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 大通りから一本奥に入った、閑静な住宅街にその建物はあった。
 板塀に囲まれた一角。屋根のついた立派な門扉には、これまた立派な松の木が彫り込まれている。
 純和風の門扉には些か似つかわしくない、超最新型のカメラつきインターホンをためらいもなく押した彼は、ほどなくして返ってきた声に「どうもー、いつもお世話になってます、道端です」と軽い調子で挨拶を返す。
『あら道端様。お久しぶりでございます。少々お待ちくださいませ』
 実に丁寧な返事は、マイクを通しているせいで若干ひび割れてはいるが、年若い女性のように聞こえた。
 やがてカラコロという軽やかな響きが聞こえてきて、扉ががらりと開く。
「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」
 深々とお辞儀をして出迎えてくれたのは、菖蒲柄の着物に真っ白なエプロンが眩しい、楚々とした女性だった。
「いつも急ですみません、(ふみ)さん。大家さんはご在宅ですか?」
「はい。談話室でお待ちです。道端様からお電話をいただいて、とても喜んでいらっしゃいましたわ」
 親しげな様子で話していた二人は、そこではたと侑斗の存在を思い出したらしい。二人同時に振り返り、申し訳ありませんと唱和する。
「こちらがお部屋をお探しの桐崎さんです。こちらは文さん。ここのお手伝いさんです」
「はじめまして。文と申します」
 再び深々と頭を下げる彼女に、慌てて「ど、どうも」と頭を下げてから、随分と聞き慣れない単語を聞いたような、と小首を傾げる。
 そんな侑斗の疑問を感じ取ったのだろう。文さんと呼ばれた彼女は、ふふと笑って、目の前の純和風の建物を指し示した。
(わたくし)はこちらの母屋に住み込みで働いております。そしてあちらが、かつては下宿として長く使われていた建物です。現在は賃貸アパートになっております」
 ご案内しますね、と先行して歩き出す文さんにつられるようにして、飛び石の置かれた前庭を進む。とはいえ、わざわざ案内してもらうまでもなく、母屋の右、奥の庭に繋がる小道を隔てた隣に建てられているのが、築五十年は優に経過していそうな木造二階建ての建物だった。
 玄関横には『松和荘』と書かれた木製の看板が掛けられており、何と読むのかと問う前に、道端が得々と解説を始める。
「本当は『しょうわそう』って読むんだけど、みんな『まつわそう』って呼んでるんです」
「まつわそう?」
「そう。響きがいいでしょう? 『しょうわ』だと年号みたいだからね。ああどうも香澄(かすみ)さん、お久しぶりです」
 後半の台詞は、ガラリと開いた玄関から顔を覗かせた女性へ向けた挨拶だ。
「ご無沙汰してます、道端さん」
 切れ長の瞳、肩で揃えられた黒髪。怜悧という言葉が似合うその女性には見覚えがあった。直接の知り合いではないが、確かに大学構内で見かけた顔だ。ええと、確か――。
「長篠ゼミの……?」
「――あれ、もしかしてS大生?」
 この呼び方で、同学の士であることが分かる。政駿(せいしゅん)大学という正式名は、発声するとなかなか恥ずかしい校名だ。
 それはさておき、S大は規模の割に学科が多く、講義も多岐に渡るため、よほど授業が被らない限りは四年間で一度も顔を合わせたことがない学生もざらにいる。ただし、人前に立つ機会が多い人間は別だ。
 長篠ゼミは数あるゼミナールの中でも異色を放つ心理学のゼミで、新入生勧誘期間や学園祭などでも一際目立つ存在だ。何しろ教授自らマジシャンのような奇抜な恰好をして、マジックショーならぬ『心理学ショー』をやるのだ。そして彼女は確か、去年の学園祭で教授のアシスタントをさせられていた――。
「ラビット香澄さん、でしたっけ」
「うわあああ! 忘れて! その恥ずかしい呼び名は今すぐ忘れて!」
 途端に真っ赤になってぶんぶんと手を振る彼女に、文がとどめを刺す。
「バニーガールの格好、お似合いでしたのに」
