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「ああー、この間の大雨で」
 それは大変でしたね、と労わるような視線を向けられて、いえあの、と頭を掻く。
「元から古かったんで、仕方ないんですけどね」
 解体工事が半年以上も早まった原因は、近年とみに叫ばれているゲリラ豪雨が原因だ。ただでさえ老朽化が激しく、上の階は雨漏りが酷かったのだが、先日の大雨でとどめを刺されたようだ。
 侑斗の部屋は一階だから今のところ被害はないが、上階の人間はすでに転居に向けて動き始めており、すでに引越し先を決めてきた猛者もいると聞いて、焦りを覚えたのは確かだ。
「だから、あんなに慌てていらっしゃったんですね」
 水曜日の午後という、一週間で最も閑古鳥が鳴く瞬間を強襲された不動産屋の店員は、文字通り「飛び込んできた」侑斗を快く出迎え、椅子と団扇を勧め、美味しい冷茶まで出してくれて、自己紹介と他愛のない世間話を交えながら、侑斗が落ち着くまで辛抱強く待っていてくれた。
 そうして、ようやく一息ついた侑斗がおおよその事情を話したところで、冷茶のお代わりを注ぎながら、それで、と穏やかに切り出す。
「いつまでにお部屋を出る必要があるんですか?」
「えっと……解体工事が本格的に始まるのは九月からみたいなので、最大であと二月くらいかな」
 時間的な余裕はまだあるが、引越しにかかる予算と、なにより心の準備が間に合っていない。
 早目に動き出した者の中には、一旦荷物ごと実家に帰省して、後期授業が始まる九月後半の引っ越しを決めたという知恵者もいるようだが、そうタイミングよく空く部屋が見つかるとも限らない。
「家賃五万が上限、出来れば六帖以上、政駿大学通学圏内、ですね」
 侑斗が上げた条件を指折り数えて受付票に書き込んでいく店員は、明らかに思案顔だ。
「あの……やっぱり難しいですかね?」
 おずおずと尋ねれば、『道端(みちばた)』と記された名札をぶら下げた男性店員は、いえいえと手を振ってみせた。
「築年数や日当たりを気にされないなら、そこそこありますよ。今、いくつか出してみますから」
 手際よくファイルを漁り、条件に合う部屋の図面をピックアップしてくれる様子を横目に見つつ、明るい色調でまとめられた店内をぐるりと見渡す。
 侑斗が飛び込んだこの店は、昔からこの場所に店を構えている老舗の不動産屋らしい。数年前に室内をリフォームしたそうで、一見するとカフェのような雰囲気で、何となく入りやすかったからここに決めた。
 そんな小洒落た店内で、昔ながらの分厚いファイルと格闘している彼は、年の頃は二十代中頃か、ひょろりと背が高くて、どこか中性的な風貌の男性だ。侑斗が飛び込んだ時は夏祭のポスターを壁に貼ろうとしていたらしく、いきなりやってきた珍客に驚いて、手にしていた画びょうを床にばらまいていた。
「ここと、あとこの辺かなあ」
 ファイルと格闘すること十数分、思いのほかたくさん出てきた図面は、どれもこれも年季の入った木造アパートばかり。バス・トイレが部屋についていればいい方で、しかもほとんどが畳敷きの部屋だ。
「やっぱり、この家賃だとフローリングとか、難しいですよね」
 寮の部屋はカーペット敷きだからフローリングにこだわるわけでもないが、畳敷きだと何となく掃除が面倒そうだ。もっとも、部屋の掃除など気が向いた時にしかしないのだが。
「家賃というより築年数の問題ですかねー。最近のアパートはほとんどフローリングなんだけど」
 ぽりぽりと頬を掻きながら、他にも何か、とファイルをめくっていた道端が、唐突に「そうだ!」と立ち上がる。
「とっておきの物件がありました」
 思わせぶりな台詞を紡ぎつつ、いそいそと別のファイルを棚から引っ張り出す。これまでのものに比べ、随分と古めかしいそのファイルから抜き出したのは、これまた古めかしい手書きの図面だった。
「これなんですがね」
 ひらりと差し出されたその図面に描かれていたのは、広さ約八帖の洋室とユニットバス、そして押入れを改装したらしきクローゼットがついて、なんとお家賃四万円という、目を疑うような好物件だったから驚いた。
「建物自体は古いけど、お部屋は数年前にリフォームして使いやすくなってるし、ちゃんとバス・トイレもついてますよ」
 どうです、お得でしょう? とおどけた様子で揉み手をしてみせる彼には申し訳ないが、はっきり言って――胡散臭い。
「こんないい物件、なんで空いてるんですか? ……まさか、曰くつきのお部屋じゃないでしょうね?」
 思わず睨むような目つきになってしまったが、道端はとぼけた表情でいえいえ~と首を振る。
「人死にがあったとか、そういうのじゃないですから。ここはちょっと変わってて、シェアハウスというか、下宿みたいなスタイルなんですよ。住人もみんな仲が良くてね。そういうつき合いが苦手な人もいるから誰にでも勧められる部屋じゃないんだけど、お客さんなら大丈夫そうな気がするなあ」
 確かに、曲がりなりにも寮生活経験者であるからして、よほどとんでもない住人がいない限りは共同生活に抵抗はない。しかも、今より広くて個別のバス・トイレがついていて、さらに家賃まで下がるとなれば言うことなしだ。
「お部屋、見てみません?」
 にっこりと、しかしどこか有無を言わさぬ様子で迫られて、思わず首を縦に振る。

 かくして、侑斗は道端に連れられて、件の物件へと向かうことになったのであった。

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