あったことをお話すれば、イザクさんはいつものように優しい目で、うんうんと頷いてくれます。
 物静かで、ちょっと内気で、恥かしがり屋さんなイザクさん。いつもは私が喋ってばかりなのに、今日は珍しく自分から話をしてくれました。
「そう言えば、さっき窓から月が見えましたよ。とてもきれいな三日月でね」
 嬉しそうに話すイザクさんは、相変わらず星の研究に没頭する毎日を送っています。あちこちの天文台や研究機関からのお誘いも片っ端から断って、自分はここで星が見られればいいんだって笑うんです。そういうところも、出会った頃のまま。
「あの時も、昼間の月を教えてくれましたよね」
 思い出すのは、あの怒涛の日々。凶星を打ち砕くために魔術士達が一丸となって対策に追われる中、あまりに根を詰めすぎて倒れそうなイザクさんを強引に望遠鏡から引き剥がして、外の空気を吸いに出た時のことでした。
 それまでふらふらしていたイザクさんが、急に目を輝かせて青空を指差したその先には、淡く輝く白い三日月。
「三日月は暗いし、太陽に近いから、なかなか昼間に見つけることは出来ないんです。だから、見られたらとても幸運なんです……って、前にも言いましたか」
「ええ。『だからきっと、今日は何もかも上手く行きますよ』って」
 いつもは研究のこと以外ろくに喋ってくれないのに、その日はいつになく饒舌で。休憩がてら、色々な話をしました。故郷の話や好きな食べ物の話題、そして――災厄を乗り切れたら、その後どうするか。
 その時はまさか、結婚してこの町に戻ってくることになるとは思いもしませんでしたけど、ここで始めた新生活はなかなかに順調で、あの怒涛の日々が夢のようです。
 凶星に怯えていた頃、あれほど渇望した『日常』が、今ではあまりにも当たり前に流れていて、その穏やかな日々にちょっと飽きてさえいる。一年前の自分が今の私を見たら、きっと目を吊り上げて怒ったことでしょう。なんて贅沢な悩みなのって。
 ……なんて考えていたら、腸詰めを飲み込んだイザクさんが、急に改まって言ったんです。
「今日は夕飯前に帰ってきますから」
 思わず耳を疑いました。だって、天文台の仕事は夜が勝負。だからイザクさんは昼食を食べてから天文台へ行った後は明け方まで天文台に詰めています。それなのに――。
「覚えて、いたんですか?」
「こと数字に関することなら、私は絶対に忘れません」
 今日は、私達がこの町で結婚式を挙げてからちょうど一年目。でも、お仕事があるから、お祝いするのは諦めていたのに。
「去年はちゃんとお祝いできませんでしたから」
 照れたように笑うイザクさん。覚えてくれていただけで嬉しかったのに、大好きな研究をお休みして、私のために帰ってきてくれるなんて。
「本当に、今日はなんて素敵な日なんでしょう!」
 思わず大きな声を出してしまったら、まるで声に驚いたかのように、窓際に置いてあった水晶球がきらりと光った気がしました。慌てて覗き見れば、そこには――。
「どうしたんです、アニス。まさか……」
 心配そうに訊ねるイザクさん。大丈夫です、いくら私だって、そうそうとんでもない神託を受けたりしません。
「あなた、今日の夕飯は賑やかになりそうですよ」
「賑やかに? はあ……そうなんですか」
 神官職を辞した今でも、私の水晶占いは滅多に外れないんです。でも、イザクさんには内緒にしちゃいましょう。お楽しみは後にとっておかないと。
「さあ、今日は腕を振るいますね! 私のお料理を、たくさん食べていただかなくちゃ!」
「はい、楽しみにしています」
 それじゃあ、と言って仕事に向かうイザクさんを見送って、まずはお台所を一睨み。さっき買ってきたものだけでは、とても足りないかも。だってあの方達は、とてもよくお食べになるから。
「よーし、頑張らなきゃ!」
 本当に、今日は素敵な一日になりそうです!

真昼の月・終わり


2010.05.04 同人誌『流星雨』のおまけ掌編として掲載/2016.03.27 サイト掲載


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