「文さん!」
「へえええ、バニーガールをやったんですか? いいなあ見たかったなあ」
 無邪気にはしゃいでみせる道端をぎろりと睨みつけて、こほんとわざとらしく咳ばらいをした香澄は、「立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」とスリッパを勧めてくれた。


 玄関を入ってすぐの応接室に通されて、勧められるままアンティークな二人掛けソファに腰かける。すかさずお茶とおしぼりが並べられて、なんだか老舗旅館でもてなされているような気分だ。
「改めまして、松和荘の大家というか管理人をしています、松来(まつき)香澄です」
 向かいの一人掛けソファに腰かけた香澄は、どこか緊張した面持ちでぺこりと頭を下げた。
「祖母からここを受け継いでまだ一年なもので、実はこうして入居希望者さんにご説明するのは初めてです。なので道端さん、随時フォローをお願いしますね」
「はいはい」
 軽い調子で請け負って、ずずずとお茶をすする道端。その緊張感のなさに小さく嘆息して、香澄は「では」と堅苦しい口調で説明を始めた。
「この松和荘は賃貸アパートですが、実体は下宿のようなものです。共用部の利用は自由ですが、使い終わった後の片づけは各自で行うのがルールです」
「ちなみに、お掃除は当番制ではございませんので、ご安心くださいね」
 お茶を配り終えて下がろうとしていた文が、そう付け足して去っていく。
「共用部の掃除は彼女がやってくれます。ただし、各部屋の掃除は居住者本人に行っていただきますので」
 寮でも同じルールだから、そこは問題ない。むしろ個別に使える風呂とトイレがついている分、今より快適なくらいだ。
「部屋にキッチンはありませんが、一階の厨房と食堂が自由に使えます。あと、料理が生きがいという住人がいるので――岡さんというんですが、彼女にお願いすれば格安で朝食と夕食を作ってくれます。美味しいですよ」
 簡素ながら実感の篭ったコメントからして、恐らく彼女もその人にお願いしているのだろう。
「それで、今空いている部屋なんですが、すぐ入れるのは確か……」
「一〇一号室ですわ。はい、鍵をお持ちしました」
 実にタイミングよくやってきた文から、驚いた様子もなく鍵を受け取る香澄。息の合ったやり取りは、まるで長いこと連れ添った夫婦のようだ―なんて言ったら、きっと怒られてしまうだろう。
「何か?」
「い、いえ。今住んでいる部屋も一〇一号室なんで、奇遇だなーって」
 慌てて誤魔化せば、文が「まあ!」と手を叩いて愉快そうに笑った。
「運命的ですわね!」
 少女漫画に出てきそうな台詞も、彼女が口にするとなんとも可愛らしい。
「じゃあ、ご案内しましょうか」
「は、はい!」
 折角のお茶を無駄にするのはもったいなくて、ぐびりと一気に飲んで立ち上がれば、お盆を手に控えていた文と目が合って、にっこりと微笑まれた。
「あとでお代わりと、とっておきのお茶菓子をお持ちしますからね」
 君に決めた! じゃない。ここに決めた! と叫びたい。そんな瞬間だった。
 いやいやいや。そうじゃないだろう。そう自分でツッコミを入れ、どうにか冷静さを装って、香澄の後を追いかける。
 応接室を出れば、玄関から奥の勝手口までを貫く長い廊下。応接室のすぐ隣は階段になっていて、目的地の一〇一号室はその隣だ。
 まるで昔の映画に出てくるような、古めかしいナンバープレートのついたドア。鍵だけは新しいものに交換しているようで、香澄は今時流行りのディンプルキーを鍵穴に差し込んで、がちゃりと回し――。
「やだァ、入る時はノックしてって言ったじゃなぁい」
 ねっとりとしたバリトンボイスとともに、扉を突きぬけて顔を出した『髭面の美女』に、侑斗だけがひぃっと奇声を上げて硬直し――そして残る女性陣の非難めいた視線は、侑斗の真後ろにいた道端へと集中したのであった。

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